第一章 色彩の喪失
水野蒼(みずの あお)の世界は、いつだって色彩に満ち溢れていた。物心ついた時から、彼には人の感情がオーラのような淡い光の「色」として見えた。喜びは弾けるような黄色、悲しみは静かに滲む藍色、怒りは燻るような深紅。言葉よりも雄弁なその光は、蒼にとって世界の真実そのものだった。
特に、家族と囲む食卓は、彼にとって最も心安らぐ色彩のパレットだった。仕事の話をしながらも、どこか誇らしげな父の体は、落ち着いた橙色に縁取られている。蒼の他愛ない話に相槌を打つ母からは、優美な桜色がふわりと立ち上る。冗談を言っては食卓を沸かせる高校生の妹、ひかりは、いつも快活な向日葵色をきらめかせている。それらの色が混じり合い、温かな光となってダイニングを満たす。それが、蒼にとっての「家族」の原風景だった。
その日も、いつもと変わらないはずの夕食だった。母の作った肉じゃがの甘い香りが湯気と共に立ち上り、テレビからは気の抜けたクイズ番組の音声が流れている。
「蒼、大学はどうだ?ちゃんと講義に出てるのか?」
父が、少し煮崩れたじゃがいもを箸で割りながら尋ねる。いつもの光景だ。しかし、蒼は言葉を返すことができなかった。スプーンがカチャンと皿に落ち、乾いた音を立てる。
色がない。
父の体から、いつも見えていたはずの橙色が、跡形もなく消え失せていた。それだけではない。穏やかな笑顔を向ける母も、不思議そうにこちらを見る妹も、まるで古いモノクロ映画の登場人物のように、一切の色をまとっていなかった。彼らの感情を示す光が、忽然と消えていたのだ。
「どうしたの、兄さん?顔色が悪いよ」
ひかりが心配そうに眉を寄せる。その声色には気遣いが滲んでいるのに、彼女の体は無機質な灰色の濃淡でしかない。蒼の目には、家族が精巧に作られた人形のように映った。彼らはいつも通りに笑い、話し、食事をしている。しかし、その内側にあるはずの感情の灯火が、完全に消えている。
「……いや、なんでもない。ちょっと疲れてるだけかも」
蒼はなんとか声を絞り出した。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。これは何かの間違いだ。自分の能力がおかしくなったのだろうか。彼は混乱する頭で、窓の外に目をやった。家路を急ぐ人々の姿が見える。彼らは、それぞれに様々な色を放っていた。安堵の緑、疲労の灰色、期待に満ちた金色。世界は、いつも通りの色彩を保っている。
異常なのは、この食卓だけ。この家にいる、三人の家族だけだ。
肉じゃがの味はしなかった。テレビの音も、家族の会話も、遠い世界の出来事のように耳をすり抜けていく。かつては世界で最も温かい場所だったはずの食卓は、今や色のない静寂に支配された、底知れない孤独の空間へと変貌していた。蒼は、見えないガラスの壁で、たった一人、家族から隔てられてしまったような感覚に囚われていた。
第二章 仮面との対話
翌日から、蒼の静かな戦いが始まった。彼は、家族から色が消えた原因を必死で探ろうとした。何かの病気だろうか。それとも、家族が何か重大な秘密を隠していて、そのストレスが原因なのだろうか。しかし、彼の探りはことごとく空振りに終わった。
「父さん、最近、何か悩み事とかない?」
書斎で新聞を読んでいた父に、蒼はさりげない口調で尋ねてみた。父は老眼鏡の奥から穏やかな目を向ける。
「悩み事?いや、特にはないが。会社も順調だしな。どうしたんだ、急に」
父の言葉は平坦で、その表情からは何も読み取れない。もちろん、感情の色もない。蒼には、父がただ事実を述べているのか、それとも巧みに本心を隠しているのか、全く判別がつかなかった。
母にも試した。スーパーの帰り道、重い荷物を持ってやりながら、「母さんこそ、疲れてない?無理してない?」と尋ねた。
「あら、心配してくれるの?嬉しいわ。でも大丈夫よ、いつも通り元気だから」
母は優しく微笑む。その笑みは完璧だった。完璧すぎて、まるで能面のようだった。温かな桜色を失ったその笑顔は、蒼の心をむしろ冷たくさせた。
妹のひかりは、最も分かりやすいはずだった。感情がすぐに顔に出る彼女は、隠し事などできない性格だ。しかし、部活のことで楽しそうに話す彼女からも、あの快活な向日葵色は見えない。蒼が「本当に楽しい?」と意地悪く尋ねても、「当たり前じゃん!なんでそんなこと聞くの?」と屈託なく笑うだけだった。
家族は、まるで示し合わせたかのように「いつも通り」を演じている。だが、その言葉や表情には、かつてのような色彩の裏付けがない。蒼は、言葉というツールの不確かさを、生まれて初めて痛感していた。これまで彼は、色という絶対的な指標に頼って、人とコミュニケーションをとってきた。相手の言葉が嘘でも、色が真実を教えてくれた。しかし今、そのコンパスを失った彼は、家族という最も近しい存在の海で、完全に道を見失っていた。
大学の友人たちと話している時だけが、唯一の救いだった。彼らの体からは相変わらず様々な色が溢れ出ていて、蒼は自分が異常ではないことを確認できた。だが、それも一時の安らぎでしかない。家に帰れば、再びあの色のない世界が待っている。
次第に、蒼は家族と顔を合わせるのが苦痛になっていった。彼らの言葉の一つ一つを疑い、表情の裏に隠された真意を探ろうと神経をすり減らす。食卓での会話は減り、蒼は自室に籠もることが多くなった。家族はそんな蒼を心配しているようだったが、その心配に色が伴わない以上、蒼には彼らの気遣いさえも空々しいものに感じられた。
かつて色彩に満ちていた家は、静かで息苦しい箱になった。蒼は、自分が家族の中で異物になってしまったような、深い疎外感に苛まれていた。
第三章 無色透明の盾
その夜、蒼は眠れずに自室の本棚を整理していた。苛立ちを紛らわせるための、半ば無意識の行動だった。本棚の奥から、埃をかぶった分厚いアルバムが滑り落ちる。それは、彼が生まれてから小学生になるまでの写真が収められた、家族の記録だった。
懐かしさに駆られ、ページをめくっていく。七五三、初めての運動会、家族旅行。どの写真の中でも、両親と、まだ赤ん坊のひかりは、幸せそうに笑っている。蒼は、その温かい光景に少しだけ心を慰められた。しかし、ある一枚の写真に目を留めた瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。
それは、彼が五歳くらいの頃、近所の公園で撮られた写真だった。父と母に手を引かれ、真ん中に立つ幼い蒼。しかし、その写真の中の父と母は、今と同じように、全く色をまとっていなかった。彼らは笑顔を浮かべているが、その姿はモノクロだ。そして、二人に挟まれた幼い蒼の体からは、怯えと混乱を示す、濁った青い色が激しく立ち上っていた。
「……どうして」
蒼の口から、か細い声が漏れた。この現象は、今に始まったことではなかったのか。忘却の彼方に沈んでいた記憶の扉が、軋みながら開くのを感じた。
その時、静かに部屋のドアが開き、母が入ってきた。
「蒼、まだ起きていたの?」
彼女は蒼の手元にあるアルバムに気づくと、一瞬、息を呑んだように見えた。そして、諦めたような、それでいて覚悟を決めたような、静かな表情で蒼の隣に座った。
「その写真、覚えていないでしょうね」と母は言った。
「あの頃、あなたは……とても苦しんでいたから」
母の口から語られた真実は、蒼の想像を遥かに超えるものだった。
蒼の能力は、物心ついた時から家族全員が気づいていた。最初は、感受性の強い子なのだと思っていた。しかし、蒼が他人の悪意や憎しみの色――どす黒い赤や淀んだ灰色――に触れるたびに、まるで自分のことのように苦しみ、高熱を出して魘される姿を見て、これはただ事ではないと悟ったのだという。
決定的な出来事は、あの公園の写真が撮られた日に起きた。近所で陰湿ないじめがあり、その現場を偶然通りかかった蒼は、加害者の持つ悪意の色と、被害者の絶望の色を同時に浴びてしまった。その強烈すぎる負の感情に呑まれた蒼は、心を固く閉ざし、一週間、誰とも口を利かなくなった。ただ、怯えた青い色を放ちながら、部屋の隅で震えているだけだった。
「私たちは、どうすればあなたを守れるのか、必死で考えたわ。医者にも相談した。でも、誰も信じてくれなかった」
母の声は、静かだが震えていた。
「そして、お父さんが気づいたの。あなたの能力は、強い感情に反応する。ならば、もし私たちが、あなたに対する感情を、たった一つに絞り込めたら……あなたを乱す他の色を、見せなくすることができるんじゃないかって」
それは、あまりにも途方もなく、無謀な試みだった。しかし、他に術のなかった両親は、それに賭けるしかなかった。
彼らが選んだ、たった一つの感情。それは、「蒼を愛し、守る」という、純粋で絶対的な意志。
「私たちは、毎晩、必死で心を合わせたの。あなたへの愛情だけを胸に満たして、他の全ての感情……心配も、不安も、日々の小さな喜びや苛立ちさえも、その奥深くに沈めた。それは、心を無にする修行のようだったわ」
その結果、彼らの感情は、あらゆる色が混じり合って光になるのとは逆に、あらゆる不純物を取り除いた「無色透明」な状態になった。それは、蒼の目には「色が消えた」ように見えたのだ。色の喪失は、感情の欠如ではなかった。それは、蒼を外部の有害な色彩から守るための、家族が作り上げた「無色透明の盾」であり、究極の愛情表現だった。
「最近、あなたが大学の人間関係で悩んでいるように見えたから……。また昔のように、あなたが傷ついてしまうんじゃないかって、怖くなったの。だから、また……盾になったのよ。ごめんなさい、あなたを不安にさせてしまったわね」
蒼は、言葉を失っていた。自分が感じていた孤独や不信感。家族との間に感じていた冷たい壁。その全てが、自分を守るための、家族の血の滲むような努力の結果だったのだ。無機質な仮面だと思っていた笑顔の裏には、これほどまでに深く、痛切な愛が隠されていた。
頬を、熱い雫が伝っていくのが分かった。それは、悲しみでも喜びでもない、今まで感じたことのない、温かくてしょっぱい涙だった。
第四章 再び灯る色
涙が止まらなかった。それは、自分の愚かさに対する悔恨と、家族の計り知れない愛情に対する感謝が入り混じった涙だった。今まで自分は、目に見える「色」という現象に囚われ、その奥にある本質を見ようとしてこなかった。家族が向けてくれていた無償の愛という、最も純粋で、最も強い光を、見落としていたのだ。
「……ありがとう」
蒼は、嗚咽の合間に、ようやくそれだけを口にした。母は何も言わず、ただ優しく蒼の背中を撫でていた。その手は、色こそ見えないが、確かな温もりを持っていた。
翌日の夕食。蒼は、リビングに集まった家族の前に、まっすぐに立った。父も母も、そして事情を知らないはずのひかりも、どこか緊張した面持ちで彼を見ている。
「父さん、母さん、ひかり。今まで、ごめん。そして、ありがとう」
蒼は深く頭を下げた。
「僕、ずっと勘違いしてた。みんなの気持ちが分からなくなったって、一人で孤独に感じてた。でも、違ったんだね。みんな、僕のこと……ずっと守ってくれてたんだ」
彼の言葉に、父は驚いたように目を見張り、母はそっと目元を拭った。ひかりだけが、きょとんとした顔で兄と両親を交互に見ている。
蒼は顔を上げ、三人一人一人の顔をしっかりと見つめた。
「もう大丈夫だから。僕はもう、昔の僕じゃない。たとえ嫌な色を見たとしても、それに負けたりしない。それに……みんなの色が見えなくても、ちゃんと信じられる。言葉や、表情や、行動で、みんなが僕を大事に思ってくれてるって、今なら分かるから」
それは、蒼が色に頼らず、自分の心で紡ぎ出した、初めての真実の言葉だった。
その瞬間、奇跡が起きた。
まるで、凍てついた大地に春が訪れたかのように。父の体から、頼もしい橙色の光が、おそるおそる滲み出し始めた。母からは、安堵と慈愛に満ちた、柔らかな桜色がふわりと香り立つ。そして、状況を飲み込んで、嬉しそうに破顔したひかりの体から、弾けるような向日葵色が、ぱっと咲き誇った。
食卓に、再び色が戻ったのだ。
しかし、その色彩は、以前とは少し違って見えた。それは単一の色ではなく、心配という名の青、安堵の緑、そして変わらぬ愛情の赤が複雑に織り混ざった、より深く、美しいグラデーションを成していた。無色透明の盾の奥に沈められていた、ありのままの感情の色だった。
「兄さん……おかえり」
ひかりが、涙ぐみながら言った。
その日の食卓は、今までで一番、色鮮やかで、そして温かかった。蒼は、もう色に一喜一憂することはなかった。色は感情を知るための手がかりの一つにすぎない。本当に大切なのは、その奥にある、目には見えない想いそのものであることを、彼は知ったのだから。
窓から差し込む夕日が、食卓を囲む四人を、そして彼らが放つ優しい光を、祝福するように包み込んでいた。蒼の世界は、本当の意味で、豊かな色彩を取り戻したのだった。