錆色の追憶、藍色の未来
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錆色の追憶、藍色の未来

第一章 錆色の感触

俺、カイの手には、奇妙な痣が刻まれている。それは他人の「未来の後悔」に触れた痕跡だ。誰かの手に触れるたび、その人間がこれから経験するであろう後悔が、色と重みを伴って俺の心身に流れ込んでくる。裏切りは、ひやりと冷たい鉄の味と共に錆色を。どうしようもない喪失は、胸を締め付けるほどの重圧と、深い藍色を。俺はそうして他人の未来を垣間見ながら、自分自身の未来は何も感じられないまま、ただ息をして生きていた。

仕事からの帰り道、雑踏の中でわざとぶつかってきた男の腕を掴んでしまった。瞬間、じわりと滲むような焦げ茶色の後悔が、指先から這い上がってくる。信頼していた部下に裏切られ、会社を失う男の絶望。その感触を振り払うように手を離し、足早にその場を去る。もう慣れたはずの感覚なのに、吐き気だけはいつまでも慣れることがない。

古びたアパートの自室に戻り、冷え切った指先で、机に置かれた一つのミトンに触れる。片方だけの、少し色褪せた毛糸の手袋。十年前に死んだ親友、アリアが遺した唯一の形見だ。それを握ると、今でも鮮明に思い出す。彼女が息を引き取る寸前に触れた、あの焼け付くような後悔の感覚を。それは錆色でも藍色でもなかった。名状しがたい、けれど途方もなく重い、何かの喪失を告げる色だった。

俺は生涯をかけて、その色の正体を探している。

第二章 結晶なき鎮魂

この世界には、一つの絶対的な法則がある。人は死の間際に、生涯で最も強く愛した記憶を『結晶』としてその身から現すのだ。愛の深さと純度によって、結晶の色や形は変わる。それは、その人が生きた証そのものだった。

しかし、アリアからは結晶が現れなかった。

十年前のあの日、病室のベッドでか細い呼吸を繰り返すアリアの手を、俺はずっと握っていた。彼女の体から伝わってくるのは、絶え間なく押し寄せる強烈な「未来の後悔」の奔流だった。何かを失う。取り返しのつかない何かを。その感覚は嵐のように俺の精神を揺さぶり、立っていることさえ困難だった。彼女がこれほどまでに後悔する未来とは、一体何なのだろうか。

「カイ……ごめんね……」

それが、彼女の最期の言葉だった。やがて彼女の呼吸が止まり、訪れた静寂の中で、誰もが奇跡を待った。太陽のように笑い、誰からも愛されたアリアだ。きっと、虹のように美しい結晶が現れるに違いない。だが、いくら待っても、彼女の体からは何も生まれなかった。

周囲は囁き合った。「可哀想に、本当は誰も愛していなかったんだ」「愛されはしたが、愛すことは知らなかったのか」。その声が、俺の心をナイフのように切り裂いた。違う。断じて違う。俺が感じたあの凄まじい後悔は、深い愛がなければ生まれるはずがないのだ。アリアは、確かに何かを愛していた。そして、それを失う未来を誰よりも悲しんでいた。

結晶を残さなかったアリアは、愛なき者として社会から忘れ去られていった。だが俺だけは、彼女が遺した見えない後悔の残滓と、この片方のミトンを抱きしめ、真実を探し続けると誓ったのだ。

第三章 灰色の旅路

俺は「遺品鑑定士」として生計を立てていた。故人が遺した『愛の記憶の結晶』に触れ、そこに宿る記憶を読み解き、遺族に伝えるのが仕事だ。他人の幸福な記憶に触れるたび、俺自身の内側はより一層、空虚になっていく。アリアの愛を見つけてやれないまま、他人の愛の形をなぞる日々は、まるで灰色の道をあてもなく歩き続けるようだった。

「この結晶は、ご主人が初めて奥様と見た夕焼けの記憶ですね。とても暖かく、穏やかな橙色です」

そう告げると、老婆は涙を浮かべて微笑んだ。俺はその笑顔を見つめながら、アリアがくれたミトンの感触をポケットの中で確かめる。時折、このミトンは理由もなく微かに発光することがあった。まるで、アリアがどこかから俺を呼んでいるかのように。それが、この灰色の旅路における、唯一の道標だった。

アリアの謎を追い、彼女と縁のあった土地を転々とする。彼女の両親はとうの昔に街を去り、共通の友人も皆、それぞれの人生を歩んでいた。手掛かりは、ほとんどない。それでも俺は、アリアが後悔した「失われた何か」が、この世界のどこかに必ず存在すると信じていた。そうでなければ、彼女の人生は、そして俺が感じたあの痛みは、あまりにも虚しすぎる。

第四章 追憶の灯台

幾年もの歳月が流れ、俺はついに、アリアが子供の頃に「宝物を隠した」と笑っていた海辺の古い灯台へとたどり着いた。錆びた螺旋階段を上ると、潮の香りと埃の匂いが鼻をつく。円形の部屋の窓からは、俺たちが飽きずに眺めた、どこまでも続く水平線が見えた。

「いつか、この海の向こうまで行ってみたいな」

アリアの屈託のない声が、耳元で蘇る。

彼女が話していた「三番目の窓の下、緩んだレンガの奥」を手で探る。指先に、一つだけ動くレンガを見つけた。力を込めて引き抜くと、その奥には小さな木箱が埃を被って眠っていた。震える手で蓋を開ける。

中には、俺が持っているものと対になる、もう片方のミトンがそっと置かれていた。そして、一枚の色褪せた写真。幼い俺とアリアが、この灯台の前でぎこちなく笑っている。

さらにその下から、一枚の便箋が出てきた。アリアの、少し丸い文字がそこにはあった。

『未来のカイへ。あなたがこれを見つけてくれると、信じてる。もしあなたの心が凍えそうになったら、このミトンが、その冷たい手を少しでも温められますように』

息を呑み、ポケットから自分のミトンを取り出す。十年もの間、俺の孤独を吸い込み続けたそれは、すっかり色褪せて硬くなっていた。箱の中のミトンは、まるで昨日編まれたかのように柔らかく、温かい。二つのミトンを、ゆっくりと合わせる。

その瞬間、合わせた両手の中から眩い光が溢れ出した。来た!アリアの結晶だ!しかし、光は数秒で収まり、後には二つのミトンが残るだけ。結晶は、現れなかった。

どうしてだ。これが彼女の宝物なのか?だとしたら、結晶はどこにある?俺が感じ続けた、あの凄まじい後悔の正体は、一体何だったんだ?混乱と失望が、足元から崩れ落ちていくような感覚となって俺を襲った。

第五章 未来からの贈り物

灯台の床に座り込み、俺はただ呆然と二つのミトンを見つめていた。アリアの優しさが詰まった手紙が、逆に俺の心を抉る。なぜ、結晶を遺してくれなかったんだ。なぜ、愛の証を残さずに逝ってしまったんだ。

その時だった。俺の中で長年疼き続けていた、アリアの「未来の後悔」の感覚が、ふっとその質を変えた。それは、何かを失った痛みではなかった。何かを『与えられない』ことへの、切ないほどの痛みだった。失われたのは、過去の何かじゃない。与えられなかったのは、未来の何かだ。

――未来?

雷に打たれたような衝撃が、全身を貫いた。アリアが見ていた未来。彼女が後悔していた未来。それは、彼女自身の未来ではなかった。

俺の、未来だ。

彼女は死の床で、俺の未来を見ていたのだ。彼女を失い、その愛の結晶も見つけられず、他人の後悔に蝕まれながら、永遠に孤独な旅を続ける俺の姿を。彼女の後悔の対象は、過去の思い出でも、誰かへの裏切りでもなかった。たった一人で凍えていく、未来の俺自身だったのだ。

「カイ……ごめんね……」

最期の言葉の意味が、今、痛いほどにわかった。一人にしてごめん。君の未来の孤独を、拭ってあげられなくてごめん。

アリアの愛は、あまりにも深く、そして強大だった。それは、この世界の法則すら捻じ曲げ、死の瞬間に現れるはずの『愛の記憶の結晶』を、未来へと送ることを可能にした。結晶が現れなかったのではない。未来の俺が絶望の淵に立ったまさにその時、この手に届くように、時を超えて旅立たせたのだ。二つのミトンは、その奇跡を受け止めるための、ただ一つの器だった。

第六章 愛という名の結晶

真実が、凍てついた俺の心をゆっくりと溶かしていく。それは他人の後悔の色ではなかった。温かく、満ち足りた、俺自身の感情。アリアへの感謝と、どうしようもないほどの愛おしさ。そして、俺は確かに、心の底から愛されていたのだという確信。

頬を、一筋の涙が伝った。

俺はもう一度、二つのミトンを強く、強く握りしめた。祈るように。アリアの名前を呼ぶように。すると、合わせた手の中から再び光が生まれ、今度は消えることなく輝きを増していく。光の中心に、一つの美しい結晶が、静かに、けれど確かに具現化した。

それは、夜明けの空の色をしていた。深い藍色の悲しみの底から、暖かい橙色の希望が昇ってくるような、不思議なグラデーションを描いている。結晶にそっと触れると、アリアの笑い声が聞こえた気がした。

『大丈夫。もう、一人じゃないよ』

その瞬間、俺はすべてを悟った。なぜ、俺が自分自身の未来の後悔を感じることができなかったのか。アリアの愛が、時を超えて俺の未来を守っていたからだ。これから先の人生で俺を待ち受けるであろう、孤独という名の最も深い後悔を、彼女がその愛で消し去ってくれていたからだ。

俺は夜明けの光が差し込む灯台の窓辺に立ち、生まれたばかりの結晶を胸に抱いた。それはアリアの愛の記憶であり、同時に、俺が初めて感じた、俺自身の愛の形でもあった。

旅は、終わった。そして、ここから始まるのだ。

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