第一章 錆びた鍵と見知らぬ色彩
橘健太の人生は、まるで彼がデザインする文房具のように、整然としていた。寸分の狂いもなく引かれた罫線の上を、決められたインクが滑るような毎日。大手文具メーカーのデザイナーとして働く彼は、その穏やかでミニマルな作風で評価を得ていた。三十歳になった今、大きな不満もなければ、燃え上がるような情熱もない。数年前に遭った事故の後遺症で、それ以前の記憶が靄のかかった風景のように曖昧なことを除けば、彼の世界は平穏そのものだった。
その均衡が崩れたのは、初夏の湿った風が吹く土曜日の午後だった。亡くなった祖父の遺品を整理するため、彼は久しぶりに実家の古い蔵に足を踏み入れた。黴と古い木の匂いが混じり合い、時間の澱となって鼻腔をくすぐる。桐箪笥の引き出しの奥、黄ばんだ袱紗に包まれた小さな木箱を見つけた。中に入っていたのは、一本の古びた鍵だった。鈍い真鍮色のそれは、複雑な意匠が施され、持ち手の部分には、流麗な筆記体で『S』というイニシャルが刻まれている。健太のイニシャルは『K』だ。祖父のものだろうか。だが、この鍵が放つどこか親密な手触りに、彼は奇妙な既視感を覚えた。
衝動的に、彼は蔵を出て、母屋の裏手にある離れへと向かった。そこは、祖父が趣味で使っていたというアトリエだったが、健太の記憶にある限り、扉は固く閉ざされたままだった。蔦の絡まる重い木製のドア。埃をかぶった錠前に、恐る恐る『S』の鍵を差し込むと、まるでずっと待っていたかのように、カチリと乾いた音を立てて回った。
息を飲み、扉を押し開ける。隙間から、埃を含んだ光の筋が差し込み、乱舞する塵を黄金色に照らし出した。テレピン油の乾いた匂いと、埃の匂い。そして、イーゼルに立てかけられたままのキャンバスや、壁に無造実に立てかけられた無数の作品群が、彼の目に飛び込んできた。
健太は足を踏み入れたまま、凍りついた。そこに広がっていたのは、彼の知る世界とは全く異質な、色彩の爆発だった。燃えるような深紅、底知れぬ藍、苦悩を塗り込めたような漆黒。絵筆のタッチは荒々しく、まるでキャンバスの上で魂が格闘したかのような激しさがあった。それは、健太が作る、静かで抑制の効いたデザインとは対極にある世界。彼の美学が静寂の湖ならば、これは荒れ狂う嵐の海だった。
混乱しながら一枚の絵を手に取ると、隅にサインが記されているのを見つけた。彼のイニシャルとは違う、鍵と同じ『S』の一文字。その瞬間、健太の頭の中で何かが軋んだ。これは誰の絵だ? なぜ、自分はこのアトリエの鍵を持っていた? この暴力的なまでの色彩に、なぜ胸の奥が締め付けられるように痛むのだろう。平穏だった日常のキャンバスに、理解不能な一滴の絵の具が落ち、静かに、そして不気味に滲み始めていた。
第二章 閉ざされた記憶の扉
「このアトリエのこと、何か知らないか」。夕食の席で、健太は切り出した。テーブルに並んだ母の得意料理である肉じゃがの湯気が、一瞬揺らめいたように見えた。父は箸を止め、新聞から顔を上げたが、その視線は健太の目とは合わなかった。
「ああ、おじいさんのアトリエか。懐かしいな」
「中に絵がたくさんあったんだ。サインが『S』になっていたけど、あれは一体…」
父は一瞬、息を詰めた。隣で母が小さく肩を震わせるのが分かった。重い沈黙の後、父は努めて平静な声で言った。
「…お前の昔の作品だよ。事故に遭う前は、そういう激しい絵も描いていただろう。ショックで画風も、記憶も、変わってしまったんだ」
その言葉はあまりに滑らかで、まるで前もって用意されていたセリフのようだった。健太は納得できなかった。自分の手で、あの激情を描き出せたとは到底思えない。母を見ると、彼女は俯き、ただ黙って味噌汁の椀をかき混ぜている。その姿は、何かを隠している者のそれだった。
疑念は、一度芽生えると際限なく育っていく。健太はアトリエに通い、残されたものを手当たり次第に調べ始めた。イーゼルの下から、一冊の古びたスケッチブックを見つけ出した。ページをめくると、アトリエの絵と同じ、力強い鉛筆の線で描かれたデッサンが現れる。風景、静物、そして、人物。その中に、健太は息を呑んだ。自分と瓜二つの顔をした少年が、何度も、様々な表情で描かれていたのだ。笑う顔、怒る顔、そして、何かを憂うように遠くを見つめる顔。その隣には時折、少し硬い表情をした、もう一人の自分が描かれている。まるで、鏡を見ながら自分を描いたようにも見えるが、二人が並んで描かれているスケッチもあった。記憶の霧の向こう側で、誰かが必死にドアを叩いているような、鈍い頭痛がした。
会社でも、彼は探りを入れた。古くからの同僚に「俺って昔、どんな絵を描いてましたっけ?」と尋ねると、同僚は一瞬戸惑いの表情を浮かべ、「さあ…? 橘くんは昔から、今みたいな落ち着いた感じだったと思うけどな」と目を逸らした。まるで、街全体が巨大な口止め料を受け取ったかのように、誰もが核心に触れようとしない。家族も、友人も、皆が優しい仮面を被って、真実から彼を遠ざけようとしている。その優しさが、健太を深い孤独の海へと沈めていった。自分という存在そのものが、薄っぺらな嘘で塗り固められているような恐怖。彼は、自分が誰なのかさえ、分からなくなっていた。
第三章 嵐の夜の告白
その夜、世界は壊れたかのように雨が降っていた。風が窓を叩き、古い家が軋む音を立てる。突然、ぷつりと明かりが消え、家は深い闇に包まれた。停電だった。母が慌てて探し出してきたロウソクの頼りない光が、部屋の隅々に長い影を落とす。健太は、その非日常的な静けさの中、昼間アトリエから持ち帰ったスケッチブックを手に取っていた。
ロウソクの炎に照らされながら、彼は最後のページを開いた。そこには、一枚の紙片が挟まっていた。古新聞の小さな切り抜き。指先で慎重に広げると、そこには数年前の日付と共に、地元の交差点で起きた交通事故を報じる記事が印刷されていた。
『―ワゴン車と衝突、高校生一人が死亡、一人が重傷―』
健太の心臓が、氷の塊を飲み込んだように冷たくなった。震える指で記事をたどり、被害者の名前を確認する。そこには、二つの名前が並んでいた。
「橘 健太(17) 意識不明の重体」
「橘 翔太(17) 死亡」
翔太。ショウタ。その名前が目に入った瞬間、雷鳴が家の外で轟いた。光と音が世界を引き裂くと同時に、健太の頭の中で固く閉ざされていた扉が、凄まじい音を立てて破壊された。
―雨の日の帰り道。びしょ濡れの翔太が、美術展で大賞を取ったと興奮して話している。その隣で、傘を差しながら黙り込む自分。翔太の才能への嫉妬。言いようのない焦燥感。「お前の絵なんて、ただ派手なだけだ」。そんな心ない言葉をぶつけてしまったこと。翔太が悲しそうな顔で何かを言い返し、道路に飛び出したこと。クラクション。衝撃。血の匂い―
断片的な映像が、濁流となって健太の意識を飲み込んでいく。そうだ、俺には弟がいた。双子の弟、翔太が。自由奔放で、才能にあふれ、太陽のように笑う弟が。アトリエの絵は、鍵は、すべて翔太のものだったのだ。
「…健太」
背後から、父の声がした。ロウソクの光に照らされた父の顔は、今まで見たこともないほど深く、苦悩に満ちていた。健太の手の中の新聞記事を見て、全てを悟ったようだった。
「…思い、出したのか」
父は、堰を切ったように語り始めた。事故の後、翔太を失ったショックと自責の念で、健太の心は完全に壊れてしまったこと。医者と相談し、彼をこれ以上の苦しみから守るため、家族、親戚、そして親しい友人たちの協力のもと、「翔太は最初から存在しなかった」という、巨大な嘘の世界を構築したこと。健太が「自分」だと思っていた穏やかな性格は、翔太を失った悲しみが作り上げた、自己防衛のための虚像だったこと。
「お前を守るためだったんだ。それしか、方法が思いつかなかった…」
父の嗚咽が、雨音に混じって部屋に響いた。健太は、何も言えなかった。家族の歪んだ、しかしあまりに深い愛情が、嵐のように彼を打ちのめしていた。守られていたのではない。真実から隔離された、透明な牢獄に閉じ込められていただけだったのだ。
第四章 空白のパレット
真実を知ってからの数日間、健太は抜け殻のようだった。弟を死なせた罪悪感。嘘で塗り固められた自分の半生。そして、彼を愛するがゆえにその嘘をつき続けた家族への、言葉にできない感情。全てが彼の内で渦巻き、出口を見つけられずにいた。
彼は再び、アトリエに足を運んだ。雨上がりの光が窓から差し込み、翔太が遺した絵の具の鮮やかさを際立たせる。一枚一枚、絵を見て回った。そこには、翔太の喜びも、苦悩も、そして兄である自分への複雑な思いも、全てが叩きつけられていた。ある絵の隅には、二人が笑い合う姿が小さく描かれているのを見つけた。嫉妬していたのは自分だけではなかったのかもしれない。翔太もまた、穏やかで几帳面な兄に、何かを感じていたのかもしれない。
健太は、ゆっくりとアトリエの掃除を始めた。床の埃を掃き、窓を拭き、キャンバスを整理する。それは、翔太の記憶を、そして失われた自分自身のかけらを、一つ一つ拾い集めるような作業だった。
掃除を終えたアトリエは、どこか神聖な空気をまとっていた。健太は、部屋の隅にあった一枚の真っ白なキャンバスを、イーゼルに立てかけた。空白のパレットを手に取り、チューブから絵の具を絞り出していく。翔太が愛した情熱的な赤。かつての自分が好んだ静かな青。悲しみの黒。希望の白。
彼は絵筆を握った。翔太の色彩を模倣するのではない。偽りの自分に戻るのでもない。翔太の記憶を、罪悪感を、家族への感謝を、この胸に渦巻く全てを抱きしめて、新しい自分としての一筆を置くために。
健太は息を吸い込み、パレットの上で絵の具を混ぜ合わせた。出来上がったのは、翔太の赤でも、自分の青でもない色。夜が明け始める東の空のような、哀しみと希望が溶け合った、名付けようのない複雑な色だった。
彼はその筆先を、真っ白なキャンバスへと、ゆっくりと近づけていく。
その一筆が、彼の本当の人生の始まりを告げる。空白だったパレットは、今、無限の可能性を秘めた色彩で満たされようとしていた。