砂の心臓と無色のタトゥー
1 3653 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

砂の心臓と無色のタトゥー

第一章 色褪せた風景

俺の皮膚は、他人の心の墓標だ。それは無数の微細なタトゥーとして現れる。後悔は黒ずんだ蔦となり、嫉妬は緑青の黴のように広がり、叶わぬ恋は淡い菫色のため息を刻む。他者の「未練」が、俺の身体をキャンバスにその存在を主張するのだ。そして、俺自身の未練もまた、消えないインクのように腕や胸を覆い尽くしている。絶え間ない疼きは、他人のものか、自分のものか、もはや区別がつかない。

この世界では、誰もが生まれながらに定められた「時間」を腕に巻いている。透明な腕輪の中で、光る砂が静かに落ちていく砂時計。それが、その者の命の総量だ。砂が尽きれば、人生は終わる。だが、その法則には奇妙な例外があった。強い感情の交わりが、互いの時間を僅かに移し替えることがあるのだ。憎しみ合えば奪い合い、深く愛し合えば分け与える。まるで、魂が共鳴して起こすささやかな奇跡のように。

しかし、親友のユキが死んだ日、俺たちの世界の常識は音を立てて崩れ始めた。彼は、腕輪の砂をほとんど一粒も減らさぬまま、唐突に「時間切れ」で死んだ。まるで、見えざる手に心臓の時間を鷲掴みにされたかのように。そして何より不可解だったのは、彼の白い肌には、ただの一筋のタトゥーもなかったことだ。まるで生まれたての赤子のように、何の未練も持たずに生きていたとでも言うように。そんな人間がいるものか。

あの日から、世界は静かに狂い始めた。ユキと同じように、砂を残したまま命を落とす者が現れ、人々の腕輪の砂が理由もなく増減する怪現象が、まるで伝染病のように広がっていった。街角には恐怖に染まった未練のタトゥーが溢れ、その禍々しい色彩が、俺の視界を焼き尽くさんばかりにちらついている。

第二章 歪み始めた砂時計

ユキの死の真相を求めて、俺は彼の部屋の扉を開けた。埃の匂いが、記憶の匂いと混じり合って鼻をつく。窓から差し込む午後の光が、空気中の塵を金色に照らし出していた。彼の部屋は、生前のまま時が止まっている。本棚には読みかけの本が開きっぱなしで置かれ、机の上には書きかけの楽譜が散らばっていた。彼の人生は、確かにここで続いていたはずだった。

街の喧騒が、開いた窓から微かに聞こえてくる。悲鳴、怒号、そしてサイレンの音。またどこかで、誰かの時間が理不尽に奪われたのだろう。人々は腕輪を庇い、疑心暗鬼の目で互いを見つめ合っている。深い愛情すら、時間を奪われるリスクとして恐れられるようになった。絆が時間を蝕む毒になった世界で、俺たちは何を信じればいいのか。

ふと、机の隅に置かれた小さな木箱に目が留まった。蓋を開けると、ベルベットの布の上に、古びた懐中時計が静かに横たわっていた。ユキがいつも大切に持っていたものだ。銀色の蓋を開くと、文字盤の針は止まり、内部の小さな砂時計の砂は、まるで重力を失ったかのように空中で静止していた。彼が死んだ、あの瞬間に。

その懐中時計を手に取った瞬間、ぞくりと背筋が震えた。時計の表面が、まるで呼吸するように微かに脈打った気がしたからだ。

第三章 止まった時計の囁き

自室に戻り、俺は懐中時計を机の上に置いた。滑らかな銀の表面には、何の装飾もない。誰が見ても、ただの時を忘れたガラクタだろう。だが、俺の目には違うものが見えていた。

集中し、意識を研ぎ澄ます。すると、光の加減で、時計の蓋の表面に極めて微細な文様が浮かび上がってきた。それは、俺だけが視認できるタトゥーだった。ユキの身体には決して現れなかった、彼の「未練」のタトゥー。しかし、それは俺が知るどのタトゥーとも異なっていた。色がないのだ。黒でも、青でも、赤でもない。それはただ、透明な輪郭だけを持つ、空虚な文様だった。まるで、そこに「在る」ことと「無い」ことが同居しているかのように。それは未練というより、むしろ「感情の無」そのものを象徴しているように思えた。

その無色のタトゥーを見つめていると、頭の中に直接、冷たい囁きが響くような感覚に陥った。言葉ではない。音でもない。それは、静寂のこだま。完全なる虚無が持つ、底知れない引力。ユキは、何を抱えていた? 何を、この時計に遺した? この無色のタトゥーは、彼の心の何を写しているというのか。答えのない問いが、俺自身の未練のタトゥーを疼かせた。

第四章 共鳴する世界

その夜、世界の歪みは臨界点を超えた。

突如、街中の照明が一度に消え、完全な闇が訪れた。窓の外から聞こえてくるのは、絶望に満ちた人々の絶叫だけ。自分の腕輪を見ると、砂が恐ろしい速さで流れ落ちていた。他の誰かと繋がっているわけでもないのに、俺の時間が、いや、この街にいる全員の時間が、見えない何かに吸い上げられていく。

「やめろ……!」

俺は咄嗟に、机の上の懐中時計を強く握りしめた。その瞬間、世界が反転した。

視界が真っ白に染まり、耳を劈くような轟音と共に、凄まじい情報の奔流が脳髄を貫いた。それは、世界中の人々の感情だった。憎悪、絶望、後悔、嫉妬、孤独。負の感情が濁流となり、物理的な質量を持って俺に叩きつけられる。人々が抱える未練のタトゥーが、実体化して世界を覆い尽くしていく幻覚。そして理解した。この感情の濁流こそが、人々の「時間」を喰らっているのだと。

世界中の感情は、一つの巨大な意志へと収束しようとしていた。それは、人類が生み出した負の感情の集合体。制御を失った神のような存在が、自らの糧として時間を無差別に吸収し、気まぐれに放出している。ユキの死も、この怪現象も、全てはこの集合意識の覚醒と暴走が原因だった。

その濁流の中心で、俺は懐かしい声を聞いた。

『カイ。これは、世界の悲鳴なんだ』

ユキの声だった。

第五章 無垢なる犠牲

幻視の中で、俺はユキの真実を見た。

彼は、俺と同じ能力を持っていた。いや、俺以上に鋭敏に、世界の感情の流れを感じ取っていたのだ。彼は、人類の負の感情が飽和し、やがて時間そのものを喰らう巨大な集合意識へと変貌することを、誰よりも早く予見していた。そして、その暴走を止める術を、たった一人で探し続けていた。

彼が見つけ出した唯一の方法。それは、あまりにも過酷で、崇高な自己犠牲だった。

暴走する巨大なエネルギーを鎮めるには、それを受け止める「器」が必要だった。しかし、感情を持つ人間が器になれば、その感情が新たな燃料となり、さらなる暴走を招くだけだ。だから、器は完全な「無」でなければならなかった。

ユキは、自らの意思で、自身の感情を一つ残らず消し去った。喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも。全てを捨て、心を完全な真空にした。彼が「無の感情」そのものになったのだ。彼の肌にタトゥーがなかったのは、未練がなかったからではない。感情という、タトゥーを生み出す源泉そのものが枯渇していたからだ。

そして、あの日。集合意識が完全に覚醒し、世界を飲み込もうとしたその瞬間、ユキは自らの存在全てを捧げた。彼の魂は「器」となり、暴走するエネルギーを受け止め、その荒れ狂う流れを一時的に鎮めた。それが、彼の「時間切れ」の真相だった。彼の腕輪の砂が残っていたのは、彼の「個人」としての時間は奪われておらず、彼の存在そのものが、世界の均衡を保つための楔へと昇華されたからに他ならない。

彼は、誰にも知られず、たった一人で世界を救ったのだ。

第六章 君が残した時間

幻視から覚めた俺は、涙で濡れた頬を拭うことも忘れ、呆然と懐中時計を見つめていた。時計の表面で、無色のタトゥーが静かに、そして永遠に輝いている。それはユキが遺した、無言の遺言だった。

世界の時間の揺らぎは、まだ続いている。ユキの犠牲は、完全な解決ではなく、あくまで一時しのぎに過ぎないのだろう。いつかまた、集合意識は牙を剥くかもしれない。

俺は自分の腕にびっしりと刻まれたタトゥーに目を落とした。ユキを失った悲しみ。真実を知ってしまった絶望。そして、友のあまりに気高い犠牲に対する、言葉にならないほどの感謝。それらの感情が、また新たなタトゥーとして、俺の肌に熱く刻まれていく。だが、もうその疼きは、ただの呪いには感じられなかった。

これは、俺が生きている証だ。俺が、感情を持つ人間である証だ。

ユキは感情を捨てて世界を守った。ならば俺は、この感情を抱えたまま、彼が守ろうとした世界で生きていく。人々の未練と向き合い、失われた時間の意味を問い続け、そして、誰かと心を通わせることを恐れずに。

そっと懐中時計を胸に当てる。止まったはずの時計から、微かに、トクン、と温かい鼓動が伝わってきた気がした。それは、ユキが俺に残してくれた、未来の時間だったのかもしれない。空を見上げると、夜明けの光が、泣き続けた世界を静かに照らし始めていた。


TOPへ戻る