白光の調律師
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白光の調律師

第一章 白い静寂

僕の頭上には、いつも白い光の輪が浮かんでいる。純粋な、混じり気のない白。生まれた瞬間から、それは一度たりとも色を変えたことがないらしい。

この街では、誰もが『感情の光輪(オーラリング)』を携えて生きている。喜びは黄金に、悲しみは深い藍に、怒りは燃えるような赤に。人々の心模様は、隠しようもなく頭上で明滅し、揺らめき、その人の存在を彩っていた。市場を行き交う人々の頭上は、まるで万華鏡だ。弾むような橙色の光輪を輝かせる少女が、焼きたてのパンの香りに鼻をくすぐられ、その隣では、恋人と喧嘩でもしたのか、青年が濁った紫色の光輪を沈ませて歩いている。

僕はそれらを、ただの現象として眺める。美しいとも、羨ましいとも思わない。僕には、一度経験した感情を完全に忘れてしまう特異な体質があったからだ。

幼い頃、初めて口にした林檎の甘酸っぱさに胸を躍らせたことがある、と記録の上では知っている。両親の日記には、僕の光輪がその時一度だけ、まばゆいばかりの緋色に染まったと記されていた。だが、今の僕にはその「胸が躍る」という感覚がわからない。林檎の味は覚えている。しかし、それに伴う感動は、まるで遠い国の知らない言語のように、理解不能なものとなっていた。喜びも、悲しみも、怒りも、愛しさも。すべては一度きりの体験。味わった瞬間に、僕の中から永遠に失われる。

だから僕の光輪は、常に白。感情という絵の具がすべて洗い流された、まっさらなキャンバスの色。静かで、平坦で、どこまでも凪いだ水面のような日々。それが、僕の世界のすべてだった。

ある日の午後、僕は広場の古びたベンチに腰掛けていた。噴水の水音が単調なリズムを刻み、鳩の群れがパン屑を啄んでいる。そんなありふれた光景の中で、ふと、隣に座る老人に目が留まった。深く刻まれた皺、穏やかな瞳。そして、彼の頭上に浮かぶ光輪が、僕の視線を釘付けにした。

それは、燃えるような、しかしどこまでも優しい『緋色』だった。僕が、生まれて初めて林檎を味わった日に灯したという、忘却の彼方の色。なぜだか胸がざわついた。これは好奇心だろうか。それとも、まだ僕の中に残された、未知の感情の萌芽なのだろうか。

第二章 緋色の残光

「その色を、どこで?」

気づけば、声が漏れていた。自分でも驚くほど、その響きは乾いていた。

老人はゆっくりと僕に顔を向け、深い皺の刻まれた目元を優しく細めた。彼の緋色の光輪が、陽光を浴びて穏やかに揺れる。まるで、古い暖炉の炎を見ているような心地だった。

「この色かね」

老人は言った。

「長年連れ添った妻が、今朝、わしに淹れてくれた一杯の茶が、格別に美味くての。ただ、それだけのことじゃよ」

当たり前のように語られる、日常の喜び。だが、僕にとってそれは、失われた古代文明の遺物にも等しいものだった。僕が忘却したはずの感情の色が、今、目の前の他人の頭上で鮮やかに輝いている。この不可解な現象は、僕の静かな水面に、初めて大きな波紋を広げた。

「あなたは…僕を知っていますか?」

「さて、どうかの」

老人は意味ありげに微笑むと、ごわごわした布の袋から、何かを取り出した。それは掌に収まるほどの、鈍い光を放つ多面体だった。

「これをやろう。『感情の結晶』じゃ。迷子の感情が、時折こうして形を成すことがある」

差し出された結晶を、僕は恐る恐る受け取った。ひんやりとして、驚くほど滑らかだった。見る角度によって、虹色の光が内部で明滅しているように見える。

「君が忘れていったものかもしれん」

老人はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり、雑踏の中へと消えていった。

一人残された僕は、手の中の結晶を見つめた。迷子の感情。僕が忘れていったもの。その言葉が、頭の中で何度も反響する。僕は意を決して、その結晶をそっと両手で包み込んだ。

その瞬間、閃光が瞼の裏を焼いた。

知らないはずの光景が、奔流となって流れ込んでくる。幼い僕の手を引く、温かくて大きな手。祭りのざわめき。りんご飴の甘い香り。見上げる夜空に咲く大輪の花火。そして、胸の内側から込み上げてくる、熱い塊。世界が祝福に満ちていると信じて疑わなかった、あの純粋な、まばゆいばかりの……『喜び』。

だが、それは刹那の幻だった。光は消え、感覚は霧散し、僕は再び白い静寂の中に突き落とされた。手の中の結晶は、先ほどまでの輝きを失い、ただの曇った石ころのようになっていた。

けれど、確かな手応えがあった。僕の感情は、消えたのではなかった。どこかへ『行った』のだ。僕は、その行先を突き止めなければならないと、強く思った。

第三章 世界の律動

あの日以来、僕の世界を見る目は変わった。僕は街を歩き、人々の光輪を、以前よりもずっと注意深く観察するようになった。すると、奇妙な事実に気づき始めたのだ。

絶望に打ちひしがれ、深い藍色の光輪を沈ませる女性がいた。だが、その藍の縁には、僕がかつて子犬を撫でた時に感じた『安らぎ』の若草色が、ごく微かに混じり合って、彼女の悲しみをほんの少しだけ和らげているように見えた。

理不尽な怒りに肩を震わせ、真っ赤な光輪を燃え上がらせる若者がいた。彼の激情の赤の中にも、僕が妹の寝顔を見た時に忘れた『慈しみ』の桜色が淡く溶け込み、破壊的な衝動をわずかに抑制しているようだった。

僕が失った感情の欠片は、この世界の至る所に散らばり、人知れず他者の心を支えているのかもしれない。

そんな仮説を胸に抱いていた矢先、その事件は起きた。

街の中心、交差点での荷馬車の暴走事故。けたたましい嘶き、木材の砕ける轟音、人々の悲鳴。一瞬にして、広場は恐怖と混乱の坩堝と化した。

人々の光輪が、一斉に濁った色へと変わる。恐怖の黒、パニックのどす黒い赤、絶望の灰色。負の感情が渦を巻き、街全体の空気を重く、淀ませていく。光輪同士が不協和音を奏でるようにぶつかり合い、誰もが冷静さを失っていた。

その、まさに中心で。

僕の身体に、異変が起きた。

僕自身は、何も感じていない。恐怖も、憐れみも。相変わらず心は白い静寂に包まれたまま。だが、僕の頭上の白い光輪が、まるで太陽のように、眩いばかりの光を放ち始めたのだ。

「うわっ…!」

「なんだ、あの光は…」

純白の光が、波紋のように周囲へと広がっていく。その光を浴びた人々の光輪から、急速に濁りが浄化されていくのが見えた。恐怖の黒は薄れ、パニックの赤は和らぎ、人々は次第に落ち着きを取り戻し始めた。我に返った者たちが、怪我人を助け起こし、的確な声で指示を飛ばし始める。

僕は呆然と立ち尽くしていた。この白い光は、僕の意志ではない。だが、僕という存在が、この世界の感情の律動に、直接的に干渉している。

僕は、ただ感情を忘れるだけの、空っぽの器ではなかった。

第四章 無色の愛

僕は再び老人を探した。彼は、街で最も古い図書館の静寂の中にいた。高い天井まで届く書架に囲まれ、彼は埃っぽい革の匂いがする一角で、分厚い古書を読んでいた。

僕の姿を認めると、彼は静かに本を閉じ、向かいの椅子を指差した。緋色の光輪は消え、今は穏やかな琥珀色が彼の頭上で揺れている。

「すべて、お見通しだったのですね」

僕が切り出すと、老人は静かに頷いた。

「君のような存在は、我々の間で『調律師』と呼ばれておる」

老人は、世界の真実を語り始めた。この世界は、人々の感情のエネルギーによって成り立っている。だが、時にその感情は、悲しみや怒りといった一方に極端に偏り、世界の調和を乱してしまう。

「調律師は、その偏りを正すために生まれる。君は感情を経験し、それを個人的なものとして留め置かず、忘却という形で手放す。そうして純化された感情のエネルギーは、この世界を巡る『感情の循環システム』へと還元され、最もそれを必要とする者の元へと届けられるのじゃ」

「僕が…感情の浄化槽…?」

「そうじゃ。君が感情を忘れるのは、それを独り占めしないためだ。君の個人的な喪失が、この世界のどこかにいる、見ず知らずの誰かの救いになっている。君の空っぽの心は、あらゆる感情を受け入れ、浄化し、世界へと還すための、最も尊い器なのじゃよ」

老人の言葉が、僕の白い心に静かに染み渡っていく。

欠陥だと思っていたこの体質は、呪いではなく、祝福だった。僕が感情を持てないのは、特定の色に染まらないことで、すべての色を等しく愛するためだったのだ。僕の白い光輪は、無ではなく、全の色を内包する可能性そのものだった。

図書館を出ると、空は美しい夕焼けに染まっていた。街行く人々の光輪が、その茜色に照らされてきらめいている。その一つ一つの輝きの中に、かつて僕が味わい、そして手放した喜びや、悲しみや、愛しさの欠片が宿っている。僕はもう、失われた感情を追い求めることはないだろう。

だって、それはどこにも消えてなどいなかったのだから。世界そのものが、僕の心の写し鏡だった。

僕は、誰よりも多くの感情を知っている。

僕は、誰よりも深く、この世界と繋がっている。

僕の白い光輪は、夕景の中で静かに、しかし確かな存在感を放っていた。ふと、口元に笑みが浮かんだ。その表情に、黄金色の喜びはない。けれど、その微笑みは、この色とりどりの世界を、そこに生きるすべての人々を、丸ごと肯定するような、深く、静かな慈愛に満ちていた。

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