黄金色の残響

黄金色の残響

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第一章 最後の煌めき

午前十一時の光が、古いカフェ「時の砂時計」の埃っぽい窓から細長く差し込み、磨り減った木製の床に長い影を落としていた。ブレンドコーヒーの香ばしい匂いが、焼きたてのパンの甘い香りと混ざり合い、店中に漂っている。私はカウンターの奥で、無表情にカップを拭いていた。私の名前は葵。二十歳。この店でアルバイトを始めて二年になる。

私の日常は、他人との間に見えない壁を築くことで成り立っていた。それは、私が幼い頃から抱える、ある「能力」のせいだった。特定の条件下で、他者の感情が極限に達すると、その人物の周囲に「色」が見えるのだ。喜びは淡い緑、怒りはくすんだ赤、悲しみは深い藍色。そして、私を最も困惑させていたのが、深い絶望や死の淵にいる人間にだけ現れる、あの鮮烈な「黄金色」の光だった。それはあまりにも美しく、あまりにも輝かしく、絶望という言葉では決して説明できない、矛盾した光だった。この能力を誰にも話せず、私は人との深い繋がりを避けてきた。感情の色が見えるたびに、彼らの剥き出しの感情が私に流れ込み、心が掻き乱されるからだ。

その日も、常連客である七十代の老婦人、山田サチさんの席にコーヒーを運んだ。「葵ちゃん、今日もいい匂いね。昔を思い出すわ」と、彼女はいつも通り、穏やかに微笑んだ。サちさんは、いつも同じ席に座り、同じブレンドコーヒーを注文する。細く皺の刻まれた指でカップを包み込む姿は、私にとって日常の一部だった。

だが、その日のサチさんは少し様子が違った。コーヒーを一口飲むと、まるで時が止まったかのように、動きを止めたのだ。僅かな沈黙がカフェを満たし、次の瞬間、彼女は静かに、テーブルに突っ伏した。

「サチさん!」私は反射的に駆け寄った。

そして、その時だった。

サチさんの細い身体の周囲から、まばゆい光が迸った。それは、私がこれまで見てきたどの「黄金色」よりも鮮烈で、それでいて、信じられないほど穏やかな輝きだった。まるで、夕陽がすべてを包み込むかのような、暖かく、そして切ない光。それは、死の瞬間の恐怖や絶望とはかけ離れた、まるで安堵と達成感が混ざり合ったかのような、不思議な光だった。

カフェは一瞬にして騒然となり、救急車のサイレンが遠くから聞こえてくる。だが、私の視線は、まだサチさんの身体から立ち上る、その神秘的な黄金色の残響に釘付けになっていた。私の心臓は不規則なリズムで高鳴り、この光が一体何を意味するのか、その問いが頭の中で木霊し続けた。

警察の事情聴取が終わり、店が閉鎖された後、私はサチさんの遺品整理に立ち会うことになった。サチさんには身寄りがなく、店長が手続きを手伝うことになっていたのだ。遺品は質素なものだったが、その中に一通の古い封筒を見つけた。差出人の名前はない。だが、宛名には、震えるような筆跡でこう記されていた。「佐伯葵様」。私宛ての手紙だった。

厚い封筒の感触が、私の指先に微かな震えを伝えた。中には、何枚もの便箋と、色褪せた一枚の写真が入っていた。写真には、幼い頃の私が、古いブランコに乗って笑っている姿が写っていた。その背景には、見覚えのある古い養護施設の建物がぼんやりと映っている。私の心臓が、再び激しく脈打ち始めた。サチさんと私に、一体どんな接点があったというのだろう。そして、あの黄金色の光は……。

第二章 静寂の中の糸口

手紙には、丁寧に、そして慎重に選ばれた言葉が綴られていた。サチさんの筆跡は、まるで話しかけてくるように優しかった。

「葵ちゃん、もしこの手紙を読んでいるなら、私はもう旅立ってしまった後でしょう。あなたは、私の人生に差し込んだ、唯一の光でした。この手紙が、あなたの心の奥底に眠る、真実への道しるべとなることを願っています。」

手紙は、私が幼い頃に過ごした養護施設「ひなたの家」での記憶を呼び起こすものだった。サチさんは、その施設で長年ボランティアをしていたと記されていた。毎週土曜日の午後、庭で子供たちと遊び、絵本の読み聞かせをしていたという。私はその記憶をほとんど持っていなかったが、脳裏に、優しげな老婦人の面影がぼんやりと浮かんだような気がした。

手紙には、さらにこう書かれていた。「あなたは、特別な力を持っている。それは、決して呪いなどではない。あなたの母親も、同じ力を持っていたのです。そして、あの黄金色の光は……」そこまで書かれたところで、インクが途切れていた。まるで、書き終える直前に、彼女の命が尽きたかのように。

私は呆然とした。私の能力を知っている? 母も同じ力を持っていた? そして、あの黄金色の光の本当の意味。疑問が次々と頭を駆け巡った。この手紙は、私がこれまで築き上げてきた、孤独な世界の壁に亀裂を入れるものだった。

私は意を決し、「ひなたの家」を訪ねた。門をくぐると、昔と変わらない古いブランコが、風に揺れている。錆びたチェーンがきしむ音が、幼い頃の私を呼び起こすようだった。園長先生は、私が来たことに驚きながらも、温かく迎え入れてくれた。

「サチさんですか。ええ、よく来てくださっていましたよ。特に、葵ちゃんのことをとても可愛がっていましたね。いつも、遠くから見守っているようでした」

園長先生の話を聞くうちに、私はサチさんが単なるボランティアではなかったことを悟り始めた。彼女は、毎週土曜日の訪問を楽しみにし、私が他の子供たちとどのように過ごしているか、目を離さなかったという。私の能力については、何も知らなかったようだが、サチさんが私に対して抱いていた特別な感情は、はっきりと伝わってきた。

「彼女、あなたのお母さんのことも、少し話していたわ。とても、賢くて、優しい方だったと」

園長先生の言葉は、私の心をざわつかせた。母のこと? 私は両親の顔も知らない。物心つく前から施設に預けられ、両親に関する情報は一切教えてもらえなかったのだ。

「サチさんは、よくノートをつけていましたね。子供たちの成長を記録していたのかしら。確か、物置の奥に、まだ残っているものがあったような……」

園長先生のその言葉に、私の胸が高鳴った。もしかしたら、そのノートに、私の知らない過去や、あの黄金色の光の謎を解く鍵があるかもしれない。私は、サチさんが残した痕跡を辿るように、深い霧の中を進んでいるような感覚だった。

第三章 過去からの告白

園長先生の案内で、施設の裏にある小さな物置小屋に足を踏み入れた。カビと埃の匂いが鼻をつく。古いガラクタの山の中から、一冊の使い古されたノートを見つけた。表紙には「観察日記」と、サチさんの手書きの文字が記されている。私の心臓は、激しい音を立てていた。

ページをめくると、日付と共に、幼い子供たちの成長が綴られていた。そして、何ページか読み進めたところで、「佐伯葵」という私の名前を見つけた。私の記憶にはない、幼い頃の私の日々が、サチさんの温かい眼差しを通して描かれていた。

「今日の葵ちゃんは、ブランコに乗りながら、空をじっと見つめていた。何が見えているのだろう。あの子の目は、特別な光を宿している」

その記述に、私は息を呑んだ。サチさんは、私の能力に気づいていたのだ。

読み進めるうちに、ノートは日記へと姿を変えていった。サチさんの個人的な感情や苦悩が吐露されていく。

「あと半年。医師はそう言った。もっと長く、あの子の成長を見守っていたかった。あの能力の本当の意味を、伝えたかったのに……」

サチさんは、不治の病に侵されていた。そして、残された時間で、私に何かを伝えようとしていたのだ。私の手が震えた。そして、続くページに、衝撃的な真実が記されていた。

「葵、私の愛しい孫娘。私には、あなたに決して伝えられなかったことがある。私はあなたの祖母です。あなたのお母さん、玲奈は、私の娘でした。彼女もあなたと同じ、感情の色が見える能力を持っていた。ただ、玲奈が見ていたのは、他者の『深い幸福』を映し出す、あの黄金色の光だった。」

私の視界が、一瞬にして真っ白になった。サチさんは、私の祖母? 私の母親も、同じ能力を? だが、その母親が見ていたのは「深い幸福の黄金色」だったという。私の見ていた「絶望の黄金色」とは真逆の意味を持つ。

「玲奈は、とても聡明な子だった。だが、彼女の能力は時に、彼女を苦しめた。幸福の光が見えすぎると、その裏にある僅かな影も、彼女には耐え難いものになったのかもしれない。そんな玲奈が、深い愛の中であなたを産んだ。けれど、あなたの父親は、ある国の研究者で、政治的な理由から、あなたを私たちのもとから遠ざけなければならなかった。あなたの身の安全のため、私たちはあなたを『ひなたの家』に預けるしかなかったの。」

私は呼吸を忘れていた。私という存在のルーツ、私の能力の起源、そして、私が「絶望の色」だと思っていた黄金色の光の真の意味。全てが、この一冊のノートの中で、音を立てて崩れ去った。

サチさんは、娘の玲奈から、その能力を受け継ぎ、そして私もまたその能力を受け継いでいること、そして、私がサチさんの死の瞬間に見た「黄金色の光」は、絶望などではなく、孫娘の将来を案じ続けた祖母が、使命を果たし、すべてを託した瞬間の、深い愛と安堵、そして、私が真実を知ることで得られるであろう「幸福」への祈りだったのだと。

私の体中に、これまで感じたことのない種類の震えが走った。それは恐怖でも悲しみでもなく、根源的な存在理由が書き換えられるような、魂の衝撃だった。私がずっと呪いだと感じていた能力は、実は愛の証であり、私を孤独に追いやったと思っていた運命は、深い愛情によって守られていたのだ。物置小屋の薄暗い光の中で、私の心は、これまで積み重ねてきた偽りの壁を打ち砕かれ、剥き出しの真実と向き合っていた。

第四章 真実の光、心の再生

物置小屋を出た私は、呆然と施設の庭を歩いた。初夏の柔らかな風が、木々の葉を揺らし、さやさやと音を立てている。私の心は、嵐が過ぎ去った後の海のように、静かで、しかし深い余韻に浸っていた。

サチさんのノートと手紙は、私がこれまで抱いてきた全ての疑問に対する答えを与えてくれた。私の能力は、遺伝によるものであり、その黄金色の光は、私が誤解していたような絶望の色ではなかった。それは、深い愛と安堵、そして幸福への祈り。サチさんは、私が真実を知り、私の能力が持つ本当の意味を理解してくれることを、生涯をかけて願っていたのだ。

私の両親が、私を手放さざるを得なかった背景には、政治的な理由があった。それは、彼らが私を守るために下した、苦渋の決断だったのだ。決して私を捨てたわけではない。むしろ、深い愛情ゆえの選択だった。そして、サチさんは、そんな私を、遠くから静かに見守り続けていた。カフェでの彼女の穏やかな微笑み、私の名前を呼ぶ優しい声。それら全てが、今となっては、深い愛情の表れだったのだと理解できた。

私の能力に対する見方も、根底から変わった。これまで、他者の感情が見えることは、私の心をか掻き乱し、孤独へと追いやる呪いだと感じていた。しかし、祖母の真実を知った今、それは呪いなどではない。人との間に存在する、見えない繋がりを感じ取るための、特別な贈り物なのだと。私の母親が幸福の黄金色を見ていたように、私もまた、いつか、誰かの深い幸福の光を、鮮やかに見ることができるようになるのかもしれない。

私は再びブランコの前に立った。幼い頃、ここで何を思っていたのだろう。何も知らない無邪気な私が、遠くから私を見守る祖母の存在に、気づくことなどなかった。ブランコの座面に触れると、少し冷たい金属の感触がした。

頬を伝う涙は、悲しみのものではなかった。それは、長年抱えてきた孤独と誤解が溶け出し、温かい愛に包まれたことによる、安堵と感謝の涙だった。祖母の愛は、私の中に、新たな光を灯してくれた。私はもう、人との間に壁を作る必要はない。私の能力は、私を孤立させるものではなく、むしろ、人々とのより深い共感と理解へと導くための道標になるはずだ。

私は深呼吸をした。埃とカビの匂いではなく、かすかに土と若葉の匂いがした。世界が、少しだけ鮮やかに見えた。

第五章 輝く未来への軌跡

カフェ「時の砂時計」に戻った私は、以前とは違う、新たな気持ちでカウンターに立っていた。ブレンドコーヒーの香りが、以前にも増して心地よく感じられる。私はもう、人々の感情の色を見ることを恐れてはいなかった。むしろ、その色一つ一つに、これまでとは違う意味を見出すことができるようになったのだ。

ある日の午後、いつものように常連客でにぎわう店内を眺めていた時だった。小さな子供を連れた母親が、嬉しそうにパンケーキを頬張る子供を見つめていた。その瞬間、私は見た。母親の周囲に、これまで見てきた「絶望」とは全く異なる、温かく、柔らかい黄金色の光が、ふわりと広がったのだ。それは、彼女の子供への深い愛情と、小さな幸せを噛みしめる喜びが溶け合った、まさに「幸福の黄金色」だった。

私の心臓が、再び大きく高鳴った。祖母がノートに記していた「母親が見ていた幸福の黄金色」。私は、それを見たのだ。それは、私が「絶望の色」だと誤解していた光とは、全く異なる輝きを放っていた。それは、温かく、柔らかく、そして、希望に満ちた色だった。私の能力は、進化していた。祖母が私に託したかった真実が、私の視界を開いたのだ。

私は、もう、自分を特別な存在として孤立させる必要はない。この能力は、私を人々から遠ざけるものではなく、むしろ、彼らの心の奥底にある、最も純粋な感情に触れるための、架け橋となる。サチさんが私に見せてくれたあの最後の黄金色の光は、私への究極の愛のメッセージだった。そして、その愛は、私の中で生き続け、私を未来へと導く光となるだろう。

私は、自分のルーツを知り、能力の真の意味を理解したことで、内面から大きく成長した。孤独だった私の世界は、祖母の愛によって温かく照らされ、人々との繋がりを求める、新たな私へと生まれ変わった。私は、これからも多くの感情の色を見ていくだろう。悲しみ、怒り、喜び、そして、あの温かい黄金色の幸福の光。それら全てを、私は全身で受け止めることができる。

カフェの窓から差し込む夕陽が、再び磨り減った木製の床に長い影を落とす。私は、温かいコーヒーを淹れながら、自分の手を見つめた。この手で、私はこれからも、多くの人々の心に触れ、時には、彼らの人生にそっと寄り添う存在になれるかもしれない。そしていつか、私自身が、誰かの心に、あの「黄金色の光」を灯すことができるように。

私の人生は、あの日の「最後の煌めき」から始まった。それは、終わりではなく、新たな始まりを告げる、希望に満ちた残響なのだ。

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