未来の残響を聴く男

未来の残響を聴く男

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第一章 悲鳴の予兆

音響デザイナーである俺、水上響介(みなかみ きょうすけ)の世界は、常に不協和音に満ちていた。それは単なる比喩ではない。俺には、ある場所で発せられた声の、数日後、あるいは数年後に響くであろう「未来の反響」が聞こえてしまう。呪いとしか言いようのない、この忌まわしい能力のせいで、俺はもう何年も、愛する人の「愛してる」という言葉のすぐ後に、いつか訪れる別れの「さようなら」という冷たい響きを聞き続けてきた。だから、人と深く関わることをやめた。ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンが、俺と世界を隔てる唯一の防壁だった。

その日も、俺は新しい環境音の素材を求めて、初夏の光が木々の葉を透かす公園に来ていた。高性能マイクをベンチのそばに立て、ヘッドフォン越しに世界の音を拾う。鳥のさえずり、風が梢を揺らす音、遠くで響くサイレン。それらが混じり合い、一つの音の風景を創り出す。その繊細な音のレイヤーに集中していた、その時だった。

「待てー!」

鈴を転がすような、幼い少女の笑い声がマイクに飛び込んできた。見ると、赤いワンピースを着た五歳くらいの少女が、シャボン玉を追いかけて芝生の上を駆け回っている。その純真な声は、濁った俺の世界に差し込む一筋の光のようだった。微笑ましい光景に、思わず口元が緩む。

だが、次の瞬間。全身の血が凍りついた。

少女の澄んだ笑い声に、まるで悪夢の残響のように、おぞましい音が重なって聞こえたのだ。それは、数日後の未来、おそらく同じこの場所で響くであろう、彼女自身の声。

『いや……やめて……離してっ!』

それは恐怖と絶望に染まった、切り裂くような悲鳴の反響だった。鼓膜を突き破り、脳髄を直接かき混ぜられるような激しい不快感。俺はヘッドフォンをむしり取るように外し、激しく喘いだ。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。芝生の上では、何も知らない少女が母親らしき女性の元へ駆け寄り、無邪気に笑いかけていた。

まただ。また聞こえてしまった。聞きたくもない、誰かの未来の絶望が。

いつもなら、俺は耳を塞ぎ、目を閉じ、この場から逃げ出す。関わってはならない。俺にできることなど何もない。そう自分に言い聞かせ、震える手で機材を片付け始めた。だが、どうしても、脳裏に焼き付いて離れないのだ。あの少女の、未来の悲鳴が。そして、その悲鳴の後に続く、ぞっとするような静寂が。

俺は、初めて自分の呪いから逃げ出すことができなかった。

第二章 歪んだ影

翌日から、俺の日常は一変した。仕事は全く手につかず、スタジオに籠っても、聞こえてくるのはあの少女の悲鳴の反響ばかりだった。罪悪感が鉛のように胸に沈み、呼吸を浅くする。見過ごせば、あの子は間違いなく不幸な目に遭う。俺だけが、その予兆を知っている。

意を決した俺は、まず少女の身元を調べ始めた。幸い、彼女は近所の公園の常連らしく、数日通ううちに、名前が陽菜(ひな)であること、そして母親と二人で近くのマンションに住んでいることが分かった。父親らしき男性の姿は一度も見かけなかった。

俺は自分に何ができるか考えあぐねた。警察に「未来の悲鳴が聞こえた」などと話しても、頭のおかしい男だと思われるだけだろう。母親に直接警告するか? いや、見ず知らずの男に娘が危険だと言われ、素直に信じる親がいるはずもない。むしろ、俺が不審者として通報されるのが関の山だ。

結局、俺にできることは、ただ一つしかなかった。陽菜ちゃんを見守り、悲鳴の反響が聞こえた公園で、事件が起きるであろう数日の間、彼女を危険から守ること。それは、ほとんどストーカーと変わらない行為だった。俺は帽子を目深にかぶり、公園の木陰から、母娘の姿を息を殺して見つめ続けた。

陽菜ちゃんの母親は、一見すると完璧な母親だった。常に娘に優しく微笑みかけ、汚れた服をこまめに拭き、少しでも危ない遊具に近づけば、飛んでいって制止する。その過保護ともいえる振る舞いは、ある種の歪みを帯びているように俺の目には映った。彼女の瞳の奥には、常に何かに対する怯えのような、暗い影が揺らめいていた。

反響を聞いてから三日目の夕暮れ。俺の予測では、事件が起こるのは今夜のはずだった。空が茜色から深い藍色へと移ろう中、陽菜ちゃんの母親が「もう帰りましょう」と声をかけた。その時、一台の黒いワゴン車が公園の脇に停まり、中から作業着姿の男が降りてきた。男はきょろきょろと周囲を見回し、陽菜ちゃんの方へゆっくりと歩き始める。

間違いない、こいつだ。

俺の全身に緊張が走る。心臓の鼓動が耳元で鳴り響き、掌にじっとりと汗が滲んだ。男が陽菜ちゃんに数メートルまで近づいた瞬間、俺は木陰から飛び出し、二人の間に立ちはだかった。

「何をする気だ!」

俺の剣幕に、男も母親も驚いた顔でこちらを見る。母親は咄嗟に陽菜ちゃんを背後にかばった。

「あなたは…誰ですの?」「何言ってんだ、あんた」男が怪訝な顔で俺を睨む。俺は構わず携帯を取り出し、震える指で110番を押した。

「警察を呼んだ! お前がこの子に何かするつもりなのは分かってるんだ!」

男は呆れたように両手を上げ、「おいおい、勘弁してくれよ。俺はただ、依頼されたピアノを隣の家に届けに来ただけだ」と言った。やがて到着した警察官によって、男が本当に運送業者であり、何の関係もなかったことが証明された。

俺は警官から厳重注意を受け、母親からは狂人を見るような目で見られた。地面に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪える。なぜだ? 俺の予測は外れたのか? あの反響は、ただの幻聴だったとでもいうのか?

混乱する俺の視界の隅で、母親が陽菜ちゃんの手を強く引き、足早に公園を去っていくのが見えた。その時、俺の耳は、母親が娘に囁く声を微かに捉えた。

「大丈夫よ、陽菜。ママが、汚いものから全部守ってあげるからね」

その声に重なって、新たな反響が聞こえた。それは未来の母親自身の声。

『ごめんね……ごめんね、陽菜……こうするしかなかったの……』

絶望的なまでの後悔と、狂気が入り混じった、慟哭の響きだった。

第三章 反響の真実

全身を雷に打たれたような衝撃が駆け巡った。間違っていた。俺は、根本的に何かを、致命的に間違えていた。

陽菜ちゃんを脅かす影は、外から来るのではなかった。ずっと、彼女の一番近くにいたのだ。過保護に見えた母親の愛情。その奥に隠されていた、深く、暗い歪み。俺が聞いた未来の悲鳴は、見知らぬ誰かから逃げる声ではなかった。実の母親から逃げようとする、陽菜ちゃんの悲痛な叫びだったのだ。

俺は自分の愚かさに吐き気を覚えた。俺の軽率な行動が、母親の歪んだ計画を早めてしまったのかもしれない。俺という「汚いもの」が娘に近づいたことで、彼女は「娘を守る」ための最終手段に踏み切ろうとしている。

考えるより先に、身体が動いていた。俺は陽菜ちゃんたちが住むマンションへと全力で走った。夕闇が急速に街を飲み込んでいく。アパートの前に着くと、ちょうど母娘がエントランスに消えていくところだった。オートロックのドアが閉まる寸前、俺は身体を滑り込ませた。エレベーターの表示は、彼女たちの部屋がある7階を指している。階段を駆け上がりながら、俺は必死に思考を巡らせた。何をすべきか。どうすれば、陽菜ちゃんを救えるのか。

7階に着くと、廊下の突き当りにある部屋のドアが、静かに閉まるところだった。息を整え、インターホンを押す。数秒の沈黙の後、モニター越しに母親の警戒した声が聞こえた。

「……どなたですか。先ほどの…」

「陽菜ちゃんが危ない!」俺はドアに向かって叫んだ。「お願いです、話を聞いてください!」

「何を言っているんですか! 警察を呼びますよ!」

声はヒステリックに震えている。時間がない。俺はドアノブに手をかけ、強く揺さぶった。

「あなたがしようとしていることは分かっています! それは愛情じゃない、ただの支配だ! 陽菜ちゃんを苦しめるだけだ!」

ドアの向こうで、何かが倒れるような物音がした。そして、微かに陽菜ちゃんの泣き声が聞こえる。まずい。

俺は自分の持つ全ての力を込めて、ドアに体当たりをした。数回の衝撃で、古いドアの鍵が悲鳴を上げて壊れる。

部屋に転がり込むと、そこに広がっていたのは異様な光景だった。リビングの真ん中には、旅行用の大きなトランクが広げられ、中には子供服やおもちゃが詰め込まれている。そして、その傍らで、母親が泣きじゃくる陽菜ちゃんの手を掴み、どこかへ連れて行こうとしていた。その目は虚ろで、正気の色を失っていた。

「来るな!」母親は叫び、近くにあった花瓶を掴んで俺に投げつけた。ガラスが砕け散る派手な音が響く。

「陽菜は私が守るの! この汚れた世界から、この子だけは私が守ってあげなきゃいけないのよ!」

その狂気に満ちた声を聞いた瞬間、俺の耳には、再び彼女の未来の反響が流れ込んできた。後悔に泣き叫ぶ声、自分を責め続ける声、そして、陽菜ちゃんの名前を呼び続ける、永遠に届かない声。

それは、彼女自身がこれから背負うことになる、終わりのない地獄の音だった。

第四章 今、この声だけを

「聞こえるんだ」

俺は砕けたガラスの破片を踏み越えながら、ゆっくりと母親に近づいた。

「俺には、あなたの未来の声が聞こえる。あなたがこれから、どれだけ後悔するのか。どれだけ自分を呪うことになるのか。陽菜ちゃんの名前を呼びながら、一人で泣き続けるあなたの姿が、俺には見えるんだ」

母親の動きが止まる。その瞳が、わずかに揺らいだ。

「あなたが聞くべきなのは、未来の後悔の声じゃない。今、あなたの目の前で泣いている、陽菜ちゃんの声だ」

俺は、生まれて初めて、自分の能力を呪いではなく、武器として使っていた。未来の絶望を語ることで、現在の絶望を止めようとしていた。

「陽菜ちゃんは、汚れた世界から守られたいなんて思ってない。ただ、あなたと一緒に、笑って生きていきたいだけなんだ。公園でシャボン玉を追いかけていた時みたいに。その声を、ちゃんと聞いてあげてくれ」

俺の言葉が、固く閉ざされていた彼女の心の扉を、少しだけこじ開けたようだった。母親の腕の力が緩み、陽菜ちゃんがその腕から逃れて、俺の後ろに隠れた。母親は、その場にへたり込み、子供のように声を上げて泣き始めた。それは、狂気の叫びではなく、張り詰めていた糸が切れた、ただただ悲しい嗚咽だった。

やがて、俺の通報で駆けつけた警察官によって、母親は保護された。陽菜ちゃんは児童相談所に引き取られることになった。俺は事情聴取を終え、夜風が冷たい帰り道を、一人とぼとぼと歩いていた。

結局、俺は一つの家族を壊してしまったのかもしれない。だが、あのまま見過ごしていれば、二人はもっと深い絶望に沈んでいただろう。正しかったのかは分からない。でも、行動せずにはいられなかった。

それから数週間後。俺は再びあの公園のベンチに座っていた。だが、以前とは一つだけ違う点があった。俺の耳に、ヘッドフォンはなかった。

世界の音が、直接鼓膜に届く。子供たちの笑い声、噴水の水の音、恋人たちの囁き。それらは時折、未来の悲しみや後悔の反響を伴って聞こえてくる。でも、もう俺はそれを恐れなかった。悲鳴があるのなら、その手前できっと救いの声があるはずだ。絶望の反響の裏には、希望の音階が隠れているのかもしれない。

俺は、この世界と、そこに生きる人々の音と、もう一度向き合ってみようと決めたのだ。

ふと、柔らかな風が頬を撫でた。その風に乗って、微かな、本当に微かな音が俺の耳に届いた。それは、まだ生まれてもいない、未来の音。

『ありがとう』

誰かが、未来のどこかで、俺に向かって囁いたような、温かい感謝の反響だった。

俺は空を見上げ、静かに微笑んだ。世界は、悲鳴や慟哭だけで満たされているわけじゃない。俺の呪われた耳が、初めて美しい未来の音色を捉えた瞬間だった。

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