第一章 硝子の浜辺と声なき歌
水島湊が意識を取り戻した時、頬に触れるのは冷たく滑らかな感触だった。目を開けると、視界いっぱいに広がるのは、銀色にきらめく砂浜。しかし、それは砂ではなかった。指でつまみ上げると、陽光を乱反射するのは無数のガラスの粒だった。角は波に削られて丸くなっているものの、その非現実的な光景は、ここが自分の知るどの場所でもないことを雄弁に物語っていた。
空を見上げると、淡い水色の天蓋に、二つの月が浮かんでいた。一つは満月のように白く輝き、もう一つは鋭利な刃物で抉られたかのように、半分が闇に沈んでいる。そして、最も奇妙だったのは、音の不在だ。目の前では、乳白色の波が寄せては返し、ガラスの砂を掻き混ぜているというのに、耳に届くのは完全な沈黙だけ。潮騒も、風の音も、鳥の声すらしない。まるで世界から音だけが抜き取られてしまったかのようだった。
「どこだ、ここは……」
掠れた声が、やけに大きく響く。湊はゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。見渡す限り、硝子の浜辺と静かな海が続いている。背後には、風化した岩が点在する緩やかな丘陵地帯が広がっていた。記憶がひどく曖昧だ。自分がなぜここにいるのか、直前に何をしていたのか、全く思い出せない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、耐え難い喪失感が渦巻いている。何かを、誰かを、決定的に失ってしまったという確信だけが、冷たい錨のように心を沈めていた。
不意に、あるメロディの断片が頭をよぎった。それは、妹がよく口ずさんでいた、拙くも優しい鼻歌だった。いつも隣で聞こえていたはずの、その音が、今はどこにもない。その事実に気づいた瞬間、喪失感の正体が輪郭を結び、鋭い痛みとなって湊の胸を貫いた。
思い出せない。妹の顔が、声が、名前さえも。
この静寂の世界は、湊の内面に広がる空虚そのもののようだった。彼は理由もわからぬまま、音のない波打ち際を歩き始めた。ガラスの粒が擦れ合う微かな音だけが、自分がまだ存在していることを証明していた。どこへ向かうべきかもわからず、ただ、この息苦しい静寂から逃れたい一心で。
第二章 錆びた展望台のスケッチブック
どれくらい歩いただろうか。硝子の浜辺はどこまでも続き、景色に変化はなかった。疲労と混乱が湊の思考を鈍らせていく。その時、丘の上に、赤錆に覆われた鉄の構造物があるのが見えた。らせん階段を持つ、古い展望台だった。
なぜだろう。その展望台を見た瞬間、心臓が大きく跳ねた。懐かしい、という言葉では足りない、魂の一部がそこにあるかのような強烈な引力。湊は吸い寄せられるように丘を登り始めた。足元のガラス片が、時折、鈍い光を放つ。
展望台は、潮風に長年晒されたかのように、至る所が腐食していた。軋む鉄の階段を一段ずつ上るたびに、胸の痛みが強くなる。展望スペースの床には、一冊のスケッチブックが落ちていた。表紙は色褪せ、角は擦り切れている。湊はそれに手を伸ばすことに、言いようのない恐怖と期待を感じていた。
震える指でページをめくる。そこに描かれていたのは、子供の拙いクレヨンの絵だった。灯台、公園のブランコ、三毛猫、ひまわり畑。どれも、どこかで見たことがある風景ばかりだった。一枚めくるごとに、頭の奥で眠っていた記憶の扉が、錆びた蝶番を軋ませながら少しずつ開いていく。
「ミナト兄ちゃん、見て! お月様が二つあるみたい!」
幼い少女の声が、脳内に直接響いた。展望台の望遠鏡を覗き込み、隣のレンズに映った自分の顔を見てはしゃぐ妹の姿。そうだ、ここは昔、妹と何度も来た場所だ。本物の展望台は、こんなに錆びてはいなかったはずだが。
スケッチブックのページをさらに進めると、二人の子供が手をつないでいる絵が現れた。背の高い男の子と、少し背の低い女の子。男の子の顔は描かれているのに、女の子の顔の部分だけが、なぜか黒く塗りつぶされていた。
「どうして……思い出せないんだ」
湊は頭を抱えた。大切な、誰よりも大切だったはずの存在。その顔だけが、記憶の闇に溶けている。この世界は、明らかに自分の記憶と深く結びついている。だが、その核心部分は、厚い壁に閉ざされているようだった。この世界の謎を解く鍵は、失われた妹の記憶にある。湊は確信した。彼はスケッチブックを強く抱きしめ、失われた顔を取り戻すことを心に誓った。
第三章 音なき世界の真実
スケッチブックを手に、湊は再び歩き始めた。絵に描かれていた場所を辿るように、丘を越え、枯れたひまわり畑を抜けた。どの風景も、色褪せたセピア色の記憶のように、生命力に欠けていた。そして、どこまで行っても、世界は沈黙を保ったままだった。
やがて、湊はスケッチブックの最後のページに辿り着いた。そこに描かれていたのは、これまでとは全く異質な絵だった。横断歩道。点滅する信号機。そして、ページを斜めに引き裂くように描かれた、一台の黒い車の軌跡。その絵に指が触れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
―――耳を劈くようなブレーキ音。衝撃。ガラスの砕け散る音。
封印されていた記憶の奔流が、堰を切ったように湊の脳内へとなだれ込んできた。
あの日、湊と妹の海(うみ)は、画材を買いに出かけた帰り道だった。海は新しいスケッチブックを嬉しそうに抱え、例の鼻歌を口ずさんでいた。横断歩道を渡ろうとした時、信号を無視した車が猛スピードで突っ込んできたのだ。湊を突き飛ばし、盾になった海の小さな体。飛び散るヘッドライトの破片が、夕陽を浴びて、無数のガラスの粒のように煌めいた。
耳鳴りが世界から音を奪い、湊の視界には、アスファルトに広がる海の赤い色と、砕けたガラスだけが映っていた。空には、一番星と、それを追いかけるように昇ってきた月が見えた。まるで、二つの月のように。
そうか。全て、繋がった。
この音のない世界は、事故直後の、湊がショックで聴覚を失った瞬間の再現だった。足元の硝子の砂は、砕け散ったヘッドライトの破片。空に浮かぶ二つの月。一つは海。そして、欠けたもう一つは、彼女を失い、心の一部が抉り取られた自分自身。この世界は、異世界などではなかった。耐えきれないほどの罪悪感と悲しみから逃れるため、湊自身が無意識に創り出した、記憶の牢獄だったのだ。
真実を思い出した瞬間、世界の風景が滲み、輪郭を失っていく。目の前に、今まで見えなかった人影がゆっくりと浮かび上がった。それは、ずっと顔を思い出せなかった妹、海の姿だった。
第四章 最後の約束
海の姿は、事故の日のままだった。少し汚れたワンピースを着て、スケッチブックを抱えている。しかし、その表情はひどく悲しげで、潤んだ瞳がじっと湊を見つめていた。彼女は何かを伝えようと口を動かすが、やはり声は聞こえない。
「海……」
湊は、ようやくその名を呼ぶことができた。喉から絞り出した声は、嗚咽に濡れていた。
「ごめん……ごめん……俺が、あの時、もっとちゃんと周りを見ていれば……俺のせいで……」
後悔の言葉が次々と溢れ出す。湊は海の前に崩れ落ち、硝子の砂を掻きむしった。何年も、この罪悪感から目を背けてきた。忘れることで、自分を守ろうとしてきた。だが、その結果、彼は海との大切な思い出までも、この静寂の世界に閉じ込めてしまったのだ。
海は静かに首を横に振った。そして、そっと湊の隣に座ると、自分のスケッチブックの最後の、真っ白なページを指差した。
『生きて』
その唇の動きは、はっきりとそう告げていた。声はなくとも、その想いは痛いほどに伝わってきた。海は、湊が自分を責め、時間を止めてしまうことを望んではいなかった。彼女は、兄に生きてほしかったのだ。自分の分まで。
湊は涙を拭い、海のスケッチブックではなく、自分が展望台で見つけた古いスケッチブックを開いた。最後のページは、まだ空白だった。彼はポケットを探り、いつの間にかそこに入っていた、短くなった鉛筆を握りしめた。
震える手で、一文字一文字、心を込めて書きつける。
『ごめん。そして、ありがとう。もう、大丈夫だよ。兄ちゃんは、ちゃんと生きるから』
書き終えた鉛筆を置いた時、目の前の海が、初めてふわりと微笑んだ。その笑顔は、湊の記憶の中にあった、太陽のような明るい笑顔そのものだった。
海の姿が、足元から光の粒子となって溶け始める。彼女は湊に向かって小さく手を振ると、完全に光の中に消えていった。
それと同時に、世界が変わり始めた。足元の硝子の砂は、温かい本物の砂浜へ。音のなかった波は、優しい潮騒となって耳に届き始めた。空を見上げると、欠けていた月は満ちていき、もう一つの月と並んで、世界を優しく照らしていた。世界が、湊の心が、ようやく癒されていく。
意識が遠のく中、湊は久しぶりに、心の底から安らかな気持ちになっていた。最後に聞こえたのは、懐かしい妹の鼻歌だった。
目を覚ますと、そこは自分の部屋のベッドの上だった。窓から差し込む朝の光が眩しい。小鳥のさえずり、遠くを走る車の音。失われていた現実世界の音が、こんなにも鮮やかだったことに気づく。
湊はゆっくりと体を起こした。机の上に、一冊の古びたスケッチブックが置かれているのが目に入った。それは、幼い頃に海と二人で使っていたものだ。恐る恐る手に取り、最後のページを開く。そこには、自分の震える字で、こう書かれていた。
『もう大丈夫だよ』
その文字を見た途端、涙が止めどなく溢れ出した。しかし、それはもう、冷たい後悔の涙ではなかった。温かい、感謝と決意の涙だった。湊は窓を開け放ち、新しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。