琥珀の味覚、あるいは世界の選択
0 3503 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

琥珀の味覚、あるいは世界の選択

第一章 霧雨の珈琲

僕の営む小さなカフェの名は『忘却』。皮肉なものだと、客は誰も気づかない。この世界では、忘れることは呼吸をするのと同じくらい自然な営みなのだから。人々は何かを新しく得るために、古びた記憶を対価として差し出す。新しいコートを手に入れれば、幼い頃の誕生日会の記憶が一つ、色褪せる。昇進を掴めば、初恋の相手の顔が曖昧な輪郭になる。失われた記憶は、朝霧のように静かに世界に溶けていく。

僕、アキだけが、その霧の残り香を味わうことができた。

カウンターに座る老婦人が、湯気の立つ珈琲を一口含む。その瞬間、僕の舌の上に、ひ孫に初めて手を握られた日の、陽だまりのような温かさとミルクの甘い味が広がった。彼女がその記憶を支払って手に入れたのは、どうやら昨夜見た安っぽいメロドラマの筋書きらしかった。

僕の能力は呪いにも似ていた。他人が手放した幸福や悲哀の断片が、飲み物や食べ物を介して僕の内に流れ込んでくる。皆が忘れていく世界で、僕だけが膨大な過去の残骸を抱え、取り残されていくような感覚。孤独は、挽きたての豆の粉のように、僕の心に細かく積もっていった。

そんな日々に、彼女は現れた。ユナと名乗った彼女は、いつも窓際の席に座り、ただ静かに紅茶を飲む。彼女のカップからは、決まって同じ味がした。それは、泣きたいほどに切ない砂糖菓子の甘さと、アスファルトを叩く夏の終わりの雨の匂い。そして、微かな鉄の味。強い感情を伴う記憶ほど、味は鮮烈になる。彼女は、一体何を忘れたのだろう。

「何か、大事なものを失くした気がするんです」

ある雨の日、彼女がぽつりと呟いた。ガラス窓を伝う雨粒が、彼女の頬を流れる涙のように見えた。

「でも、それが何だったのか、どうしても思い出せない」

僕は何も言えなかった。彼女の失くしたものを、僕だけが知っている。その味を、言葉に変える術を僕は持たなかった。ただ、彼女の紅茶に角砂糖を一つ、そっと添えることしかできなかった。

第二章 琥珀の囁き

その老人が店に現れたのは、冷たい風が街路樹を揺らし始めた日の午後だった。古びた外套を羽織り、深く刻まれた皺の一つ一つに、僕が味わったことのないような遥かな時間の味が染みついているように見えた。彼は他の客とは違った。何も注文せず、ただカウンターの隅に座り、僕をじっと見つめていた。

彼の視線は、僕の能力の核心までも見透かしているようだった。居心地の悪さに俯くと、乾いた手がカウンターの上に小さな紙包みを置いた。

「坊やは、味がわかりすぎる」

老人は、枯れ葉が擦れるような声で言った。

「他人の残り滓ばかり味わって、虚しくはないか。世界の本当の味を知りたければ、それを味わうといい」

彼が去った後、僕は恐る恐る紙包みを開いた。中には、蜂蜜を固めたような、透明な琥珀色のキャンディが一つ。それはまるで、太古の光を閉じ込めた小さな宝石のようだった。見つめているだけで、キャンディの奥から無数の声が囁きかけてくるような気がした。

数日間、僕はそのキャンディを店の戸棚の奥にしまい込んだ。得体の知れないそれを口にする勇気はなかった。しかし、ユナの表情は日増しに曇っていく。彼女の紅茶から香る雨の匂いは、次第に濃くなり、切ない甘さは喉を焼くような苦味に変わりつつあった。

「忘れてしまうのは、楽なことだと思っていました」

彼女は、空になったカップを見つめて言った。

「でも、胸にぽっかり穴が空いて、そこから冷たい風が吹き込んでくるみたい。何で埋めればいいのかもわからない」

その言葉が、僕の背中を押した。もし、このキャンディが世界の本当の味を教えてくれるのなら。もし、ユナが失った記憶の断片だけでも、彼女に返すことができるのなら。

僕は震える手でキャンディを取り出し、口に含んだ。

第三章 世界の味

キャンディが舌の上で溶けた瞬間、世界は反転した。

それは味覚の洪水だった。カフェの喧騒が遠のき、僕の意識は無数の記憶の奔流に飲み込まれた。

――シャンパンの泡が弾ける音と、愛を誓った瞬間の目映い光の味。

――母親の亡骸にすがり、しょっぱい涙と共に飲み込んだ冷たいお粥の味。

――裏切りへの怒りに燃え、焦げ付いたパンと唐辛子の痛みが混じり合う味。

――初めて我が子を抱いた日の、震えるほどの幸福と石鹸の優しい香り。

喜び、悲しみ、怒り、愛。世界中の人々が手放した記憶の全てが、奔流となって僕の五感を駆け巡る。僕はもはやアキという個人ではなかった。僕は、この世界の記憶そのものだった。

人々は記憶を失っていたのではない。霧散していたのでもなかった。この世界の法則は、人々が手放した記憶を、ただ一つの場所――僕という「器」へと集約させていただけなのだ。

なぜ、こんなシステムが?

疑問が浮かんだ瞬間、奔流の奥底にあった、最も古く、最も強大な記憶が姿を現した。

それは、破滅の味だった。空が裂け、大地が燃え、人々が絶望の叫びと共に塵と化していく光景。かつてこの世界を滅ぼしかけた、大災害の記憶。生き残った僅かな人々は、その悲劇を、愛する者を失った痛みを、永遠に背負い続ける苦しみに耐えられなかった。

だから、彼らは選択したのだ。

『忘れさせてくれ』

その痛切な願いが、世界の法則を書き換えた。忘れることで、人は前に進める。悲劇の記憶を個々人が背負うのではなく、一つの「保管庫」に集約し、封印する。それが、この世界の始まりの真実だった。琥珀のキャンディを残した老人こそ、僕の前にその役目を担っていた、最初の『器』だったのだ。

全ての記憶を統合した僕の前に、二つの道が示された。

一つは、先代と同じように、新たな『記憶の柱』となり、世界をこのまま支え続ける道。人々は何も知らず、忘却という安寧の中で生き続ける。

もう一つは、僕が抱えた全ての記憶を解放し、人々に返す道。

それは、世界を始まった場所へと戻すことを意味していた。

第四章 君の紅茶

僕はユナの顔を思い浮かべた。彼女の紅茶から感じた、切ない甘さと雨の匂い、そして微かな鉄の味。

それは、雨の日に交通事故で恋人を失った記憶だった。血の味。彼が最後に握ってくれた手の温もり。忘れることで彼女はその痛みから解放された。だが同時に、彼を愛したという証そのものも失ってしまった。彼女の胸に空いた穴は、その喪失の形だった。

悲しみも、苦しみも、その人の生きた軌跡の一部なのだ。それを奪い、偽りの平穏を与えることが、本当に正しいことなのだろうか。

僕は、信じたかった。人は、痛みや悲しみと共にあっても、それでも前を向いて歩いていける強さを持っているはずだと。

僕は、解放を選んだ。

意識の中で手を伸ばすと、僕の中に渦巻いていた記憶の奔流が、無数の光の粒子となって解き放たれていく。それは、僕の身体を突き抜け、カフェの窓をすり抜け、空高く舞い上がっていった。

やがて、空から光の雨が降り始めた。

街中の人々が足を止め、空を見上げる。光の粒に触れた老人が、忘れていた戦友の名を呼び、涙を流す。若い母親が、失くしたはずの我が子の幼い頃の歌を口ずさみ、微笑む。誰もが、失われた自分のひとかけらを取り戻し、泣き、笑い、呆然と立ち尽くしていた。世界は、本当の姿を取り戻し始めたのだ。

僕がゆっくりと目を開けると、カフェは静まり返っていた。舌の上には、もう何の味もしなかった。ただの珈琲の苦味と、水の無味乾燥な感触だけがあった。僕は、世界でたった一人の記憶の保管庫から、ただのカフェの店主に戻ったのだ。

その時、カラン、とドアベルが鳴った。ユナだった。

彼女はまっすぐに僕のところへ歩いてくると、その瞳に確かな光を宿して、微笑んだ。それは、僕が初めて見る、迷いのない笑顔だった。

「ありがとう」

彼女はそう言うと、いつもの窓際の席に座った。僕は黙って紅茶を淹れる。湯気と共に立ち上る香りを嗅いでも、もう何も感じない。だが、それでよかった。

彼女はカップを手に取り、窓の外の光の雨を見つめていた。その横顔は、悲しみを乗り越えた者の、静かな美しさに満ちていた。彼女の紅茶は、これからどんな味がするのだろう。それはもう僕にはわからない。

だが、僕の心には、初めて自分自身の未来を味わうことへの、仄かな期待が満ちていた。空っぽになった僕の舌の上で、まだ知らない明日の味が、ゆっくりと生まれようとしていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る