第一章 昏い結晶
柏木湊(かしわぎ みなと)の仕事は、死者の最後の記憶を扱うことだった。この世界では、人は死の瞬間に、生涯で最も強く願った想いを一つの結晶へと凝縮させる。通称「遺晶(いしょう)」。半透明のガラス細工のようなそれは、触れた者に故人の最後の記憶を追体験させる力を持っていた。そして湊の職業は「遺晶整理士」。持ち主を失った遺晶を回収し、検分し、然るべき遺族の元へと届ける、いわば記憶の配達人だ。
「次の案件です」
事務所の同僚が、淡々とした声で桐の小箱を湊のデスクに置いた。湊は読んでいた文庫本から顔を上げ、無感情にそれを受け取る。もう何年もこの仕事をしていると、他人の人生のクライマックスに触れることに、良くも悪くも慣れてしまう。感動も、悲しみも、日々の業務報告書に記載される情報の一つに過ぎなかった。
「故人、佐伯スミ。享年八十二。発見場所は自宅の縁側。死因は老衰による心不全。身元引受人、なし」
「身寄りなしか。じゃあ、依頼主は?」
「それが…」
同僚は珍しく言葉を濁した。「依頼は匿名の第三者から、オンラインで。費用は前払いされています。ただ、届け先として指定されているのが、柏木さん、あなた個人なんです」
湊の眉がぴくりと動いた。そんなことは前代未聞だ。遺晶整理士個人に遺晶が送られるなど、規定違反も甚だしい。
「故人の住所は?」
「……神奈川県三浦市。かつて、あなたが住んでいた町です」
胸の奥が、錆びついた扉を無理やりこじ開けられるように軋んだ。忘れたはずの潮の香りと、坂道の風景が脳裏をよぎる。父が「事故で」死に、母と二人で暮らしたあの町。母とは、彼女の再婚を巡って大喧嘩をして以来、もう十年近く顔も合わせていない。
湊は息を飲み、桐の箱を開けた。通常、遺晶は持ち主の感情の純度に応じて、水晶のように澄んでいたり、淡い色を帯びていたりする。しかし、そこにあったのは、まるで泥水を練り固めたような、深く澱んだ黒褐色の塊だった。光を一切通さない、不透明な結晶。湊は長年の経験から、それが何を意味するかを知っていた。
極度に強い「未練」。あるいは、誰かを欺くための「嘘」。
そんな危険な代物を、一体誰が、何のために俺の元へ?
規定では、遺族に渡す前に内容を確認し、精神に強い害を及ぼすものでないか判断する義務がある。湊は指先に意識を集中させ、ためらいながらも、その冷たく、ざらついた結晶にそっと触れた。
瞬間、世界が反転した。
第二章 縁側の老婆
湊の意識は、古びた木造家屋の、陽だまりが心地よい縁側にいた。いや、正確には、縁側に座る老婆、佐伯スミの視界を借りていた。目の前には、手入れの行き届いた小さな庭が広がり、季節外れの向日葵が数本、所在なげに揺れている。
(ああ、今日も、あの子は来ない)
スミの心の声が、嘆きとなって湊の鼓膜を直接揺さぶる。その声は、長い年月をかけて磨耗し、諦念に染まっていた。彼女の手には、色褪せた一枚の写真が握られている。何度撫でられたのか、角は丸くなり、表面はぼやけていた。しかし、そこに写る人物の顔は、記憶の靄がかかったように判然としない。
追体験は断片的だった。同じ縁側、同じ庭、そして同じ待ち人への想い。時折、郵便配達員や、回覧板を持ってきた隣人と交わす短い会話が挿入されるが、彼女の意識の大部分は、写真の向こうにいる「あの子」に占められている。
(あの子に、これを渡さなければ。真実を…)
その強い想念が、ひりつくような痛みとなって湊に伝わってきた。だが、「これ」が何を指すのか、「真実」が何なのかは、ついに明かされないまま、記憶は陽炎のように揺らめいて消えた。
湊が我に返ると、事務所の蛍光灯が白々しく彼を照らしていた。額には脂汗が滲んでいる。ただひたすらに誰かを待ち続ける、八十二年という人生の最後の記憶。そこには、憎しみも狂気もなかった。ただ、あまりにも深く、静かな悲しみだけが横たわっていた。
「どうでした?」
心配そうに覗き込む同僚に、湊は「問題ない。ただの感傷だ」と短く答えた。しかし、心の中のざわめきは収まらない。天涯孤独の老婆が、なぜ俺を知っている? 依頼主は誰だ?
湊は翌日、休暇を取り、数年ぶりに故郷の町へ向かった。潮風に錆びたガードレール、記憶の中よりも狭く感じる商店街。すべてが懐かしく、同時にひどくよそよそしい。かつて住んでいた家の住所を頼りに歩くと、そこには真新しい建売住宅が並んでいた。だが、その隣には、記憶の追体験で見た、あの古びた木造家屋が、時が止まったかのように存在していた。表札には「佐伯」とある。
近所の古老に話を聞くと、スミさんは何十年も前にこの町に越してきて以来、ずっと一人で暮らしていたという。親戚がいるという話も聞いたことがない、と。
「ただ…」と古老は付け加えた。「隣に住んでた、柏木さんちの坊やのことは、随分とかわいがっていたようだったがねぇ」
柏木さんちの坊や。それは、間違いなく幼い頃の自分だ。靄がかかっていた記憶の断片が、少しずつ輪郭を結び始める。縁側で冷たい麦茶をご馳走になったこと。夏祭りの夜、はぐれた自分を一緒に探してくれたこと。いつも優しく、少し寂しそうに笑う人だった。
なぜ、そんな大切な記憶を忘れていたのだろう。そして、彼女はなぜ、あれほどまでに誰かを待ち続けていたのか。その「誰か」は、本当に俺なのか? 謎は深まるばかりだった。どうしようもない閉塞感に駆られた湊は、ポケットからスマートフォンを取り出し、意を決して、忌避してきた番号をタップした。画面に表示された名は、「母」。
第三章 母の告白
数回のコールの後、懐かしい、しかし少し年老いた母の声が聞こえた。
『……湊? どうしたの、急に』
その声には、驚きと戸惑い、そして微かな喜びが滲んでいた。湊は当たり障りのない挨拶もそこそこに、本題を切り出した。
「母さん、佐伯スミさんって覚えてる? 俺たちが住んでた家の隣にいた」
電話の向こうで、母が息を呑むのが分かった。長い、重い沈黙が流れる。湊が何かを言う前に、絞り出すような声が返ってきた。
『……スミさんが、亡くなったのね。それで、あなたに連絡が?』
「ああ。遺晶が俺のところに。どういうことか知りたくて」
『そう…ついに、その時が来たのね…』母は深く、深くため息をついた。『湊、聞いて。あなたにずっと、嘘をついていたことがあるの』
湊は息を詰めて、スマートフォンを握りしめた。
『あなたのお父さん…事故で死んだなんて、あれは嘘よ』
母の声は震えていた。
『あの人は、事業に失敗して、莫大な借金を残して…蒸発したの。いなくなったのよ。私たちを捨てて』
湊の頭が真っ白になった。立派な父親だった。優しかった。仕事中の事故で、勇敢に誰かを庇って死んだのだと、幼い頃から聞かされてきた。それが、自分のアイデンティティの一部だった。その土台が、今、音を立てて崩れていく。
『女手一つであなたを育てるなんて無理だった。途方に暮れていた私を…助けてくれたのが、スミさんだったの。彼女は、あなたのお父さんの、遠い親戚にあたる人でね。事情を知って、わざわざ隣に越してきてくれた。そして、私たちが路頭に迷わないように、ずっと…ずっと、借金を肩代わりして、仕送りを続けてくれていたのよ』
だから、母は再婚できたのだ。借金という重荷から解放されたから。湊が大学まで行けたのも、すべてはスミの援助があったから。湊が憎んでいた母の再婚は、彼自身を守るための選択でもあったのだ。
『スミさんは、あなたのお父さんがいつか帰ってくると信じてた。そして、あなたにいつか本当のことを話して、父親を許してほしいと願っていた。でも、お父さんは帰ってこなかった。だから、せめてあなたに…成長したあなたに会って、直接話したがっていたの。ずっと、ずっとあなたを待っていたのよ。あなたが、あの町に帰ってくるのを』
しかし、湊は帰らなかった。母との確執を理由に、故郷を、そして自分を待ち続ける唯一の恩人を、見捨てていた。
「じゃあ、あの遺晶を俺に送ったのは…」
『私よ』と母は泣きじゃくりながら言った。『あなたが遺晶整理士になったと風の便りに聞いてね。もう、こうするしか、あなたに真実を伝える方法が思いつかなかったの。ごめんね、湊。ずっと嘘をついてて、本当にごめん…』
電話が切れた後も、湊はその場に立ち尽くしていた。冷徹な現実主義者を気取っていた自分は、父の「立派な死」という巨大な嘘の上に成り立っていた、ただの虚像だった。スミの遺晶が濁っていた理由が、痛いほどに分かった。それは母がついていた嘘。そして、その嘘を生涯守り続け、湊に会うという最後の願いを果たせなかった、彼女自身の深い、深い未練だった。
第四章 透明な追憶
事務所に戻った湊は、再びあの黒褐色の遺晶に向き合った。もう一度、彼女の記憶に触れる。今度は、真実という名の鍵を持って。
再び、陽だまりの縁側。しかし、見慣れたはずの光景は、全く違う意味を帯びて湊の心に流れ込んできた。スミが愛おしそうに撫でていた色褪せた写真。そこに写っているのは、若い頃の父と母、そして母の腕に抱かれた赤ん坊の自分だった。スミの視界の端で、涙が一粒、写真の上に落ちる。それは、単なる寂しさの涙ではなかった。会えない孫の成長を遠くから見守る、温かい愛情の涙だった。
(あの子に、これを渡さなければ。真実を…)
その想いは、父の不甲斐なさを伝えるためではなかった。父が過ちを犯したとしても、あなたは決して見捨てられていたわけではない。あなたを想い、あなたの幸せを願う人間が、ここにいたのだと。その愛情こそが、彼女が湊に渡したかった「これ」の正体だった。
追体験が終わる。湊の頬にも、一筋の涙が伝っていた。
ふと、手の中の遺晶に目をやると、信じられない光景が広がっていた。あれほど深く濁っていた黒褐色の塊が、まるで夜明けの空のように、その澱みを失っていく。嘘が許され、未練が果たされたかのように、結晶はみるみるうちに澄み渡り、やがて、一点の曇りもない、水晶のような輝きを放ち始めた。内側からは、まるで小さな太陽のような、温かい光が放たれている。
数日後、湊は輝きを取り戻した遺晶を携え、再び故郷を訪れた。母と会い、ぎこちなく、しかし正直に言葉を交わした。長い年月の溝はすぐには埋まらないだろう。だが、確かな一歩を踏み出せた。
二人で、町の共同墓地にあるスミの墓を訪れた。湊は、陽光を浴びてきらきらと輝く遺晶を、そっと墓石の前に供えた。
「スミさん。遅くなって、ごめんなさい。…ありがとう」
風が吹き、庭の向日葵のように、墓前に供えられた花が優しく揺れた。
湊は、遺晶整理士の仕事を続けている。
しかし、彼はもう、記憶をただの「情報」として処理することはなかった。デスクに新しい桐の箱が置かれるたび、彼はその一つ一つに込められた人生の重み、愛、後悔に、真摯に向き合う。
ある日の午後、湊は幼くして亡くなった少女の遺晶に触れていた。彼の目には、かつての冷めた光はなく、深い共感と慈しみが宿っている。彼は故人の最後の記憶を遺族に伝えるだけではない。その記憶の中に隠された、遺された人々が明日を生きるための小さな光を探し出し、そっと手渡すのだ。
遺晶は、死者の終わりではない。それは、残された者の始まりを照らすための、最後の贈り物なのだと。湊は今、心からそう信じている。彼の仕事は、記憶の配達人から、希望の翻訳者へと、静かに変わっていた。