第一章 冷たい雨と百合の香り
桐谷朔(きりたに さく)の鼻は、時として呪いだった。彼は、人が心の奥底に沈めた強烈な後悔を、「香り」として嗅ぎ取ってしまう。それは天賦の才として彼の調香師としてのキャリアを支え、同時に、彼の心を静かに蝕んできた。
アトリエの扉を開けた老婦人からは、湿った土と、盛りを過ぎた金木犀の香りがした。初恋の人に手紙を渡せなかった、七十年前の後悔。朔はその香りを読み解き、記憶の引き金を引くための香水を静かに調合する。ベルガモットの爽やかさの奥に、パチュリの土っぽさと、オスマンサスの甘く切ない香りを秘めた小瓶。それを受け取った老婦人は、一筋の涙をこぼして帰っていった。
人々を過去の呪縛から解き放つ一方で、朔自身は、決して消えない香りに囚われていた。
三年前、妻の美緒が息を引き取った病室で嗅いだ、あの香り。それは、窓を叩く冷たい雨の匂いと、見舞いの花瓶に生けられた白百合が枯れゆく匂いを混ぜ合わせたような、絶望的に清冽で、悲しい香りだった。美緒の後悔の香り。彼女は一体、何を悔いて逝ったのか。最期の瞬間、彼女は穏やかに微笑んでさえいたのに。
以来、朔はその香りの再現に取り憑かれていた。アトリエの棚には、ラベルのない試作品の小瓶が数百本と並んでいる。どれもが「あの日」に限りなく近いが、核心に触れることができない、もどかしい模倣品だった。
「お父さん、ご飯、できてるけど」
ドアの隙間から、高校生の娘・ひかりが顔を覗かせる。その声には、父への気遣いと、踏み込めない壁を感じている者の戸惑いが滲んでいた。
「ああ、すぐ行く」
朔はガラス棒を置いた。ひかりとの間には、妻の死以来、見えない溝が横たわっている。二人とも、その溝の越え方がわからずに、ただ時間だけが過ぎていく。食卓での会話はいつも少なく、食器の触れ合う音だけが空虚に響く。朔は、目の前の娘の心にどんな後悔が渦巻いているのか、あえて嗅ぎ取ろうとはしなかった。自分のことで、手一杯だったからだ。彼はただ、亡き妻の幻影だけを追いかけ、過去という名の密室に鍵をかけて閉じこもっていた。
第二章 鏡に映る幻香
朔の探求は、日を追うごとに狂気的な熱を帯びていった。書斎にこもり、世界中から取り寄せた希少な香料に埋もれる。リリー・アブソリュート、アンブレットシード、そして雨上がりのアスファルトの匂いを再現するという特殊な合成香料「ペトリコール」。それらを万分の一グラム単位で調整し、試行錯誤を繰り返す。だが、何度試しても、美緒が遺したあの魂を揺さぶるような香りの深淵には届かなかった。それはまるで、触れようとすると霧散してしまう蜃気楼のようだった。
その執着は、ひかりとの距離をさらに広げていた。父親は、生きている自分ではなく、死んだ母親の「匂い」にしか興味がないのだと、ひかりは感じていた。彼女は時折、父のアトリエの前で立ち止まり、ドアの向こうから漏れ聞こえるガラス器具の音に、胸を締め付けられるような孤独を覚えていた。
ある日の夕暮れ時だった。学校から帰ってきたひかりが、俯きがちにリビングのソファに座り込んでいた。友人関係で何かあったのだろう、その背中からは、若葉が霜に打たれたような、脆く沈んだ香りが漂っていた。朔はそれに気づきながらも、かけるべき言葉が見つからない。
「ひかり」
やっとの思いで絞り出した声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞬間、朔は息を呑んだ。
ひかりの瞳の奥から、ふわりと、あの香りが立ち上ったのだ。
冷たい雨と、枯れゆく百合の香り。
三年間、追い求めてきた美緒の後悔の香りが、なぜ、今、娘から? 朔の全身を、理解不能な衝撃が貫いた。まさか。ひかりが、母親の死に関して、何かを後悔しているというのか? あの日、病院には来させなかったはずだ。まだ中学生だった彼女には、あまりに酷な光景だと思ったから。一体、何が。
「どうしたの、お父さん。変な顔して」
ひかりの問いかけは、朔の耳には届かなかった。彼の頭の中は、疑念と混乱の渦に飲み込まれていた。娘から漂う、妻の香り。それは朔にとって、最も残酷な謎の提示だった。彼は娘の心を傷つけることを恐れ、真実を問いただすことができない。ただ、疑心暗鬼という名の毒が、じわじわと彼の心を侵食していくのを、どうすることもできなかった。
第三章 己が心の在り処
疑念は、一度芽生えると、際限なく枝葉を伸ばしていく怪物だった。朔は、ひかりの一挙手一投足に、後悔の影を探すようになった。彼女のため息、ふとした沈黙、部屋にこもる時間。そのすべてが、何かを隠している証拠のように思えてならなかった。
「ひかり。お母さんのことで、何か、お父さんに隠していることはないか」
ある晩、耐えきれずに切り出した朔の言葉に、ひかりは怯えたように目を伏せた。
「…何もないよ」
その答えが、かえって朔の疑念を煽った。なぜだ。なぜ正直に話してくれない。父娘の間の溝は、もはや修復不可能なほどに深く、暗くなっていた。朔は、ひかりが母親の死にまつわる何か重大な秘密を抱え、一人で苦しんでいるのだと思い込んだ。そして、その苦しみから救い出せない自分を責めた。
季節は巡り、美緒の命日を控えた、冷たい雨が降りしきる日のことだった。アトリエでの調合は、焦りから完全に精彩を欠いていた。指先が震え、高価なリリー・アブソリュートの入ったビーカーを取り落としてしまう。甲高い音を立てて砕け散るガラス。床に広がる甘く濃厚な香りが、苛立ちを増幅させた。
「くそっ!」
朔が悪態をついた、その時だった。
彼は気づいた。
あの香りが、アトリエ中に満ちている。割れたビーカーからではない。棚の試作品からでもない。もっと、ずっと近くから。まるで、この部屋の空気そのものが後悔しているかのように。いや、違う。この香りを発しているのは…。
朔は、震える手で自らの胸に触れた。
源は、ここだ。自分自身の、内側だ。
瞬間、雷に打たれたように、すべての記憶が鮮明に蘇る。三年前の病室。死の淵にいた美緒は、か細い声でこう言ったのだ。「あなたとひかりがいてくれて、幸せだった。もう、大丈夫よ」。彼女は微笑んでいた。そこに後悔の翳りなど微塵もなかった。彼女はすべてを受け入れ、満たされて旅立とうとしていた。
後悔していたのは、朔の方だったのだ。
「大丈夫」という妻の言葉に、「大丈夫じゃない、行かないでくれ」とすがりつくこともできず、ただ黙って手を握ることしかできなかった自分。もっと何か、してやれることがあったのではないか。なぜ、あの時、もっと言葉を尽くさなかったのか。その無力感と、救えなかったという自責の念が、朔の中で「冷たい雨と百合の香り」という幻香を作り出していたのだ。
ひかりから香りがしたのは、彼女が父の絶望的な悲しみを、鏡のように敏感に感じ取っていたからに過ぎない。彼女は、父を苦しませている原因が自分にあるのではないかと、自分自身を責めていたのだ。朔が追いかけていたのは、妻の後悔ではなかった。彼自身の、巨大な後悔の幻影だった。
呆然と立ち尽くす朔の頬を、涙が静かに伝っていった。それは、三年分の孤独と誤解が溶けていく、熱い雫だった。
第四章 未来へのレガシー
真実に打ちのめされた朔は、その夜、初めてひかりにすべてを話した。自分の持つ特殊な能力のこと。ずっと妻の後悔の香りを探していたこと。そして、その香りの本当の正体が、自分自身の心にあったこと。
ひかりは、ただ黙って父の話を聞いていた。話が終わると、彼女は静かに言った。
「私、ずっと怖かった。お父さんが、お母さんのことばかり見てて、私のことなんて見えてないんだって。私が、お父さんを苦しめてるんだって」
その言葉は、鋭い刃のように朔の胸を貫いた。彼は、亡き妻に囚われるあまり、生きている娘を、最も愛すべき存在を、孤独の闇に置き去りにしていたのだ。
「すまなかった、ひかり。本当に…すまなかった」
父娘は、その夜、言葉が尽きるまで語り合った。三年間凍てついていた時間が、ようやく溶け始めた瞬間だった。
翌日、朔はアトリエに入った。だが、彼が向かったのは、後悔の香りを並べた棚ではない。陽光が差し込む窓際の、清潔な作業台だった。彼は新しい香水を作り始めた。それは過去を再現するためのものではない。未来を祝福するための香りだ。
トップノートには、美緒が愛した、陽だまりのようなミモザの明るい香り。ミドルノートには、ひかりが生まれた春の日に庭に咲き誇っていた、希望に満ちたフリージアの香り。そしてベースノートには、家族三人の穏やかな日常を象Gする、温かいアッサムティーの香りを、そっと忍ばせた。
完成した香水を、朔は「レガシー」と名付けた。遺産。美緒が遺してくれた、愛と記憶の結晶。そして、これからひかりと共に築いていく未来への約束。
朔は、透明な液体が揺れる小瓶を、ひかりの手に渡した。
「これは、お母さんが遺してくれた思い出と、これからのお前との未来のための香りだ」
ひかりは、恐る恐るその香りを手首につけた。立ち上る、温かく、懐かしく、そしてどこまでも優しい光のような香りに、彼女の瞳から大粒の涙が溢れた。それは、父が初めて、まっすぐに自分の方を向いてくれた証だった。
その日の夕食は、久しぶりに父娘の笑い声が響いた。部屋には、「レガシー」の優しい香りが満ちている。朔の鼻には、もうあの「冷たい雨と百合の香り」はしない。代わりに、食卓に並んだカボチャのポタージュの甘い湯気、窓の外の雨上がりの土の匂い、そして隣で笑う娘のシャンプーの香りといった、日常に溢れる、ありふれていて、しかしこの上なく愛おしい香りを感じていた。
彼は、失っていた「今」という時間を取り戻したのだ。過去の後悔ではなく、未来への希望を香らせながら、父と娘の新しい日々が、静かに始まろうとしていた。