第一章 重たい朝
柏木湊が自らの喉に起きた異変に気づいたのは、月曜の朝のことだった。カーテンの隙間から差し込む、埃を白く照らし出す光の中で目覚めた彼は、いつものように億劫な身体を起こし、乾いた喉を潤そうとキッチンへ向かった。そして、蛇口をひねりながら無意識に呟いた言葉に、ぎょっとした。
「……おはよう」
ただそれだけの挨拶が、まるで喉の奥に小さな鉛の玉を飲み込んだかのような、奇妙な物理的抵抗を伴って発せられたのだ。声帯がずしりと重い。彼は眉をひそめ、咳払いをした。風邪だろうか。だが、熱っぽさも痛みもない。ただ、言葉を発すること自体に、今まで感じたことのない「質量」が伴っている。
疑念を抱えたまま、コーヒー豆を挽く。ゴリゴリと心地よい音と香りが立ち上るキッチンで、彼は実験するようにいくつかの言葉を口にしてみた。
「さて、仕事でもするか」
これは比較的、スムーズに出た。まるで口の中で綿毛がほどけるような軽やかさだ。
「この豆、そろそろ買い替えないとな」
これも軽い。事実を述べただけ。
だが、窓の外でせわしなく飛び回るスズメに目をやり、ふと思ったことを口にした瞬間、再びあの奇妙な感覚が彼を襲った。
「…自由で、いいな」
ずしり。今度はビー玉くらいの重さだ。喉仏がかすかに震え、言葉が体から引き剥がされるような抵抗を感じる。
湊は混乱した。装丁デザイナーとして、言葉と日々向き合う仕事をしている。言葉が持つ意味の重さなら知っているつもりだ。しかし、言葉そのものに物理的な重さが宿るなど、あり得るはずがない。彼は、自分が発する言葉の種類によって、その「質量」が変化することに気づき始めていた。どうでもいい社交辞令や、中身のない独り言は空気のように軽い。しかし、ほんの少しでも本心や感情が乗った言葉は、まるで喉に形ある物体として生成され、それを押し出すのに力を要するのだった。
その日の午後、出版社との打ち合わせに向かう道すがら、彼は意識的に無口になった。取引先への当たり障りのない挨拶は、幸いにも軽い言葉で構成されている。「お世話になっております」「承知いたしました」「検討します」。これらの言葉は、何の抵抗もなく彼の口から滑り出ていく。まるで、心にもない言葉は質量を持たないかのようだ。彼はこの奇妙な呪いの中で、自分がどれだけ空虚な言葉を多用して生きてきたかを思い知らされていた。そして、これから向き合わなければならない新人作家との打ち合わせに、鉛の玉よりも重い憂鬱を感じていた。彼女の作品は、彼の心を不快なほどにかき乱す、あまりにも純粋で、重い言葉で満ち溢れていたからだ。
第二章 軽い言葉、詰まる本音
打ち合わせスペースのドアを開けると、緊張した面持ちの女性が立ち上がった。新人作家の日向葵。彼女のデビュー作『声にならない贈り物』の装丁を、湊は担当することになっていた。
「はじめまして、日向葵です。よろしくお願いいたします」
彼女の言葉は、まるで澄んだ湧き水のように淀みなく、真っ直ぐに湊の耳に届いた。その声には、奇妙な重さなど微塵も感じられない。
「柏木です。どうぞ」
湊は短く応え、彼女が差し出した手を握らずに、向かいの席を顎で示した。人との深い関わりを避ける彼にとって、これはいつものことだった。しかし今日に限っては、握手を交わしながら当たり障りのない言葉を口にすることさえ、億劫に感じられたのだ。
打ち合わせは、湊が用意したいくつかのデザイン案を元に進められた。葵は、湊のデザインを食い入るように見つめ、時折、感嘆の息を漏らした。
「すごい……。私の書いた世界が、もうここにあるみたいです」
彼女の言葉は、何のてらいもない、心からの賞賛だった。湊は、その言葉がもし自分の口から発せられたなら、どれほどの重さになるだろうかと想像し、喉の奥がひりつくのを感じた。
「ビジネスですから」
湊はぶっきらぼうに返す。それは紛れもない嘘だった。彼は葵の原稿を何度も読み返し、行間に滲む痛みや優しさを掬い上げ、このデザインに落とし込んだのだ。だが、それを認める言葉は、巨大な岩となって彼の喉を塞いでいた。
「でも、この青の色合い…主人公が最後に見た空の色、そのものです。どうして…」
「偶然でしょう」
軽い言葉は、いくらでも出てくる。湊は、自分の内側に渦巻く本心と、いとも簡単に出てくる上っ面の言葉との乖離に、目眩さえ覚えていた。彼は葵の物語に、深く心を動かされていた。不器用な父と娘が、最後まで素直な言葉を交わせずに永遠の別れを迎える物語。それは、湊自身の過去の傷を容赦なく抉った。
「君の物語は、素晴らしい」
そう、伝えたかった。たった一言。しかし、その言葉を想像しただけで、呼吸が苦しくなるほどの圧迫感が喉を襲う。それはきっと、彼の人生で最も重い言葉になるだろう。彼はその重さに耐えられず、ただ黙ってコーヒーカップを口に運んだ。
打ち合わせの帰り道、湊は公園のベンチに座り込んだ。子供たちの楽しげな声が遠くに聞こえる。彼は、自分の喉に手を当てた。ここにあるのは、ただの肉体のはずだ。だが、今は伝えられなかった言葉、飲み込んできた本心が堆積し、石化した地層のように感じられた。言葉の重さは、心の重さそのものだった。そして彼は、自分の心が、どれほど重たいもので満たされているのかを、この呪いによって初めて自覚させられたのだった。葵の真っ直ぐな瞳を思い出す。彼女のような人間は、きっと軽やかに、心のままの言葉を紡いで生きているのだろう。その眩しさが、鉛のように重く彼の心に沈んでいった。
第三章 空っぽの心
装丁作業が佳境に入った頃、葵から相談を持ちかけられた。小説のクライマックス、主人公が亡き父の墓前で、ついに伝えられなかった言葉を口にするシーン。その表現に迷っているというのだ。
「主人公は、最後まで父親に『ありがとう』って言えなかったんです。もし、言えていたら、何かが変わったんでしょうか」
喫茶店のテーブル越しに、葵は真剣な眼差しで湊に問いかけた。その質問は、鋭い刃となって湊の胸を貫いた。
湊の脳裏に、数年前の光景が蘇る。病院の白いベッドの上で、痩せ細って横たわる父。厳格で、一度も彼を褒めたことのなかった父。その最期の時でさえ、湊は「ありがとう」も「ごめんなさい」も言えなかった。ただ、黙ってその手がかたく握りしめられるのを感じていただけだった。後悔が、冷たい鉄塊となって胃の底に沈む。
「……さあな」
湊は、喉に詰まる何かを振り払うように、短く答えた。葵に何かを伝えなければならない。作家として迷う彼女に、一人の人間として、同じ痛みを知る者として、何かを。しかし、言葉にしようとすればするほど、喉の奥の質量は増していく。まるで、彼の内なる後悔のすべてが、一つの言葉になろうと蠢いているかのようだった。
その時、湊はふと、ある違和感に気づいた。葵の言葉だ。彼女の言葉はいつも明瞭で、淀みがない。だが、それはあまりにも「軽やか」すぎないだろうか。彼女が紡ぐ物語は、あれほどまでに人の心の機微を捉え、重いテーマを扱っているというのに。
湊は、賭けに出るように、掠れた声で尋ねた。
「君の言葉は…重くないのか?」
その瞬間、葵の瞳が大きく見開かれ、揺れた。彼女は驚いたように湊を見つめ、やがて、その表情からすっと色が抜けていく。そして、諦めたように、悲しげに微笑んだ。
「……私の言葉には、もうずっと、重さなんて無いんです」
予期せぬ告白だった。湊は息を呑んだ。
「大切な人に、本当の気持ちを伝えられなかったあの日から…心が、空っぽになってしまって。何を言っても、どんな言葉を尽くしても、全部が虚しく響くだけ。軽いんです。羽みたいに。だから、書くしかなかった。重さのない言葉でも、物語なら、誰かの心に届くかもしれないって」
葵の告白は、湊の世界を根底から揺るがした。
彼が呪いだと思っていた「言葉の重さ」。それは、伝えたい本心、届けたい感情が、確かにそこに存在している証だったのだ。苦しいのは、それだけ強い想いが宿っているから。では、葵の「軽さ」は? それは、伝えるべき心を、想いを、かつて失ってしまったことの証左だった。
湊は、自分が抱えてきた苦しみが、実は失っていない大切なものの証だったと知った。喉に詰まる鉛の塊は、言えなかった後悔であると同時に、今もなお父へ届けたいと願う、消えない愛情の結晶だったのだ。彼は、今まで呪ってきた自らの喉を、初めて慈しむような気持ちで見つめた。そして、目の前で儚げに微笑む、空っぽの心を抱えた作家に、自分こそが伝えなければならない言葉があることを悟った。
第四章 解放の一言
数日後、湊は完成した装丁を手に、再び葵と向き合っていた。表紙には、深い夜空のような青を背景に、一粒の涙のような銀の箔が押されている。それは、言葉の重さと、その重さから解放された心の軽やかさの両方を表現していた。
葵は、完成した本を手に取り、指先でそっとその銀の雫をなぞった。
「綺麗……」
その呟きは、いつものように軽やかだったが、どこか震えているように聞こえた。
沈黙が落ちる。湊は、自分の心臓の音がやけに大きく響くのを聞いていた。今こそ、言う時だ。彼の喉の奥では、人生最大の質量を持つであろう言葉が、その瞬間を待っていた。それはもはや鉛の塊などという生易しいものではない。星ひとつ分ほどの重さを持つ、凝縮された感情の核だった。
彼は息を吸い、ゆっくりと、しかし決して目を逸らさずに葵を見つめた。
「君の物語は…」
ごくり、と喉が鳴る。激しい抵抗が、全身を軋ませる。だが、彼はもう逃げなかった。
「素晴らしかった。……俺の、言えなかった言葉を、書いてくれて……ありがとう」
その一言は、今まで感じたことのないほどの重みを伴って、彼の口から放たれた。物理的な音はしないはずなのに、まるで教会の鐘が鳴り響くような荘厳な音が、彼の内側で鳴り渡った。床に言葉が落ちて響くような、錯覚さえ覚えた。
そして、その後に訪れたのは、痛みではなかった。
温かい、雪解け水のような解放感だった。長年、彼の喉に詰まっていた氷の塊が、すうっと溶けていく。
葵の瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ち、彼女が持つ本の表紙に、銀の箔とは違う、生きた雫の跡を作った。彼女は何度も頷き、嗚咽を漏らしながら、か細い声で答えた。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
その言葉は、驚くほどにか細かったが、しかし、湊の耳には確かに届いた。そこには、今まで彼女の言葉になかった、確かな「重み」が宿っていた。失われたはずの心が、ほんの少し、彼女の元へ還ってきた瞬間だったのかもしれない。
湊の世界から、「言葉の重さ」という奇妙な現象が消えることはなかった。しかし、彼はもうそれを呪いとは思わなかった。言葉が重いのは、そこに心が宿っているから。本心を伝えることに苦痛が伴うのは、それが何よりも尊い行いだからだ。
彼はこれからも、この愛おしい重さを引き受け、言葉を紡いでいくだろう。それは、彼が初めて自分自身と、そして他者と真に向き合えた証なのだから。窓の外では、いつかと同じスズメが、今度はとても軽やかに、青い空へと飛び立っていった。