忘却屋と空っぽのガラス玉

忘却屋と空っぽのガラス玉

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第一章 空のガラス玉

深町湊(ふかまち みなと)の仕事場は、静寂と微かな光で満ちていた。壁一面に設えられた棚には、大小様々なガラス玉が納められている。ひとつひとつに、誰かが捨てた記憶が封じ込められていた。ある玉は鈍い鉛色に淀み、またある玉は怒りの深紅色に明滅している。湊は、人々が耐えきれなくなった記憶を預かり、保管する「忘却屋」だ。

触れるだけで、その記憶を追体験できる。だからこそ、湊は客の記憶に深入りせず、ただガラス玉に封じ込めて棚に収めるだけの、機械的な作業に徹していた。感情は、この仕事の邪魔になる。それが彼の信条だった。

その日、店のドアベルがちりん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。陽の光を吸い込んだような、温かい色のカーディガンを羽織っている。

「忘れたい記憶がおありで?」

湊はいつも通りの無機質な声で問いかけた。老婆――千代(ちよ)と名乗った――は、ゆっくりと首を横に振った。その顔には、深い皺が穏やかな地図のように刻まれている。

「いいえ。忘れてしまった記憶を、思い出したいのです」

湊の眉が微かに動いた。忘却屋は記憶を消す場所だ。取り戻す場所ではない。前代未聞の依頼に、湊は断りの言葉を口にしかけた。だが、千代が震える手でカウンターに置いたものを見て、言葉を失う。

それは、一つのガラス玉だった。しかし、中に封じられているはずの記憶の色がない。完全に透明で、まるでただのガラスの塊だ。湊がこれまで扱ってきたどの記憶とも違う。しかし、手に取ると、冬の陽だまりのような微かな温もりが伝わってきた。

「これは……お客様が以前、ここで預けられたものですか?」

「さあ……覚えていないのです。でも、これがとても大事なものだった、ということだけは分かる。この中には、私の人生で一番幸せだった時間が詰まっているはずなのです。なのに、思い出せない。どうか、この記憶を私に返してくださいませんか」

空っぽに見えるガラス玉と、必死に訴えかける老婆。湊の築き上げてきたルールと日常が、音を立てて軋み始めた。このガラス玉は一体何なのか。なぜ、記憶を捨てたはずの人間が、それを取り戻しに来たのか。前例のない謎が、湊の心を捉えて離さなかった。彼は長い沈黙の末、固く閉ざしていたはずの心の扉を、ほんの少しだけ開ける決意をする。

「……分かりました。お預かりします。ただし、お時間はいただきます」

その言葉は、湊自身にとっても予期せぬものだった。

第二章 金木犀の追憶

湊は規則を破り、千代の奇妙な依頼を引き受けた。書庫の奥にある作業台にその透明なガラス玉を置き、彼はそっと指先で触れた。

瞬間、断片的なイメージが脳裏に流れ込んできた。――古いオルゴールの優しい旋律。風に揺れる洗濯物。縁側で日向ぼっこをする猫。そして、鼻腔をくすぐる甘い金木犀の香り。どれも温かく、穏やかで、幸せに満ちた光景だった。しかし、そこに登場する人物の顔には、決まって霧がかかったように靄がかかっている。楽しげな笑い声は聞こえるのに、誰の声なのか判別できない。

「これだけでは……」

手掛かりが少なすぎる。湊は数日後、地図を頼りに千代の家を訪ねた。古いが手入れの行き届いた小さな平屋で、庭には立派な金木犀の木が植わっていた。

「まあ、湊さん。よく来てくださいました」

千代は、まるで旧知の仲であるかのように湊を招き入れた。彼女は軽度の認知症を患っており、話はしばしば過去と現在を行き来した。しかし、湊は急かすことなく、彼女の話に耳を傾けた。湯呑みから立ちのぼるほうじ茶の香りが、部屋の空気を和ませる。

「昔ね、この縁側でよく二人でお茶を飲んだものよ。あの人も、このお茶が好きでね……」

「あの人、とは?」

「……誰だったかしら。でも、とても優しい目をした人だったわ。私に、オルゴールをくれたの」

千代はそう言って、棚の上にある木製のオルゴールを指さした。湊がガラス玉に触れた時に聞いた、あの旋律だった。蓋を開けると、澄んだ音色が静かに流れ出す。それは、遠い日の幸せな記憶を呼び覚ますかのような、切なくも美しいメロディだった。

湊は千代のもとに何度も通った。最初は仕事のため、という義務感だった。だが、彼女のたどたどしい話を聞き、一緒に縁側でお茶を飲むうちに、彼の心に変化が芽生えていた。他人の記憶に触れることで摩耗し、感情に蓋をすることを覚えてしまった心が、千代の持つ温かさに少しずつ溶かされていくのを感じていた。彼女の笑顔は、湊が長い間忘れていた、人との繋がりの温もりを思い出させた。

ある日、湊は自店の古い顧客台帳を調べてみることにした。何十年も前の、紙の記録だ。埃っぽい書庫で、インクの掠れた文字を一つ一つ目で追っていく。そして、ついに見つけた。数十年前の、ある日付のページに、『高坂 千代』という名前があった。依頼内容は『事故に関する記憶の封印』。

やはり、彼女は自ら記憶を捨てていたのだ。だが、なぜ幸せな記憶まで消えてしまったのか。湊は、台帳に記された保管番号を頼りに、店の地下深くにある特別保管庫へと向かった。そこには、忘れ去られることすら許されなかった、重い記憶たちが眠っている。冷たい空気の中、湊は棚の奥から、くすんだ光を放つ一つのガラス玉を探し出した。

第三章 忘却の代償

そのガラス玉は、鈍い灰色の中に、時折、血のような赤黒い閃光が走る、見るからに不吉な代物だった。湊は息を飲み、覚悟を決めてそれに触れた。

次の瞬間、彼の全身を凄まじい衝撃が貫いた。

――土砂降りの雨。ワイパーが懸命に視界を拭うが、夜の闇は深い。ハンドルを握る若い千代の横顔は、緊張でこわばっている。助手席には、若い男が座っていた。彼は、千代の不安を和らげようと、優しい声で話しかけている。その声。湊は聞き覚えがあった。いや、彼の魂が、その声を覚えていた。

「大丈夫だよ、千代さん。僕がそばにいる」

その時だった。カーブの先から、大型トラックのヘッドライトが猛烈な光を放ちながら迫ってきた。千代の短い悲鳴。ハンドルを切る音。金属が軋む、耳を塞ぎたくなるような轟音。そして、助手席の男が、最後の力で千代をかばうように抱きしめた感触。

ガラスの破片が舞い、世界が暗転する直前、湊は見た。助手席の男の顔を。それは、彼が写真でしか見たことのない、若き日の祖父の顔だった。

湊はガラス玉から手を離し、激しく喘いだ。全身から汗が噴き出し、心臓が警鐘のように鳴り響いている。なんだ、これは。どういうことだ。

混乱する頭で、彼は二つの記憶を繋ぎ合わせた。千代が忘れたかった『事故の記憶』。そして、彼女が取り戻したかった『幸せな記憶』。

答えは、残酷なまでに明白だった。千代は、愛する人を自分の運転する車で死なせてしまったという、耐えがたい罪悪感から逃れるために、事故の記憶を封じたのだ。しかし、人間の記憶とは、複雑に絡み合った糸のようなもの。一本を無理に引き抜けば、他の糸まで一緒に解けてしまう。

事故の記憶を消すという行為は、その事故で失われた恋人――湊の祖父――との幸せな思い出まで、彼女の心から奪い去ってしまったのだ。空っぽに見えたガラス玉は、幸せな記憶そのものだった。あまりに辛い記憶を封印した代償として、その記憶と強く結びついていた温かい時間までもが、抜け殻になってしまったのだ。

湊は愕然とした。自分のルーツに関わる、あまりにも重い真実。そして、彼は初めて、自らの仕事の本質的な残酷さを突きつけられた。記憶を消すことは、救いではないのかもしれない。それは、その人間の一部を殺すことと同義ではないのか。これまで無感情にこなしてきた仕事が、途方もなく罪深いものに思えた。棚に並ぶ無数のガラス玉が、まるで声なき魂の墓標のように見えた。

第四章 記憶の在り処

数日間、湊は店を閉めた。自分は何をすべきなのか。千代にこの残酷な真実を伝えるべきか。それとも、彼女が望んだように、幸せな記憶の断片だけを伝えて、このまま穏やかに過ごさせるべきか。答えは出なかった。

悩んだ末、彼は二つのガラス玉を手に、再び千代の家を訪れた。縁側に座る彼女の横顔は、何かを待ち続けているかのように、どこか遠くを見つめている。

「千代さん」

湊は静かに、全てを話した。事故のこと。祖父のこと。そして、なぜ幸せな記憶まで失われてしまったのかを。千代は黙って聞いていた。その目から、一筋、また一筋と涙が流れ落ち、深い皺を伝っていく。

湊は、おそるおそる二つのガラス玉を彼女の手に握らせた。罪悪感に満ちた灰色の玉と、幸せの抜け殻である透明な玉。二つの玉が彼女の掌で触れ合った瞬間、奇跡が起きた。透明な玉に、ゆっくりと色が戻り始めたのだ。金木犀の金色、晴れた空の青色、そして、愛しい人の笑顔のような温かい光。

失われた記憶が、辛い記憶と共に、彼女の中に戻ってきたのだ。

「ああ……思い出した。あの人の名前……直人(なおと)さん……」

千代は嗚咽した。それは絶望の涙ではなかった。何十年という時を経て、罪の記憶と、そしてそれ以上に大きかった愛の記憶を取り戻した、安堵と解放の涙だった。彼女は、震える手で湊の手を握りしめた。

「ありがとう……。これで、やっと……やっと、あの人に会いに行ける。ごめんなさい、と、ありがとうを、伝えにいける」

その微笑みは、湊が見たどんな表情よりも美しく、穏やかだった。

数日後、千代は眠るように安らかに息を引き取ったと、親族から連絡があった。

湊は自分の店に戻り、カウンターの上に、再び透明になったガラス玉を置いた。千代の魂が、記憶と共に解放された証だった。彼はもう、このガラス玉を棚にしまうことはないだろう。これは、彼の仕事の、そして人生の道標なのだから。

人は、辛い記憶も、幸せな記憶も、そのすべてを抱えて生きていく。忘却は救いではない。本当の救いとは、過去のすべてを受け入れ、それでも前を向く強さの中にこそあるのかもしれない。

ドアベルが、ちりん、と鳴った。新しい依頼人だ。湊はゆっくりと立ち上がり、以前とは違う、深みと温かみを帯びた眼差しで客を迎えた。

「いらっしゃいませ。……どのような、記憶ですか?」

その声には、単なる忘却屋の主としてではない、人の痛みに寄り添おうとする、一人の人間の優しい響きが込められていた。彼の仕事場は今も静寂に満ちているが、そこに灯る光は、以前よりもずっと温かく、人間らしいものに変わっていた。

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