【琥珀色の後悔、あるいは透明な君へ】
第一章 灰色の幻影
カフェの窓際。斜向かいの席に座る男の首筋に、ねっとりとした灰色の脂が絡みついている。
安物のコロンと、何日も風呂に入っていない獣臭さを煮詰めたような悪臭。
男がナプキンで首を拭うたび、その脂――視界の端でノイズのように明滅する「靄」が、生き物のように蠢く。誰かを裏切った記憶か、あるいは捨て去りたい過去か。
俺は胃の腑からせり上がる酸っぱいものを、冷めた水で流し込んだ。
「ねえ、ユメアキ。聞いてる?」
鈴を転がしたような声。
視線を戻すと、湯気を立てるブラックコーヒー越しに、リナが小首を傾げていた。
「……悪い。少しボーッとしてた」
「もう。せっかくのデートなのに」
リナが笑うと、店内の淀んだ空気が一瞬で凪ぐ。
彼女の周りだけ、世界の彩度が高い。
俺の特異な視界に映る「灰色の汚泥」――他人の後悔や悪意――が、彼女には一切ない。まるで清流のようなその透明さが、俺の腐りかけた神経を唯一、鎮めてくれる。
「仕事、忙しいの?」
リナがテーブル越しに手を伸ばし、俺の甲に触れる。
ビクリ、と肩が跳ねた。
「ごめん……」
「ううん。ユメアキの手、いつも震えてる」
彼女の指先はひどく冷たく、それでいて心地よい。
だが俺は、そっと手を引き抜いた。
窓ガラスに映る俺の姿。そこには何も映っていない。
他人の「澱」は見えても、自分自身の姿には何の靄もかからない。俺は空っぽだ。リナのような純粋さゆえではない。中身がないのだ。
その欠落感が、彼女に触れることを躊躇わせる。
「あ、そうだ。これ見て」
気まずい沈黙を破るように、リナが鞄から小さな包みを取り出した。
掌の上で、琥珀色の結晶がキラキラと光を弾く。
「道端で拾ったの。なんかね、すごく惹かれて……」
カチリ。
脳の奥で、留め金が外れる音がした。
視界が歪む。
キイイイィィン。
不快な高周波が鼓膜を突き破る。
美しい琥珀の中、無数の人間の顔が――老若男女が、苦悶の表情で口を大きく開け、無音の絶叫を上げているのが見えた。
「捨てろ!」
俺は立ち上がり、彼女の手を払いのけた。
カシャン。
結晶が床に転がり、砕け散る。
「ユメアキ……?」
リナが目を見開き、凍りついている。
「触るな! 離れろ!」
俺の警告は遅かった。
砕けた結晶から、コールタールのような黒い煙が噴き出し、リナの白い足首に蛇のように巻き付いた。
店内モニターから流れていた能天気なCMソングが、不協和音に変わって聞こえる。
『――あなたの心の荷物、政府がお預かりします。共感委託システムで、明日も軽やかに――』
嘘だ。
あれは荷物なんかじゃない。
這い寄る黒煙が、リナの瞳の光を奪っていく。
「……いたい」
リナがガクガクと顎を震わせる。
「……かえして……わたしの……人生を……かえせぇぇぇ!!」
彼女の口から飛び出したのは、聞いたこともない、野太い男の咆哮だった。
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第二章 蝕まれる境界
壁の薄いアパートの一室。
つけっぱなしのテレビが、臨時ニュースを告げている。
『――システム障害の報告が相次いでいます。直ちにメンタル・サーバーとの接続を切断し――』
俺はリモコンを投げつけ、画面を割った。
ベッドの上、リナの身体が弓なりに反り返る。
「ギャアアアアッ!」
彼女の喉が裂けそうなほどの絶叫。
白目を剥いた彼女の顔の上で、皮膚の下の筋肉が波打つ。まるで別の誰かの表情が、内側から彼女の顔を突き破ろうとしているかのように。
「リナ! 俺を見ろ! それは君じゃない!」
俺は彼女の肩を押さえつける。
焼けた鉄に触れたような熱さ。
「……あつい……くらい……みず……」
リナの声に戻る。だが、すぐにまた低い呻き声が混じる。
「……殺してやる……裏切り者が……」
「くそっ、入り込みすぎてやがる……!」
リナは「受信」してしまったのだ。
あの琥珀色の結晶――『夢の欠片』を媒介に、行き場を失った誰かの強烈な「後悔」が、純粋な彼女の精神を器として乗っ取ろうとしている。
俺の視界の中で、部屋の隅々から灰色の影が湧き出していた。
天井から逆さまに垂れ下がる女、床を這いずる血まみれの子供。
システムが処理しきれなかった「悪夢」の残滓たちが、新鮮な依り代を求めて集まってくる。
俺はポケットから、砕け残った琥珀の欠片を取り出した。
握りしめると、手のひらの皮膚が焼け焦げる臭いがした。
脳髄に直接、膨大なデータが雪崩れ込んでくる。
『エラーコード:拒絶。許容量超過』
『感情データの廃棄場所ヲ指定シテクダサイ』
『廃棄不可。廃棄不可。再送シマス』
視界がノイズで埋め尽くされる。
巨大なサーバー施設の幻影。
整然と並ぶ培養槽のようなカプセル。そこには「処理済み」とラベルを貼られた人間の脳が浮いている。
――共感トハ、データノ移動ニ過ギナイ。
無機質なシステムログが流れる。
この国が誇る「共感委託」。
辛い記憶を他人に預けて楽になる? 笑わせるな。
ただ単に、誰かの痛みをデジタルデータに変換し、社会的に抹殺された「棄民」たちの脳へ強制送信してゴミ捨て場にしていただけだ。
そのゴミ箱が今、決壊した。
「ユメアキ……」
リナの手が、俺の袖を掴む。
その手は半透明になり、向こう側のシーツが透けて見えた。
「私が……消えちゃう……」
「行くな! ここにいろ!」
「……ユメアキは、いいな」
彼女が、虚ろな目で俺を見る。
「空っぽで。……何も感じなくて、いいな」
心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。
違う。
何も感じないんじゃない。
俺は、見るのが怖かっただけだ。
他人の汚泥を見ることに疲れ果て、自分の内側に殻を作り、すべてを遮断していた。
「空っぽ」なのではない。「拒絶」していたのだ。
自分自身すらも。
その時、握りしめた欠片が、どす黒く脈動した。
俺の「拒絶」に呼応している?
窓の外、空が赤黒く染まり始めていた。
世界中のサーバーから溢れ出した「後悔」が、物理的な嵐となって街を飲み込もうとしていた。
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第三章 空っぽの鏡像
アパートが揺れる。
外ではサイレンと悲鳴が交錯し、窓ガラスがビリビリと共振していた。
システムの中枢が暴走し、全人類の潜在意識から「見たくないもの」を引きずり出しているのだ。
「う、ぅあ……」
リナの輪郭がブレる。テレビの砂嵐のように、彼女の存在がノイズに埋もれていく。
「やめろ……連れて行くな!」
俺は彼女を抱きしめようとする。
だが、腕は彼女の体をすり抜けた。
触れられない。
俺には実体があるのに、彼女はもう、あちら側の存在になりかけている。
『……対象ノ自我消失ヲ確認。データ上書キヲ開始シマス』
脳内に響く無機質なアナウンス。
俺は鏡を見た。
割れたテレビの画面に映る、情けない男の顔。
そこには相変わらず、何の色も、何の靄もついていない。
俺は安全地帯にいる。
いつだってそうだ。自分だけは傷つかない場所に立ち、特異体質を言い訳にして、人と深く関わることから逃げてきた。
リナの純粋さに憧れたふりをして、彼女を「清浄機」代わりにしていただけじゃないのか?
自分の汚れを見たくないから、透明な彼女のそばにいた。
それが、この結果だ。
俺の逃避が、彼女を無防備にし、システムの格好の餌食にしたんだ。
「……ふざけるな」
腹の底から、熱い塊が込み上げる。
俺は強く拳を握った。爪が食い込み、血が滲む。
血が出る。痛みがある。
俺はここにいる。
「俺は、綺麗なんかじゃない!」
叫びと共に、俺は自分の胸を強く叩いた。
ドクンッ。
心臓が早鐘を打つ。
視界の端、俺の肩口から、どす黒いタールのような煙が噴き出した。
他人のものではない。俺自身の「後悔」だ。
逃げ続けた歳月。言えなかった言葉。守れなかった約束。
それらが凝縮された、混じりっけのない自己嫌悪。
「見ろよシステム! これが俺だ!」
俺は血の滲む手で『夢の欠片』を握り潰すように力を込めた。
この欠片はシステムへのアクセスキーだ。
ならば、送りつけてやる。
「共感」でも「共有」でもない。
誰とも分かち合えない、分かち合いたくない、孤独で強烈な「自己拒絶」のデータを。
「俺の後悔は、誰にも渡さない!」
俺の脳から溢れ出した黒い奔流が、欠片を通じてシステムへ逆流する。
『警告。警告。未定義ノ感情パターンヲ検出』
『自己矛盾データ。共有不可能な個ヲ確認』
『論理エラー。処理不能――』
システムは「他者への委託」を前提に構築されている。
だが、俺が流し込んだのは「委託を拒絶する意思」そのものだ。
受け取り手がいない荷物。
無限にループするエラー。
『システム過負荷。強制シャットダウンヲ――』
バチバチと火花が散り、部屋中の家電がショートする。
俺の流した黒い血のようなデータが、世界を覆う琥珀色の幻影を侵食していく。
「戻ってこい、リナ!!」
俺は、実体のないその腕を、魂ごと掴むつもりで手を伸ばした。
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第四章 痛みの在り処
閃光。
そして、鼓膜が破れそうな轟音。
世界が一瞬、真っ白に塗り潰された。
意識が遠のき、そして急激に引き戻される。
「……っ、はぁ、はぁ……」
冷たい床の感触。
俺は咳き込みながら身を起こした。
部屋は滅茶苦茶だ。家具は倒れ、窓ガラスはすべて吹き飛んでいる。
だが、あのまとわりつくような灰色の影は消えていた。
静かだ。
恐ろしいほどの静寂。
「……ユメアキ?」
瓦礫の向こうで、小さな声がした。
心臓が跳ねる。
俺は這うようにして瓦礫を乗り越えた。
そこに、リナが座り込んでいた。
服はボロボロで、肌は煤けている。
だが、透けてはいない。
確かな質量と、影が、そこにあった。
「リナ……!」
俺は彼女に飛びついた。
温かい。
柔らかい。
心臓の音が、トクントクンと俺の胸に響いてくる。
「よかった……本当によかった……」
涙が止まらなかった。
俺の目から落ちる雫は、透明だった。もう、幻覚の靄は見えない。
「痛いよ、ユメアキ」
リナが弱々しく笑い、俺の背中に手を回す。
「苦しいし、怖いし……すごく、悲しい」
彼女の目からも涙が溢れていた。
「私、見ちゃった。ユメアキの中にある、暗くてドロドロしたもの」
「……ああ。見苦しいだろ」
「ううん」
リナは首を振り、俺を強く抱き締め返した。
「やっと見せてくれたね。……人間らしくて、愛おしいよ」
彼女の言葉が、冷え切った俺の空洞を満たしていく。
システムが壊れた今、世界中の人々は、一度手放したはずの「痛み」を突き返されただろう。
窓の外を見下ろせば、通りには呆然と立ち尽くす人々がいる。
彼らの背中には、もう他人の幻影はない。
その代わり、誰もが重そうに肩を落とし、自分の足で立つのに必死だった。
楽園の夢は終わったのだ。
これからは、誰も痛みを肩代わりしてくれない。
自分の後悔は、自分で背負って歩くしかない。
それは過酷な世界かもしれない。
けれど。
「行こうか」
俺はリナの手を取った。
指先はまだ冷たいが、握り返す力は強かった。
「うん。お腹、空いたね」
リナが涙を拭い、煤けた顔で笑う。
その笑顔は、かつてのような透明な美しさではなかった。
疲労と恐怖が刻まれた、人間臭い顔だった。
でも、今の俺には、それが何よりも美しく見えた。
俺たちは瓦礫を踏みしめ、痛みと後悔に満ちた、新しい朝へと歩き出した。