第一章 灰色の世界と琥珀のひとかけら
俺、水無月響(みなづき ひびき)の目には、世界が二色に見える。ありふれた日常の色彩と、もうひとつは、アスファルトの染みのようにこびりついた「後悔」の灰色だ。
人々が地面に吐き捨てるように落としていくそれは、俺の目には鈍く冷たい小石として映る。ため息と共に零れ落ちる「言えなかった一言」。喧騒の中で振り払われる「しなかった選択」。夜の闇にそっと捨てられる「許せなかった過去」。俺はそれを拾い集め、生計を立てている。「後悔拾い」という、おそらく世界で俺しか知らない職業だ。
拾った灰色の小石は、指先が凍えるほど冷たい。それをアトリエに持ち帰り、特別な炉で燃やす。業火に焼かれた後悔は、悲鳴のような甲高い音を立てて浄化され、跡形もなく消え去る。その対価として、俺は僅かな金銭を得る。誰が、どんな仕組みで支払っているのかは知らない。ただ、毎月決まった日に、古びた郵便受けに現金が差し込まれているだけだ。
他人の後悔に触れすぎたせいだろうか。いつからか俺自身の感情はひどく摩耗し、喜怒哀楽の輪郭がぼやけてしまった。感動的な映画を観ても、美しい夕焼けを見上げても、心の水面は凪いだままだ。ただ淡々と後悔を拾い、燃やし、眠る。そんな灰色の毎日が、永遠に続くのだと思っていた。
あの日までは。
それは、冷たい雨が街路を濡らす午後だった。いつものように俯き、アスファルトに転がる後悔を探していると、ふと視界の隅に、ありえない光が瞬いた。雑踏の足元、水たまりの縁で、それは静かに佇んでいた。
琥珀色だった。
内側から淡い灯火を宿したような、温かな光。俺が知るどんな後悔とも違う。それは冷たくも重くもなく、むしろ陽だまりのような気配を放っていた。好奇心とも違う、もっと根源的な力に引かれるように、俺はそれに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、胸の奥に、忘れていた感覚が流れ込んできた。それは、温かい毛布にくるまれた時のような安らぎと、大切な何かを失った時のような、胸が締め付けられる切なさ。二つの感情が綯い交ぜになった、ひどく懐かしい感覚だった。
それは「後悔」ではない。では、一体何なのだ?
俺は琥珀色の小石をそっと握りしめた。それはまるで、心臓のように微かな温もりで脈打っているように感じられた。この日を境に、俺の灰色の世界は、静かに、そして確かに軋み始めたのだ。
第二章 波音と沈黙の婦人
琥珀色の小石は、俺の中で微かな羅針盤となった。それをポケットに入れ、胸に手を当てると、温もりが増す方角がぼんやりとわかるのだ。まるで、見えざる糸で引かれるように。俺は後悔拾いの仕事を休み、何かに憑かれたようにその糸を辿り続けた。
何日も歩き続けた末にたどり着いたのは、都会の喧騒が嘘のような、寂れた海辺の町だった。潮の香りが、俺の摩耗した心を優しく撫でる。羅針盤が指し示したのは、海を見下ろす崖の上に立つ、一軒の古びた家だった。ペンキの剥げた青い扉。窓辺には、風に揺れる名も知らぬ白い花。
俺が扉を叩くのをためらっていると、内側からゆっくりとそれが開いた。現れたのは、深く皺の刻まれた顔に、穏やかな微笑みをたたえた老婦人だった。
「お待ちしていましたよ、響さん」
彼女は、俺の名前を知っていた。驚きに言葉を失う俺を、彼女――千鶴(ちづる)と名乗った――は、静かに家の中へ招き入れた。室内は、古びた木の匂いと、微かな花の香りで満ちていた。壁には色褪せた海の絵が何枚も飾られている。
「お茶をどうぞ」
差し出された湯呑みからは、優しい湯気が立ち上っていた。俺はポケットの小石を握りしめたまま、警戒を解けずにいた。
「なぜ、俺の名前を……。そして、あなたはいったい?」
「ふふ。世界は、あなたが思うよりずっと、不思議な縁で結ばれているものです」
千鶴はそれ以上は語らず、ただ窓の外の海を眺めている。俺は、この家に漂う奇妙な安らぎと、もう一つの違和感に気づいていた。ここには、「後悔の小石」が一つも落ちていないのだ。どんな聖人のような人間でも、日常の些細な後悔くらいは零すものだ。だが、この家の中も、庭も、千鶴の足元にすら、指先ほどの灰色も見当たらない。まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのようだった。
俺はそれから、毎日のように千鶴の家を訪れた。彼女は琥珀色の小石について何も問わず、俺もまた、それを切り出すことができなかった。ただ、二人で縁側に座り、移り変わる海の色を眺めたり、彼女が淹れてくれるお茶を飲んだりするだけの、静かな時間が流れた。
千鶴と過ごすうちに、俺の心に変化が訪れていた。波の音は、ただの雑音ではなく、心地よいリズムとして耳に届くようになった。夕日が海を茜色に染める光景に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。忘れていた感情の色彩が、少しずつ世界に戻ってくるようだった。
しかし、琥珀色の小石の謎と、彼女の正体は、深い霧の中に隠されたままだった。千鶴の穏やかな微笑みの裏に、何か途方もない秘密が隠されている。そんな予感が、俺の心を捉えて離さなかった。
第三章 嵐の夜の告白
その夜、世界は荒れ狂っていた。窓ガラスを叩きつける暴風雨。遠雷が空を裂き、海は黒い獣のように唸りを上げていた。胸騒ぎがして、俺は嵐の中を千鶴の家へと走った。
青い扉は、わずかに開いていた。隙間から漏れる光が、不安げに揺れている。俺が息を切らして駆け込むと、千鶴は寝台に横たわり、浅く、苦しそうな呼吸を繰り返していた。顔色は蝋のように白く、いつも穏やかだった瞳は虚ろに宙を彷徨っている。
「千鶴さん!」
俺の声に、彼女はゆっくりと顔を向けた。そして、か細い声で囁いた。
「……やっと、思い出してくれそうですね」
その言葉の意味を、俺は理解できなかった。ただ、彼女の命の灯火が消えかけていることだけは、痛いほど伝わってきた。俺は彼女の手を握った。驚くほど冷たい。いつも温かいお茶を淹れてくれた、あの優しい手とは思えなかった。
「響さん。あなたが拾ったその琥珀色の石は……『後悔』ではありません」
千鶴は、途切れ途切れに言葉を紡ぎ始める。嵐の音が、彼女の告白をかき消そうとする。
「それは、『想い石』……。人が、捨てたのではなく……大切に、大切に、手放した記憶の結晶です」
想い石。初めて聞く言葉だった。
「感謝、愛情、かけがえのない思い出……。あまりに眩しすぎて、時には重荷になることもある。そんな時に、人はそっとそれを手放すのです。忘れるためではなく、誰かに見つけてもらうために」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私も……昔はあなたと同じでした。『後悔』が視える、呪われた目でね」
衝撃が、雷鳴のように俺の体を貫いた。彼女も、後悔拾いだった?
「そして……あなたに、全てを話す時が来たようです」
千鶴は、震える手で俺の頬に触れた。その指先から、忘却の彼方にあったはずの温もりが、奔流となって流れ込んできた。
幼い日の記憶。公園のブランコ。小さな手。優しく俺の名を呼ぶ声。
「あなたは、幼い頃の事故で……記憶のほとんどを失いました。そして、その代わりに、後悔を視る力を得てしまった」
そうだ。俺には、両親の記憶がなかった。物心ついた時から、施設で育った。
「母親である私は……絶望しました。愛しい我が子が、他人の後悔という名の泥にまみれて生きていかなくてはならない。その運命が、耐えられなかった」
千鶴の目から、涙がとめどなく溢れ出す。それは、何十年という歳月をかけて溜め込まれた、深い悲しみの色をしていた。
「だから、私は選びました。自分の持つ、全ての『愛情の記憶』を……あなたへの想いを、一つの『想い石』に込めて手放すことを。それは、あなたがいつか本当の感情を取り戻すための、道標になるはずだと信じて。あなたの記憶さえも……あなたの重荷にならないように、私は自分の後悔と共に、全て浄化したのです」
「……母さん……?」
掠れた声で、俺は呟いていた。琥珀色の小石は、ただの記憶の結晶ではなかった。それは、俺を失った母が、俺のために手放した、愛そのものだったのだ。彼女の周りに後悔が一つもなかった理由。それは、俺を想うがゆえに、全ての過去を乗り越え、浄化しきっていたからだった。
「よく、見つけてくれました……。私の、たった一つの……宝物を……」
千鶴――母さんの手が、俺の頬から滑り落ちた。窓の外で荒れ狂っていた嵐が、嘘のように静まっていく。残されたのは、寄せては返す波の音と、母の愛の結晶を握りしめる、俺の嗚咽だけだった。
第四章 想いを拾う人
夜が明け、嵐の去った空には、洗い流されたような青が広がっていた。千鶴は、眠るように穏やかな顔で、旅立っていった。彼女の周りには、最期の瞬間まで、一つの「後悔の小石」も生まれなかった。それは、彼女の人生が、愛と覚悟に満ちたものであったことの、何よりの証明だった。
俺は、母が遺してくれた小さな家で、数日を過ごした。琥珀色の「想い石」を手のひらに乗せると、母の温もりが伝わってくるようだった。それはもう、謎の物体ではない。俺がこの世に生まれた証であり、無条件に愛されていた記憶の塊だった。俺は、生まれて初めて、自分の意思で涙を流した。乾ききっていたはずの感情の泉から、温かいものが止めどなく溢れ出てきた。
灰色の街へ戻る日、俺は家の前に立った。朝日が海面を照らし、きらきらと輝いている。世界は、こんなにも美しかったのか。
街に戻った俺の目には、以前と同じように、アスファルトに転がる灰色の小石が映っていた。だが、世界はもはや二色ではなかった。注意深く見ると、冷たい後悔の石くれの中に、時折、琥珀色や、真珠色や、桜色の、温かい光を放つ小さな「想い石」が混じっていることに気づいたのだ。
それは、恋人に渡せなかった手紙に込められた純粋な想いかもしれない。亡き友への、言葉にならなかった感謝かもしれない。誰にも気づかれず、そっと手放された、ささやかで、しかし尊い光。
俺は、屈み込んだ。そして、一つの灰色の小石を拾い、その隣に落ちていた淡い光を放つ想い石を、もう片方の手で拾い上げた。冷たさと、温かさ。絶望と、希望。世界は、後悔だけで満ちているわけではなかった。
俺の仕事は、あの日を境に変わった。
「後悔拾い」から、「想い拾い」へ。
俺は今も、街を歩き、人々が落としたものを拾い集めている。誰かの痛みを浄化し、誰かの温もりを掬い上げる。母が遺してくれたこの目で、この手で、世界に散らばる無数の想いを拾い集めていく。
それは、果てしない旅路かもしれない。だが、俺の足取りは、以前よりもずっと軽やかだった。ポケットの中の琥珀色の石が、母の微笑みのように、俺の心臓のすぐ側で、確かな温もりを放ち続けているから。