第一章 歪んだプリズム
レンの見る夢は、いつも他人のものだった。
今宵もまた、知らない過去の雨に打たれている。アスファルトを叩く冷たい飛沫、錆びた鉄の匂い、そして隣に立つ男の、裏切りに濡れた低い声。レンの心臓を鷲掴みにするのは、夢の主である女性が感じている絶望そのものだった。喉の奥が張り付き、声にならない叫びが胸で渦を巻く。
はっ、と息を吸い込んで目覚めると、見慣れた自室の天井が滲んでいた。額に浮かぶ汗が冷たい。昨日の夕刻、広場で泣き崩れていた女性とすれ違った。彼女の感情が極限に達した瞬間、その記憶の断片がレンの中に流れ込んだのだ。
これが、レンが生まれつき持つ呪いであり、能力だった。他人の極限感情に共鳴し、その源泉を夢で追体験する。代償に、目覚めるたびに自身の記憶の一部が、水で滲んだ絵の具のように曖昧になっていく。子供の頃好きだった絵本の色も、初めて自転車に乗れた日の空の青さも、今では朧げな輪郭しか残っていない。
「……レンさん、いらっしゃいますか」
階下から届いた控えめな声に、レンはベッドから身を起こした。記憶管理局の学芸員、アリアだ。彼女が持ってくる仕事は、いつも厄介事の匂いがした。
リビングに降りると、アリアは小さな桐箱をテーブルに置き、心配そうな瞳でレンを見つめていた。「また、変質した『記憶の石』が発見されました。今回は、著名な彫刻家、故マスター・クロードのものです」
箱を開けると、中には濁った水晶のような石が鎮座していた。本来、記憶の石は、その記憶が持つ感情に応じて温かな光を放つはずだ。クロードが奉納したのは「生涯最高の傑作を彫り上げた瞬間の、純粋な創造の喜び」。しかし、今レンの目の前にある石は、まるで底なし沼のように、どす黒く淀んだ光を放っていた。
石にそっと指を触れる。ひやりとした感触と共に、不協和音のような感情の残滓が流れ込んできた。それは喜びなどではなかった。焼けつくような嫉妬、焦燥、そして、暗い歓喜。偽りの記憶の下で、真実の感情が醜く蠢いていた。
第二章 羅針盤の微睡み
その夜の夢は、石の記憶そのものだった。
薄暗いアトリエ。鑿を握る老人の手は、嫉妬に震えていた。壁には、若きライバルの作品の写真がびっしりと貼られている。その圧倒的な才能への羨望と、それを超えられない自身への苛立ちが、粘つくタールのようにレンの全身に絡みついた。夢の中のクロードは、ライバルの代表作に酷似した作品を彫り上げ、それを自らの最高傑作だと偽りの自己暗示をかけていた。
「これが……真実か」
夜明けの薄明かりの中、レンは呟いた。クロードの奉納した記憶は、純粋な喜びなどではなかった。他者の才能を模倣し、己のプライドを守るために塗り固めた、醜い虚飾だったのだ。
自己の記憶がまた少し薄れていく感覚に耐えながら、レンは上着のポケットに手を入れた。指先に触れたのは、硬く、冷たい金属片。変質した石から稀に見つかるという「断片の羅針盤」。普段はただのガラクタだが、強い感情の夢を見た直後だけ、奇妙な反応を示す。
レンが羅針盤を握りしめると、それは確かな熱を帯び、微かに振動を始めた。手のひらの上でゆっくりと回転した金属片は、やがて鋭い先端を街の西地区へと向け、ぴたりと静止した。
「クロードのかつてのアトリエがあった場所……」
アリアが調べてくれた情報が脳裏をよぎる。何かが、そこにある。真実の在り処を、この小さな金属片が示している。レンはアリアに連絡を取り、羅針盤が指し示す場所へと向かう決意を固めた。夜明けの空気が、世界の秘密に触れる前の静けさを湛えていた。
第三章 塵埃に眠る告白
クロードのアトリエは、取り壊しの噂も虚しく、埃をかぶったまま静かに佇んでいた。錆びた扉を押し開けると、カビと乾いた絵の具の匂いが鼻をつく。床には、打ち捨てられたデッサンや鑿が散乱し、過ぎ去った時間の澱が空気に溶けていた。
羅針盤は、アトリエの隅にある床の一点を、ぶれることなく指し示し続けている。
「ここだ」
レンとアリアは顔を見合わせ、床板に手をかけた。ぎしり、と耳障りな音を立てて剥がれた板の下には、小さな木箱が埋められていた。まるで、誰にも見つからないように、あるいは、いつか誰かに見つけてもらうために隠されたかのように。
箱の中には、黄ばんだ一通の手紙と、砕かれた小さな大理石の破片が入っていた。手紙の差出人は、クロードが嫉妬したあの若きライバルだった。
『親愛なるクロード先生へ。あなたの作品は、いつも私の道標でした。この新作のモチーフは、あなたへの尊敬の念を込めたものです。いつか、あなたと共に創作できる日を夢見ています』
その誠実な言葉に、胸が締め付けられる。そして、大理石の破片。それは、ライバルがクロードに贈った、友情の証である小さな彫刻の残骸だった。クロードは、嫉妬のあまりこれを自らの手で打ち砕き、その事実を記憶の奥底に封じ込めていたのだ。
奉納されたのは、「傑作を創り上げた」という偽りの記憶。しかし真実は、「偉大な才能を持つ友人の信頼を裏切り、嫉妬に狂った醜い後悔」。
レンが砕かれた破片に触れた瞬間、管理局に保管されているクロードの記憶の石が、呼応するようにその色を完全に変えたという連絡がアリアの端末に入った。どす黒い淀みは消え、今はただ、深い悲しみと後悔を示す、静かな藍色に輝いているという。
偽りの記憶が、抑圧された真実によって正されたのだ。変質の原因は、これだ。レンは確信した。人々が奉納し続けた、美しく加工された嘘の記憶。その下に眠る本物の感情が、もう限界だと叫びを上げている。
第四章 世界が泣きだした日
一つの真実が暴かれたことを引き金に、世界は変貌を始めた。
まるで長年堰き止められていた濁流が溢れ出したかのように、街中の記憶の石が、次々と本来の色を取り戻し始めたのだ。
「夫を愛している」と奉納された石は、裏切りへの憎しみを映す赤黒い光を放ち、「仕事の成功」を誇った石は、同僚を蹴落とした罪悪感に灰色に染まる。人々が拠り所にしてきた幸福な記憶の数々は、そのほとんどが虚飾にまみれた偽りだった。クリスタルのように輝いていた街並みは、瞬く間に後悔と悲しみ、憎悪の色に沈んでいく。
人々は恐慌に陥った。自らが奉納した偽りの記憶が暴かれ、隠していたはずの醜い真実が公衆の面前に晒される。社会の秩序は、その土台から崩壊を始めた。
「う、ぁ……っ!」
レンはその場に膝をついた。街中に溢れかえる真実の感情が、津波のように彼の精神へと流れ込んでくる。無数の夢、無数の人生、無数の後悔が、彼の意識を飲み込もうとしていた。自身の記憶と他人の記憶の境界線が溶けていく。自分が誰なのか、どこにいるのかさえ、分からなくなりそうだった。
「レンさん、しっかりして!」
アリアが彼の肩を掴むが、その声も遠い。
その時だった。レンのポケットの中で、断片の羅針盤がこれまでになく激しい光と熱を放った。それはもはや何かを指し示すというより、何かを指し示している場所そのものへと、レンを導こうとしているようだった。
震える手で取り出した羅針盤が示す先は、一つ。
すべての記憶の石が集積され、この世界のシステムを管理する巨大な塔――『中央管理局タワー』の最上階だった。
第五章 記憶の揺りかご
タワーの内部は、人々の絶叫と混乱で満ちていた。レンとアリアは、溢れ出す感情の奔流に耐えながら、螺旋階段を駆け上った。最上階にたどり着いた二人を待っていたのは、人の背丈を遥かに超える、巨大な水晶の柱だった。それは静かに脈動し、街中で変質した記憶の石と共鳴するように、無数の色を明滅させている。
壁一面に、見たこともない古代の文字がびっしりと刻まれていた。歴史文献を専門とするアリアが、息を呑みながらその解読を始める。
「これは……警告? いいえ、未来へのメッセージ……」
彼女の声が震えていた。
壁の記述によれば、この「記憶の石」のシステムは、遥か昔、偽りと欺瞞によって自滅しかけた古代文明が、後世の人類のために遺した壮大な「記憶の浄化装置」だった。人々が自らの記憶と誠実に向き合っている間は、システムは静かに社会の安定を支える。しかし、人々が偽りの記憶を奉納し、真実から目を背け続けた時、抑圧された感情のエネルギーが飽和点に達し、浄化の最終段階が起動する。
記憶の石の変質は、その始まりの合図だった。システムが、偽りの平和を破壊し、人々に真実を突きつけるために、あらかじめプログラムされていた現象なのだ。
そして、アリアは最後の部分を読み解き、絶句した。
「……浄化の時、システムは人々の真実の記憶と共鳴する『触媒』を生み出す……。触媒は、忘れられた真実の断片を探し出し、解放の引き金を引くための存在。そして……すべての真実が世界に還った時、触媒はその役目を終え、大いなる記憶の海へと融解する……」
アリアは、ゆっくりとレンに視線を向けた。その瞳は、悲しい真実を映して揺れていた。
レンの能力。レンの存在そのものが、この世界を浄化するために生まれた、儚い触媒だったのだ。
第六章 君に捧ぐソネット
世界の浄化は、終わった。
街は静けさを取り戻していた。人々は、剥き出しになった自らの真実と向き合い、呆然と立ち尽くしている。それは痛みを伴う目覚めだったが、偽りの幸福に眠り続けるより、ずっと人間らしい始まりだった。
レンの身体が、足元からゆっくりと光の粒子となって薄れ始めていた。アリアは、ただ彼のそばに寄り添い、その手を固く握りしめている。
「僕の記憶も、もうほとんど残ってないみたいだ」
レンは、穏やかに微笑んだ。自身の過去が消えていく恐怖は、もう感じなかった。
「でも、不思議だ。君と出会って、真実を探したこの記憶だけは、まるで昨日のことのように鮮明なんだ。……君の驚いた顔も、真剣な横顔も、全部」
「忘れない」
アリアは、涙をこらえて声を絞り出した。
「あなたがいたこと、あなたが教えてくれたこと、全部。それが、私の今年の『記憶の石』になるから。偽りじゃない、たった一つの、私の最も大切な記憶に」
その言葉に、レンは心から安堵したように頷いた。光となって消えゆく指先で、そっとアリアの頬に触れる。その温もりだけが、彼の存在の最後の証明だった。
「ありがとう、アリア。……僕が見る最後の夢は、君の笑顔がいいな」
それが、彼の最後の言葉だった。
レンの身体は完全に光となり、静かに大気に溶けていった。後には、役目を終えて輝きを失った「断片の羅針盤」だけが、アリアの掌に冷たく残された。
一年後。街に奉納される記憶の石は、様々な色合いを放っていた。幸福の金色、悲しみの藍色、後悔の灰色。だが、そのどれもが偽りのない真実の輝きを宿し、以前よりもずっと深く、温かい光で街を照らしていた。
アリアは、新しく奉納された一つの石の前に立っていた。それは、レンと過ごした日々の記憶。透明な水晶の中に、ほんの少しだけ切ない水色が揺らめいている。けれど、その輝きはどこまでも澄み渡り、強く、気高かった。
彼女は、彼が遺した羅針盤をそっと胸に当てた。世界は真実を取り戻した。その真実と共に、彼女は生きていく。彼という存在がいた確かな記憶を、抱きしめて。