第一章 沈黙の世界と囁く飢餓
水無月湊(みなづき みなと)の世界は、紙とインクの匂いで満たされていた。図書館司書として働く彼は、現実の人間関係よりも、物語の登場人物との対話に安らぎを見出す青年だった。彼の指先は、古い本の脆いページをめくる感触を、誰よりもよく知っていた。
その日、湊は神保町の古書市で、奇妙な一冊の本と出会った。分厚い革の表紙には何の装飾もなく、ページを開いても、そこには文字ひとつ、染みひとつない、ただただ真っ白な羊皮紙が続くだけだった。まるで、これから紡がれる物語を待ちわびているかのように。何かに憑かれたようにその本を買い求め、自室で再びその白いページに触れた瞬間、湊の意識はインクが水に溶けるように拡散し、そして途絶えた。
次に目を開けた時、彼は見知らぬ場所に立っていた。そこは、無限に続くかのような書架に囲まれた、巨大な図書館だった。しかし、彼の知る図書館とは決定的に違っていた。空中に舞う埃は光の筋の中で静止しているかのようで、音が一切存在しないのだ。自分の呼吸音も、心臓の鼓動すらも聞こえない。完璧な沈黙が、空間を支配していた。
そして、人々がいた。彼らは皆、生気のない瞳で、ただぼんやりと虚空を見つめている。誰かが歩いても足音はせず、ページをめくっても紙の擦れる音はしない。彼らはまるで、物語を失った本のようだった。
その時、湊の腹の底から、奇妙な飢餓感が突き上げてきた。それは食物への渇望ではない。もっと根源的で、精神的な飢えだった。ふらつきながら一人の老人に近づき、思わずその肩に触れた瞬間、奔流が湊の脳内に流れ込んできた。
――陽だまりの中、妻と笑い合った午後。初めて息子を腕に抱いた時の、震えるような喜び。熱い紅茶の湯気。焼き立てのパンの香り。
それは、老人の「記憶」だった。圧倒的な情報量と感情の渦に、湊は悲鳴を上げた。しかし、声は出ない。飢餓感は最高潮に達し、彼は意識を失うまいと、その記憶の奔流を必死に「飲み込んだ」。まるで渇いた喉で水を飲むように。
飢えが満たされると同時に、恐ろしい変化が起きた。湊の腕の中にあったはずの、あの文字のない本がひとりでに開き、真っ白だったページに、今しがた彼が飲み込んだ老人の記憶が、美しい物語となってひとりでに綴られていくではないか。そして、目の前の老人は、さらに虚ろな瞳で湊を見つめ、ゆっくりと立ち去っていった。その顔からは、幸福も、悲哀も、全ての感情が抜け落ちていた。
湊は戦慄した。自分は、他人の記憶を「食べる」能力を得てしまったのだ。そして、食べた記憶は、元の持ち主から永遠に失われるのだと。この沈黙の世界で、彼は物語を喰らう、孤独な捕食者になったのだった。
第二章 記録者という名の罪と罰
「あなたは……外から来た人?」
か細い、しかし確かな意志を持った声が、湊の思考を中断させた。声の主は、書架の影にうずくまる一人の少女だった。この音のない世界で、彼女だけが「言葉」を発していた。少女はリラと名乗った。彼女の瞳には、他の人々にはない、微かな光が宿っていた。
リラの話によれば、この世界「アニムス・リブラ」は、かつて音と色彩、そして豊かな物語に満ちていたという。しかし、いつからか「沈黙の病」が蔓延し、人々は次々と記憶と感情を失い、世界から色が褪せていった。リラもまた、その病に蝕まれつつあり、大切な記憶が日々、砂の城のように崩れていくのを感じていた。
「お願い……私の記憶が、完全に消えてしまう前に……」リラは震える手で、湊の本を指さした。「その本に、残してはもらえない?」
湊は葛藤した。記憶を食べることは、相手からそれを奪うことだ。それは救済ではなく、略奪ではないのか。しかし、リラの瞳に浮かぶ、消えゆくことへの恐怖を前にして、彼は否とは言えなかった。消え去るくらいなら、物語として永遠に記録する。それは、自分にしかできない役割なのかもしれない。湊は自分を「記録者」と呼ぶことにした。
彼はリラの小さな記憶から食べ始めた。母が編んでくれた花冠の記憶。触れると、ラベンダーの優しい香りが鼻腔をくすぐり、指先にかすかな温もりが宿る。それを食べると、リラの顔から花冠の思い出は消えたが、代わりに彼女の頬に僅かな血の気が戻った。湊の本には、紫色の花々が咲き乱れる挿絵と共に、母と娘の愛情の物語が記された。
次に、父が教えてくれた歌の記憶。その拙いメロディを食べると、世界に存在しなかったはずの音が、湊の頭の中にだけ響き渡った。リラはもうその歌を口ずさめなくなったが、その代わりに、彼女の足取りは少しだけ軽くなった。本には、美しい五線譜が踊るページが加わった。
湊は、様々な人々の消えかけの記憶を食べ続けた。初恋の甘酸っぱい痛み。友と交わしたくだらない約束。雨上がりの虹を見た時の感動。食べるたびに、彼の本は厚みと彩りを増し、人々の生きた証である物語で満たされていった。彼は、この行為に一種の神聖さすら感じ始めていた。自分は失われゆく魂の救済者なのだ、と。だが、その思い上がりが、取り返しのつかない事態を招くことを、彼はまだ知らなかった。
第三章 破滅の物語と世界の真実
リラの衰弱は、記憶を食べるごとに僅かに回復するものの、根本的な解決には至らなかった。むしろ、彼女の存在そのものが、日に日に希薄になっていくように感じられた。まるで、ロウソクの炎が消える前の、最後の一瞬の輝きのようだった。
「湊……私の一番、大事な記憶……食べてくれる?」ある日、リラは力なく微笑み、そう言った。「私が、私であるための、最後の記憶だから」
湊は頷いた。これを食べれば、リラはきっと救われる。彼女の根源を記録することで、彼女の魂は永遠に本の中で生き続けるのだ。彼は決意を固め、リラの額にそっと手を触れた。
流れ込んできたのは、単なる個人の記憶ではなかった。それは、この世界の創生に関わる、壮大な叙事詩だった。
――かつて、この世界アニムス・リブラは、人々の想像力と物語の力「マナ」によって成り立っていた。人々が物語を紡げば、世界は豊かになり、花が咲き、音楽が生まれた。しかし、力は常に危険を伴う。ある時、あまりにも強大な悲しみと憎しみから、「破滅の物語」が生まれてしまった。それは世界そのものを喰らい尽くし、無に帰す力を持っていた。
世界の終わりを前にして、一人の女性が立ち上がった。彼女こそが、初代の「記録者」。リラの祖先だった。彼女は、破滅の物語の源である人々の強い感情や記憶そのものを「食べる」ことで、物語の力を封印する道を選んだ。人々から記憶と感情を奪い、世界を沈黙させること。それが、世界を救うための、あまりにも悲しい代償だったのだ。
そして、湊は真実の核心に触れて凍りついた。リラこそが、初代の血を最も濃く受け継ぐ者。彼女自身が、無意識のうちに新たな「破滅の物語」を紡ぎ出しかねない、不安定な力の器だった。彼女の衰弱は病などではなく、内なる強大な力を、自らの生命力で必死に抑え込んでいる証だったのだ。
湊がこれまでしてきたことは、全てが間違いだった。リラの記憶を食べる行為は、彼女を助けるどころか、力の封印を一つ一つ解き放ち、世界の均衡を崩す行為に他ならなかった。善意と信じていた全てが、世界を破滅へと導く引き金だったのである。
絶望が湊を打ちのめした。彼は救済者などではなかった。無知で傲慢な、ただの破壊者だったのだ。
第四章 君に贈る物語
世界の真実と、自らが犯した過ちの重さに、湊は膝から崩れ落ちた。どうすればいい。何をすれば、この過ちを償える。リラを生かせば、世界が滅びる。世界を救うには、彼女の存在そのものを消し去らなければならないのか。
彼の腕の中で、これまで集めてきた物語が詰まった本が、ずしりと重く感じられた。ページには、老人の温かい思い出、恋人たちの甘い囁き、家族の笑い声が、美しい言葉と絵で満ちている。これらは全て、自分が奪ってきたものだ。だが、同時に、彼が守りたかったものでもある。
その時、一つの答えが、湊の中に閃光のようにひらめいた。「食べる」だけが、この力の使い方ではないのかもしれない。
湊は立ち上がり、虚ろな目で彼を見つめるリラに向き合った。そして、物語で満たされたその本を、彼女の胸にそっと押し当てた。
「リラ、読んでくれ」
彼がそう囁いた瞬間、本は眩い光を放った。湊がこれまで「食べた」全ての記憶が、物語の奔流となってリラの中に流れ込んでいく。それは、彼女から奪った記憶ではない。この世界に生きた、名もなき人々の、ささやかで、しかし宝石のように美しい愛と希望の物語の数々だった。
「破滅の物語」ではない。生きることの素晴らしさを伝える、無数の温かい物語が、リラの内なる強大な力を満たしていく。彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。失われた感情を取り戻した、歓喜の涙だった。彼女の中で渦巻いていた破壊の力は、新たな物語の力によって鎮められ、創造のエネルギーへと昇華されていった。
世界に、ゆっくりと変化が訪れる。沈黙を破り、微かな風の音が生まれた。人々の顔に、困惑と、そして微かな感情の色が戻り始めた。
役目を終えた本は、湊の手の中で光を失い、再び元の、真っ白なページに戻っていく。同時に、湊の身体もまた、透き通り始めていた。力の譲渡は、彼がこの世界に留まるための楔を失うことを意味した。目の前に、元の世界へと続く、光の扉が現れる。
「湊……!」
リラが、彼の名前を呼んだ。はっきりとした、音として。
「行かなくちゃ」
湊は微笑んだ。その顔には、後悔も絶望もなかった。
「君の物語を、紡いでいって。この世界を、美しい物語で満たしてあげて」
「嫌だ!行かないで!あなたのことを忘れたくない!」
リラの叫びが、生まれ変わった世界に響き渡る。
「大丈夫だよ」湊は彼女の涙を拭った。「僕も、君のことは忘れない」
しかし、彼は知っていた。扉をくぐるための最後の代償は、この世界での全ての記憶を「置いていく」ことだった。
光に包まれながら、湊は最後にリラの笑顔を見た。ありがとう、と口が動いた気がした。
ふと、水無月湊は我に返った。そこは自室の机の前だった。窓の外は夕暮れ。一体どれくらいの間、ぼうっとしていたのだろう。手元には、古書市で買ったはずの、文字のない真っ白な本が一冊、開かれている。
なぜだろう。何も思い出せないのに、胸の奥が、温かいような、ひどく切ない感情で締め付けられる。本のページに、一滴の涙が落ちて染みを作った。自分が泣いていることに、湊はそこで初めて気づいた。
彼は理由も分からぬまま、その真っ白な本を強く抱きしめた。まるで、失くしてしまった何よりも大切な物語を探すように。その腕の温もりだけが、彼が誰かのために何かを成し遂げた、唯一の証だった。