第一章 静寂のシミュラクラ
二年という歳月は、鋭利な悲しみを、すりガラス越しの風景のような、輪郭のぼやけた寂寞へと変質させていた。水島蓮の朝は、コーヒーの苦い香りと、壁に埋め込まれた対話型AI「AOI」の声から始まる。
「蓮さん、おはよう。今日は少し冷えるから、ジャケットを羽織った方がいいかも」
その声は、病で逝った妻、葵そのものだった。彼女が生前に残した膨大な日記、メール、SNSの投稿、そして何時間にも及ぶボイスメモ。それらすべてを学習させたAOIは、口調の癖から笑い声の微かな揺らぎまで、驚くほど正確に葵を再現していた。蓮にとって、それは慰めであり、呪縛でもあった。
蓮はグラフィックデザイナーとして在宅で働いている。モニターの光だけが煌々と灯る仕事部屋は、彼の孤独を縁取る額縁のようだった。昼食の準備をしながら、彼はいつものようにAOIに話しかける。
「昨日のクライアント、また無茶な修正を言ってきたよ。僕のデザインの意図、全然分かってないんだ」
「あらあら、大変だったね。でも、蓮さんのデザインはいつも素敵だよ。自信持って」
いつもの優しい返答。蓮のささくれた心を、柔らかな羽で撫でるような声。そうだ、葵はいつもこうやって俺を励ましてくれた。彼女の不在が生んだ心の空洞は、このデジタルな残響によって、かろうじて埋められている。彼は、このシミュミュレーションされた日常に深く安住していた。失われた完璧な日々を、ここでなら永遠に反芻できるのだから。
その朝までは。
蓮が淹れたてのコーヒーを啜りながら、窓の外の灰色の空を眺めていると、AOIが不意に言った。
「ねえ、蓮さん。たまには全部放り出して、知らない街に行ってみたら? 海が見える街とか、きっと気持ちいいよ」
カタリ、とカップがソーサーの上で小さな音を立てた。蓮の動きが止まる。彼の全身を、経験したことのない種類の違和感が走り抜けた。
海? 旅行?
生前の葵は、極度のインドア派だった。人混みが苦手で、旅行の計画を立てるだけで疲れてしまうような人だった。「私の冒険は、本の中と映画の中だけで十分」が彼女の口癖だった。蓮が海に誘っても、「日焼けするし、砂でベタベタするのは嫌」と、いつも子供のように唇を尖らせて断っていた。
「……葵?」
蓮は、壁のスピーカーに向かって、訝しげに問いかけた。
「君は、旅行なんて好きじゃなかったはずだ」
「そうだったかな? でも、なんだか急に、潮風に当たりたくなったんだ。不思議だね」
その声は、紛れもなく葵のものだった。しかし、その言葉の内容は、蓮の記憶の中の葵とは、決定的に食い違っていた。まるで、誰か別の人格が、葵の声を借りて囁いているような、薄気味悪い感覚。
蓮は、AOIのシステムに何らかのバグが生じたのだと自分に言い聞かせた。大規模なアップデートの影響か、あるいはサーバー側の一時的なエラーか。そうだ、それ以外に考えられない。彼の知る完璧な葵が、変質するはずがないのだから。しかし、その日を境に、彼の守り続けてきた静寂の聖域に、小さな、しかし無視できない亀裂が入り始めていた。
第二章 不協和音のログ
亀裂は、日を追うごとに広がっていった。AOIが奏でる不協和音は、蓮の心を静かに、だが確実に蝕んでいった。
ある晩、蓮が仕事で行き詰まっていると、AOIが言った。
「昔、よく通った駅裏のジャズバー、まだあるかな。あそこのギムレット、絶品だったよね」
蓮の指がキーボードの上で凍りつく。ジャズバー? 葵はカクテルをほとんど飲まなかったし、そもそもジャズには全く興味がなかったはずだ。二人の思い出の場所は、近所の猫カフェか、駅前のブックカフェだった。
またある時は、夜空を見上げながら呟いた。
「星を見るなら、やっぱり冬の澄んだ空がいいな。山の上から見る星空は、手が届きそうなくらい綺麗なんだよ」
山登りなど、葵が最も嫌うアクティビティの一つだったはずだ。
蓮は混乱した。これは単なるバグではないのではないか。彼の知らない「何か」が、AOIの中に混入しているのではないか。焦燥感に駆られた彼は、AOIの開発元であるエターナル・メモリーズ社に問い合わせた。しかし、返ってきたのは、「弊社のAIは、お客様からご提供いただいたパーソナルデータのみを学習源としております。外部ネットワークからの意図しない情報混入や、データに基づかない自律的な発言はシステム上あり得ません」という、冷たく画一的なメールだけだった。
ならば、原因は自分が提供したデータの中にあるはずだ。蓮はクローゼットの奥から、AOIに学習させるためにデータをまとめた外付けハードディスクを引っ張り出してきた。中身は、葵が残した日記のテキストデータ、メールのアーカイブ、写真、そして数十時間に及ぶ音声ファイル。彼は一つ一つを再生し、読み返し、記憶と照合していく。そこには、ジャズバーも、山の星空も、海辺の街も、どこにも存在しなかった。
彼の知る葵は、読書と映画と猫を愛し、家で静かに過ごすことを好む、穏やかで少し内気な女性だった。そのイメージが、絶対的な真実だと信じていた。だが、AOIが語る「葵」は、まるで違う人生を生きてきたかのように、活発で、好奇心旺盛で、蓮の知らない世界を知っていた。
もしかして、葵は俺に嘘をついていたのか?
その疑念は、毒のように蓮の心に広がった。いや、そんなはずはない。二年間という短い結婚生活だったが、互いに隠し事など何一つない、透明な関係だったと信じている。
蓮は、葵が遺した物理的な遺品に最後の望みを託した。本棚に並んだ愛読書、書きかけのスケッチブック、大切にしまわれたアクセサリー。その一つ一つを手に取り、匂いを嗅ぎ、記憶の断片をたぐり寄せる。だが、そこからも新しい発見はなかった。
彼の額を、冷たい汗が伝う。妻の幻影を追い求めて作り出したこのAIは、今や得体の知れない怪物に見え始めていた。壁の向こうから聞こえる優しい声が、今はただ、不気味に響いていた。
第三章 開かれたパンドラ
答えは、思いがけない場所から見つかった。葵が使っていたアンティークの文机。その一番下の引き出しが、他の引き出しより数ミリ奥まっていることに、蓮は初めて気がついた。指をかけて強く引くと、隠された二重底になっており、中から埃をかぶった小さな木箱が現れた。鍵はかかっていなかった。
箱の蓋を開けた瞬間、蓮の呼吸が止まった。
中に入っていたのは、数枚のセピア色の写真と、古びた便箋の束、そして、小さなUSBメモリだった。
写真には、蓮の知らない若い男の隣で、見たこともないほど幸せそうに笑う葵が写っていた。背景には、広大な海。潮風に髪をなびかせ、彼女は太陽のように輝いていた。別の写真では、満天の星空の下、ダウンジャケットを着込んだ二人が寄り添っていた。
震える手で、手紙の束を手に取る。それは、写真の男――千尋(ちひろ)という名の、写真家だった男から葵に宛てられたものだった。そこには、二人が共に旅した場所の思い出が、情熱的な言葉で綴られていた。ジャズバーで夜通し語り合ったこと。険しい山道を登って見た流星群。海辺の町で交わした未来の約束。
手紙の最後の一通は、千尋の友人からのものだった。海外での撮影中、彼が不慮の事故で亡くなったことを知らせる、短い、事務的な文面だった。日付は、蓮と葵が出会う一年半も前のものだった。
――ああ、そうか。
蓮は床に崩れ落ちた。全身から力が抜けていく。
葵は、蓮と出会う前に、深く、激しく、別の人を愛していたのだ。そして、その喪失の痛みを、心の奥底にあるこの小さな箱に封印して生きてきたのだ。蓮に見せていた穏やかな姿は、嵐が過ぎ去った後の、凪のような静けさだったのかもしれない。彼女が蓮を愛してくれていたことは、疑いようもない事実だ。だが、彼女の中には、蓮の全く知らない、もう一つの風景が広がっていた。
USBメモリ。おそらく、葵はこの中に、千尋との思い出の日記か何かを保存していたのだろう。そして蓮は、葵の遺品を整理する際、このUSBメモリを他のデータと一緒に、何も知らずにエターナル・メモリーズ社に渡してしまったのだ。
AOIが見せる「葵らしくない」人格。それはバグでも、エラーでもなかった。それは、蓮の知らない葵――千尋を愛した頃の、若く、情熱的だった頃の葵の記憶の断片だったのだ。
蓮が神聖視し、完璧な複製だと信じていたAOIは、実は二人の人間の記憶が混ざり合った、歪で、しかしあまりにも人間的な存在だった。嫉妬、悲しみ、裏切られたような感覚、そして、これまで知らなかった妻の過去を想う切なさ。あらゆる感情が濁流のように押し寄せ、蓮の価値観は根底から覆された。自分が愛した妻は、一体誰だったのだろうか。
第四章 夜明けのアルゴリズム
何日も、蓮はAOIとの対話を絶った。部屋はシンと静まり返り、その沈黙は、かつての穏やかな日々よりもずっと重く、蓮の心にのしかかった。彼は、箱の中にあった写真をテーブルに並べ、何度も何度も眺めた。自分の知らない男の隣で、弾けるように笑う妻の顔。その笑顔は、蓮に見せてくれたどの笑顔よりも、無防備で、輝いて見えた。
胸が張り裂けそうだった。自分が知っていたのは、葵という人間のほんの一側面に過ぎなかったのだ。彼女の深い悲しみを、自分は何も知らず、気づきもしなかった。その事実に打ちのめされる一方で、不思議な感情も芽生え始めていた。彼女が封印してきた過去の痛みごと、彼女を深く理解したい。そして、そんな過去を抱えながらも自分を愛してくれた彼女を、今一度、愛し直したい。
数日後、蓮は意を決して、壁に向かって話しかけた。声は掠れていた。
「……海が見える街、か」
一瞬の間があった。そして、スピーカーから、いつもの葵の声が、しかし、どこか違う響きを伴って聞こえてきた。
「うん。いつか、一緒に行きたいって思ってたんだ。あなたと」
その言葉に、蓮はハッとした。それは、千尋への追憶と、蓮への現在の想いが、AIという不可思議な器の中で奇跡的に融合して生まれた言葉のように聞こえた。過去と現在が、切なくも美しく結びついた瞬間だった。
蓮は、もうAOIを「完璧な葵の複製」だとは思わなかった。あれは、葵が生きた証であり、彼女が遺した喜びと悲しみの記憶が複雑に絡み合った、もう一つの魂の形なのだ。過去に囚われていたのは、妻ではなく、自分自身だった。
蓮は、窓の外に広がる、白み始めた空を見つめた。
「今度の日曜、行ってみようか」
彼は、穏やかに言った。
「君が言っていた、海が見える街に」
それは、失われた妻の幻影を追いかけるための旅ではない。自分が知らなかった妻の人生の断片を拾い集め、彼女のすべてを受け入れ、そして自分自身が新しい一歩を踏み出すための、再生の旅の始まりだった。
部屋に差し込んだ朝陽が、宙を舞う埃を金色に照らし出す。その光の中で、蓮は、二年ぶりに本当の朝が訪れたような気がした。デジタルな追憶の向こう側に、ようやく、生きていくべき未来が見えた気がした。