サイレント・レゾナンス

サイレント・レゾナンス

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第一章 不協和音の世界とハープの音色

音無奏(おとなしかなで)の世界は、音で満ちていた。だがそれは、鳥のさえずりや風のそよぎといった、誰もが耳にする心地よい音だけではない。彼の耳は、人が発する「嘘」を、不協間に満ちた楽器の音として捉えてしまうのだ。

テレビの向こうで頭を下げる政治家の声は、ささくれた木管楽器の軋み。道端で愛を囁き合う恋人たちの言葉は、弦が切れる寸前のヴァイオリン。スーパーの店員が浮かべる営業スマイルの裏にある「ありがとうございます」は、調律の狂ったピアノの鍵盤を叩くような不快な響きを伴った。

この呪いのような聴覚のせいで、奏はいつしか人を信じることをやめた。音の真偽が分かってしまう世界は、あまりにも息苦しい。だから彼は、決して嘘をつかない古い楽器たちと向き合う「調律師」という仕事を選んだ。木と金属と羊毛でできたピアノは、正直だ。正しい手順で触れてやれば、必ず澄んだ美しい音で応えてくれる。それが奏にとって唯一の救いだった。

そんなある春の日、一本の電話が鳴った。古びた固定電話から聞こえてきたのは、しわがれているが、芯のある女性の声だった。

「もしもし、音無調律工房さんでしょうか。ピアノの調律をお願いしたいのですが」

奏はいつものように事務的に応対する。だが、続く女性の言葉に、思わず受話器を握る手に力が入った。

「夫が遺してくれた、古いピアノなんです。もう長くない私ですが、最後に……最後に一度だけでいいから、あの人が愛した真実の音を、この耳で聴きたくて」

その言葉は、奏の鼓膜を震わせた。それは、彼がこれまでほとんど耳にしたことのない、清らかで一点の曇りもない、優美なハープの音色だった。嘘や偽りが一切混じっていない、純粋な願いそのものが音になったかのようだった。

奏は、気づけば「すぐにお伺いします」と答えていた。彼の孤独な世界に、一筋の光が差し込んだような気がした。

第二章 調律される心と狂ったチェロ

依頼主、藤宮千鶴(ふじみやちづる)の家は、海の見える高台に建つ、趣のある古い洋館だった。案内された応接間には、陽光を浴びて静かに佇む、一台のアップライトピアノがあった。黒光りする塗装は所々剥げ、象牙の鍵盤は黄色く変色している。だが、大切にされてきたであろうことは一目で分かった。

「ようこそ、いらっしゃいました」

ソファからゆっくりと立ち上がった千鶴は、電話の声の印象そのままの、上品で穏やかな老婦人だった。彼女が微笑みながら紡ぐ言葉は、やはりすべてが美しいハープの音色を奏でていた。

「このピアノはね、無口な夫が唯一、私に遺してくれた宝物なの。あの人は言葉少なな人だったけど、その言葉はいつも真実の響きを持っていたわ」

そう言ってピアノに触れる千鶴の横顔は、遠い昔を懐かしむ少女のようだった。

奏は、千鶴と話す時間が好きになった。週に二度、ピアノの調律に通う日々。彼はハンマーのフェルトを整え、錆びついた弦を磨きながら、彼女の思い出話に耳を傾けた。夫との出会い、プロポーズの言葉、喧嘩した日のこと。そのすべてが、奏の耳には心地よいハープの二重奏となって響いた。この世界にも、こんなにも美しい真実があったのか。奏の凍てついていた心が、ピアノの音と共に、少しずつ調律されていくのを感じていた。

そんなある日、一人の男が応接間に顔を出した。

「母さん、お客さんかい?」

年の頃は四十代半ば。千鶴の息子だという拓也と名乗る男は、一見すると母親思いの優しい息子に見えた。だが、奏の耳には、彼の声がチューニングの狂ったチェロのように、不快な不協和音として聞こえた。

「いつも母がお世話になっております。本当に感謝していますよ」

その言葉も、耳障りな軋みを伴っていた。

「母のことは、心から心配なんです。だから、先生が来てくださるようになって、母の表情が明るくなったのが本当に嬉しい」

嘘だ。すべてが嘘の音に汚染されている。奏は、拓也に不信と嫌悪を抱いた。こんなにも清らかな心を持つ母親に、なぜこの男は平気で嘘をつけるのだろうか。奏は、自分の能力が、千鶴をこの偽善者から守るためにあるのかもしれないとさえ思った。

調律は終盤に差し掛かっていた。ピアノは本来の響きを取り戻しつつあった。奏は、このピアノが完璧な音を奏でるようになったら、千鶴に自分の能力のことを打ち明けてみようかと考えていた。そして、息子の嘘について、それとなく警告すべきではないか、と。

第三章 真実という名の残酷なフルート

最後の調律を予定していた日の朝、拓也から慌てた様子の電話があった。「母が、倒れました」。その声はもちろん、不快なチェロの不協和音だった。しかし、その音にはいつになく切迫した響きが混じっており、奏は急いで病院へと向かった。

集中治療室の前の廊下で、奏はガラス越しに眠る千鶴の姿を見つめていた。そこへ、医師と話しながら拓也がやってきた。奏は咄嗟に柱の陰に身を隠す。聞こえてくる会話に、耳をそばだてた。

「……残念ですが、アルツハイマーはかなり進行しています。記憶の混濁も、さらに進むでしょう」

医師の言葉は、冷静で、事実だけを告げるクラリネットの音色だった。

奏は息をのんだ。そして、続く拓也の言葉に、全身が凍りつくような衝撃を受けた。

「ええ、分かっています。だからこそ、父が十年前に亡くなったことも、私が本当は血の繋がった息子ではなく、遠縁の私が身寄りのない千鶴さんを引き取って世話をしているということも……最後まで、秘密にしなければ」

その言葉は。

奏が今まで聞いた、どんな音とも違っていた。

それは、嘘の音ではなかった。

拓也の声は、狂ったチェロの軋みを失い、澄み切った、悲しいほどに美しいフルートの音色となって奏の鼓膜を震わせたのだ。それは、あまりにも深く、あまりにも優しい「真実」の響きだった。

奏は、その場に崩れ落ちそうになった。

なんだ、これは。

千鶴が語ってくれた夫との思い出は? あの美しいハープの音色は、すべて彼女の作り上げた幻想だったというのか? そして、拓也が発し続けていた不協和音は……。

「母さん、僕だよ、拓也だよ」

「母のことは、心から心配なんです」

それらの言葉は、千鶴の作り上げた「息子がいる幸せな世界」を壊さないための、必死の演技。彼がついていた嘘は、千鶴の幸せを守るためだけの、「優しい嘘」だったのだ。

奏は自分の愚かさに打ちのめされた。自分は、音の真偽を聞き分けることなどできていなかった。ただ、表層的な「事実」と「虚偽」を判別していたに過ぎない。その音の奥にある、人の想いや覚悟、優しさや痛みを、何も理解しようとしていなかった。

彼は、音だけで人を断罪していた。なんと傲慢だったことか。

真実が必ずしも人を幸せにするとは限らず、嘘が必ずしも人を傷つけるわけではない。世界の音は、彼が思っていたよりもずっと複雑で、豊かで、そして悲しい。

奏は、柱の陰で静かに涙を流した。彼の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ、そして、新しく生まれ変わっていく瞬間だった。

第四章 優しい嘘が奏でる追想曲

数日後、千鶴の容態は少しだけ持ち直した。奏は拓也に連絡を取り、病室に電子ピアノを運び込んだ。最後の調律は、彼女の枕元で行うと決めていた。

病室で顔を合わせた拓也は、憔悴しきっていた。奏は、彼の前に立つと、深く頭を下げた。

「あなたの音は……とても、優しい音色ですね」

拓也は驚いたように顔を上げた。奏はただ、静かに微笑み返す。もう、彼の声は不協和音には聞こえなかった。いや、聞こえるのかもしれない。だが、奏にはもう、その音を不快だとは思えなかった。それは、一人の人間が、誰かを守るために奏でる、必死の協奏曲の一部なのだから。

奏は、千鶴が眠るベッドの横で、ピアノの鍵盤に指を置いた。

拓也が、そっと耳打ちする。「母が、夫との思い出の曲だとよく口ずさんでいた曲です。でも、本当は…母が若い頃に自分で作った曲なんです」。

奏は静かに頷き、息を吸い込んだ。

そして、そのメロディを奏で始めた。

それは、どこか懐かしく、切なく、そして温かい光に満ちた曲だった。ピアノの澄んだ音色が、静かな病室を満たしていく。

すると、眠っていたはずの千鶴が、ゆっくりと目を開けた。その瞳は涙で潤んでいた。

「ああ……あなたの音だわ……。ずっと、聴きたかった…」

彼女の掠れた声は、最期に聞いた時と同じ、美しいハープの音色だった。彼女にとっての「あなた」が、十年前に亡くなった夫なのか、幻想の中に生きる夫なのか、あるいは、ずっとそばにいてくれた拓也のことなのか。それは誰にも分からなかった。だが、そんなことはもう、どうでもよかった。

そこにはただ、愛と感謝に満ちた、真実の音が響いていた。

千鶴は、その数日後、ピアノの音色に包まれるように、静かに息を引き取った。

葬儀を終え、奏は家路についていた。夕暮れの街は、様々な音で溢れている。車のクラクション、行き交う人々の話し声、商店街の音楽。その中には、相変わらずたくさんの不協和音が混じっていた。

しかし、奏の耳には、それらがもう不快な騒音には聞こえなかった。

一つ一つの不協和音も、美しい音色も、すべてが人間という不完全で愛おしい存在が生み出す音楽の一部なのだ。

嘘も真実も、喜びも悲しみも、すべてが混じり合って、この世界の豊かで複雑なハーモニーを奏でている。

奏は空を見上げた。茜色に染まる空が、目に沁みるほど鮮やかだった。

彼はもう、音に惑わされない。音の奥にある、人の心の響きを聴くことができるから。

彼の呪いだったはずの聴覚は、世界を愛するための、ささやかな祝福に変わっていた。

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