忘却師と灯台の記憶

忘却師と灯台の記憶

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第一章 奇妙な依頼人

柏木灯(かしわぎ あかり)の仕事場は、古いビルの片隅にある。看板もなく、ドアには真鍮のプレートに『記憶保管所』とだけ、かろうじて読める文字が刻まれている。彼女の稼業は「忘却師」。依頼人の望む記憶を、その心から綺麗に抜き取り、代わりに自分が引き受けるというものだ。それは呪いのような祝福だった。他人の絶望や後悔を飲み込み続ける代わりに、灯は自身の感情を麻痺させ、孤独という名の鎧を纏って生きていた。

その日、ドアをノックする音は、まるで枯れ葉が地面に落ちるようにか細かった。現れたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月を物語っている。

「忘却師の柏木様でいらっしゃいますか」

老婆――タチバナ・チヨと名乗った――の声は、乾いているが芯があった。灯は無言で頷き、客用の硬い椅子を勧める。

いつもなら、ここに座る人間は一様に暗い顔をしている。愛する者を失った悲嘆、犯した過ちへの自責、裏切られた怒り。灯がこれまで引き受けてきたのは、そんな泥のような記憶ばかりだった。だが、チヨの表情はどこか違っていた。穏やかで、澄み切った水面のような静けさを湛えている。

「お願いしたい儀式がございます」チヨはそう切り出した。「私の記憶を、一つ、消していただきたいのです」

「承知いたしました。どのような記憶を?」灯は事務的に尋ねる。

チヨは少しの間、窓の外の灰色の空を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。

「亡くなった夫と過ごした、人生で最も幸せだった一日。その記憶を、どうか」

灯の指が、カルテをめくる途中で止まった。眉間に微かな皺が寄る。依頼の九割九分は、辛く、苦しい記憶の消去だ。幸福な記憶を、それも「最も」幸せだった記憶を消してほしいなどという依頼は、前代未聞だった。

「…理由をお聞かせ願えますか。当方では、儀式が依頼人様の精神に与える影響を考慮する義務がございます」

灯の問いに、チヨはふわりと微笑んだ。その笑みは、悲しみとも喜びともつかない、不思議な色合いを帯びていた。

「あの記憶は、あまりに眩しすぎるのです。残りの短い人生を、あの光に目を焼かれながら生きていくのは、少し、辛いのでございますよ。思い出は美しいまま、けれど、手の届かない場所に仕舞っておきたいのです」

理解しがたい理屈だった。しかし、彼女の瞳の奥に揺らめく光が、嘘を言っているようには見えなかった。灯は、高額な報酬が記された契約書を静かに差し出した。幸福の記憶は、悲しみの記憶よりも抜き取りに繊細な技術を要する。故に、料金も桁が違う。チヨは震える手でペンを取り、淀みなく署名した。

「儀式には、その記憶を象徴する品が必要です」

「はい。用意してまいりました」

チヨが古びた革の鞄から取り出したのは、一枚の色褪せた写真だった。そこには、白いペンキが剥がれかけた小さな灯台と、その前で寄り添い、はにかむように笑う若い男女が写っていた。写真の中の女性は、間違いなく若い頃のチヨだろう。隣の男性は、優しそうな目をした、実直そうな青年だった。

灯は写真を受け取った。指先に、乾いた紙の感触と、長い年月の重みが伝わってくる。この写真に焼き付けられた幸福が、数時間後には依頼人の心から消え、代わりに自分の内に流れ込んでくる。いつもと同じ、ただの仕事だ。そう自分に言い聞かせながらも、灯の胸には、これまで感じたことのない微かなさざ波が立っていた。

第二章 色褪せた灯台の記憶

儀式の部屋は、余計なものが一切ない、がらんとした空間だ。中央に置かれた簡素な寝椅子にチヨを横たわらせ、灯は準備を始めた。壁一面の本棚には、これまで引き受けてきた記憶の「象徴の品」が、ガラス瓶に詰められて並んでいる。割れた指輪、血の染みたハンカチ、書きかけの手紙。他人の苦しみが詰まった標本の森だ。

灯は、灯台の写真を小さな銀の盆に乗せ、特殊な香油を数滴垂らした。ふわりと、ラベンダーと白檀の混じった、心を鎮静させる香りが立ち上る。

「楽になさってください。少し眠るだけです」

灯がチヨの額にそっと手を置くと、老婆は安らかな寝息を立て始めた。

儀式が始まる。灯は目を閉じ、意識を集中させた。自分の精神を細い糸のように紡ぎ出し、眠るチヨの心の深淵へと潜っていく。忘却師の能力は、共感能力の極端な発露だ。他人の感情の波に乗り、記憶の海を泳ぐ。

やがて、灯の意識は光に包まれた。

目の前に、青い海が広がっている。頬を撫でる風は、心地よい潮の香りを運んでくる。カモメの鳴き声が、高く、空に響いていた。

――これは、チヨさんの記憶。

灯は、見えない手でチヨの手に引かれるように、記憶の中の風景を歩き始めた。

若いチヨと、写真に写っていた青年が、海辺の小さな町を歩いている。二人の会話が、楽しげな音楽のように聞こえてくる。青年が、道端で売られていた焼き栗を買い、熱々のそれをチヨの手に握らせる。甘く香ばしい匂い。その温かさが、灯自身の掌にも伝わってくるようだった。

彼らは手を繋ぎ、白い灯台へと続く坂道を登っていく。青年の背中は広く、頼もしかった。チヨの心が、幸福と愛しさで満たされていくのが、波のように灯に流れ込んでくる。灯台の頂上から見下ろす景色は、言葉を失うほど美しかった。きらきらと光る海、ミニチュアのような港町、遠く水平線に溶けていく夕日。

「いつか、ここに住もう。海の見える小さな家で」

青年が囁く。

「ええ、きっと」

チヨが頷く。

その瞬間、世界は完璧だった。永遠に続くかのような、穏やかで満ち足りた時間。灯は、これまで他人の記憶の中で、これほどまでに純粋で、温かい光景を見たことがなかった。いつもは濁流のような負の感情に耐えるだけの儀式が、今日だけはまるで美しい映画を観ているかのようだった。

だが、記憶を自身の内へと吸収していく過程で、灯は奇妙な感覚に襲われた。

この潮の香り。どこかで嗅いだことがある。この灯台の形。どこかで見たことがある。そして何より、青年の横顔。優しくチヨを見つめるその眼差しが、なぜか、灯が写真でしか知らない、幼い頃に亡くした父の面影と重なって見えるのだ。

混乱が灯の意識を揺さぶる。これは他人の記憶のはずだ。自分の過去が混線しているのか? 長年の仕事で精神が摩耗し、ついに幻覚を見るようになったのか?

灯は、記憶の奥底に揺らめく違和感から目を逸らすように、儀式を完了させることに集中した。光に満ちた一日の記憶は、ゆっくりとチヨの心から剥がれ、灯の精神の器へと注がれていく。最後に残ったのは、夕日に照らされた青年の優しい笑顔だった。

第三章 借り物の幸福

儀式を終え、灯が目を開けると、チヨはまだ静かに眠っていた。その顔は、何か重い荷物を下ろしたかのように、穏やかだった。だが、灯の心は嵐のように乱れていた。

自分の中に流れ込んできた「夫との幸せな記憶」は、まるで昔からそこにあったかのように、しっくりと馴染んでいた。焼き栗の甘さ、潮風の感触、そして何よりも、あの青年の温かい眼差し。それが自分の記憶ではないと理性が叫ぶ一方で、魂のどこかが、それを懐かしいと感じていた。

「どういうこと…?」

灯は混乱しながら、銀の盆に残された灯台の写真を手に取った。改めて写真を見つめる。青年は、やはり父親にそっくりだった。いや、そっくりというレベルではない。若い頃の父、そのものだ。

まさか。そんなはずはない。

灯は震える手で、自分の書斎の引き出しの奥から、一枚だけ残された両親の古い写真を取り出した。結婚式の写真だ。そこに写る父の顔と、チヨの記憶の中の青年の顔を、何度も何度も見比べる。同一人物だった。

血の気が引いていく。頭の中で、バラバラだったピースが恐ろしい形に組み合わさっていく。チヨが消してほしいと願った記憶の夫は、自分の父親だった? では、チヨは父の愛人だったとでもいうのか? だが、記憶の中の二人の間に、そんなよこしまな空気は微塵も感じられなかった。あれは、紛れもなく純粋な愛の記憶だった。

その時、寝椅子で身じろぎしたチヨが、ゆっくりと目を開けた。

「…終わりましたか」

「ええ…」灯はかろうじて声を絞り出した。「タチバナさん。あなたに、お聞きしたいことがあります」

灯は二枚の写真をチヨの前に並べた。

「この記憶の男性は、私の父です。一体、どういうことなのですか」

チヨは写真を見ると、驚きもせず、ただ悲しげに微笑んだ。

「やはり、あなたには分かってしまいましたか。あの子の娘ですものね…」

「あの子…?」

「あなたの、お母様ですよ。柏木小夜子さん」

チヨは、ゆっくりと真実を語り始めた。その言葉は、灯の価値観を根底から覆す、衝撃的なものだった。

チ-ヨは、灯の母・小夜子の無二の親友だった。そして、チヨもまた、かつては腕利きの「忘却師」だったのだという。

灯の父は、灯がまだ三歳の頃、海の事故で帰らぬ人となった。最愛の夫を突然失った母・小夜子は、悲しみのあまり心を病んでしまった。そして、来る日も来る日も泣き暮らし、衰弱していく中で、親友であるチヨに懇願したのだという。

「お願い、チヨ。あの人との記憶を、全部消して。幸せだった記憶も、辛い記憶も、全部。そうしないと、私はもう、生きていけない」

チヨは何度も思いとどまるよう説得したが、小夜子の決意は固かった。チヨは親友を救うため、儀式を行った。夫に関する全ての記憶を、小夜子の心から抜き取った。

「でもね」チヨの声が震えた。「あの二人の記憶は、あまりにも美しかった。特に、あの灯台での一日は、まるで宝物のような記憶でした。それを、この世から完全に消し去ってしまうなんて、私にはどうしてもできなかったのです」

チヨは、抜き取った小夜子の記憶を消去せず、自分の心の中に「保管」することにした。いつか小夜子が立ち直った時に返せるかもしれない、という淡い希望を抱いて。だが、小夜子は記憶を失った後も心の傷が癒えることはなく、数年後に病でこの世を去った。

「それ以来、私はあなたの母君の、最も幸せだった記憶を、ずっと胸の内で預かってまいりました。それは、私のものではない、借り物の幸福でした。でも、その光が、夫も子供もいなかった私の人生を、どれだけ照らしてくれたことか…」

チヨは涙を拭った。

「もう、私も長くはありません。この大切な記憶を、墓場まで持っていくわけにはいかない。本来の持ち主である小夜子さんはもういないけれど、その血を受け継ぐ、娘のあなたに、お返ししなくてはと…そう、思ったのです」

奇妙な依頼の、これが真相だった。チヨは記憶を消しに来たのではない。記憶を、託しに来たのだ。

第四章 受け継がれる光

灯は、言葉を失って立ち尽くしていた。自分が今しがた受け取った温かい記憶は、母が父を愛した記憶そのものだった。自分が生まれる前の、両親の愛の物語だったのだ。

これまで、灯は忘却師の仕事を、他人の不要な感情のゴミ処理のようなものだと考えていた。人の心から苦痛を取り除く、いわば外科手術だ。だが、違ったのかもしれない。記憶とは、ただのデータではない。それは、その人の生きた証であり、魂の一部なのだ。それを消すということは、その人の一部を殺すことと同義だったのかもしれない。

チヨは、そんな記憶の尊さを知っていたからこそ、親友の記憶を消せずに、何十年も抱え続けてきたのだ。他人の幸福を、自分のことのように大切に、慈しんで。

「この記憶は…」灯の声が震える。「私の中にあります。温かくて…とても、優しい光です」

「よかった…」チヨは心から安堵したように息をついた。「これで、あの子に顔向けができます」

その数週間後、チヨは眠るように息を引き取ったと、遠縁の親戚から連絡があった。灯は一人、彼女の小さな墓に花を供えに行った。

仕事場に戻った灯は、壁一面のガラス瓶を見つめた。この中には、数え切れないほどの悲しみや後悔が詰まっている。だが、今の灯には、それらがただの「ゴミ」には見えなかった。一つ一つが、誰かが必死に生きた証なのだ。

灯は、一番手前にあった、チヨから預かった灯台の写真を手に取った。写真の中の両親は、幸せそうに笑っている。自分は、この二人の愛から生まれたのだ。物心つく前に父を亡くし、母も早くに亡くした灯にとって、それは初めて得た確かな実感だった。自分の中に流れ込んできた記憶は、孤独だった彼女の心に、温かい光を灯してくれた。

忘却師という仕事は、呪いではなかったのかもしれない。記憶を消すことは、必ずしも救いではない。だが、記憶と共に生きるのが辛すぎる人々に寄り添い、その重荷を一時的にでも肩代わりすることはできる。そして時には、チヨのように、大切な記憶を守り、受け継いでいくこともできるのかもしれない。

灯は、窓を開けた。湿った風が流れ込み、潮の香りがした。それは、母の記憶の中の、あの日の香りによく似ていた。

彼女は、これからどう生きていくのだろう。まだ答えは見つからない。でも、もう一人ではない。胸の中には、両親がくれた、消えることのない灯台の光が灯っているのだから。

灯は、写真の中の二人に向かって、微かに、本当に微かに微笑んだ。その顔には、もう孤独の鎧はなかった。

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