シミの見る景色

シミの見る景色

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第一章 シミのない女

染谷蓮(そめやれん)の世界は、無数のシミで汚れていた。それは比喩ではない。蓮の目には、他人の後悔が物理的な黒いインクのシミとなって見えた。衣服に、カバンに、時には肌そのものに、後悔の念はどす黒い痕跡となってまとわりつく。嘘をついた営業マンの襟元には小さな斑点が、不倫を重ねる主婦の背中には大きなまだら模様が、そして、取り返しのつかない過ちを犯した人間の全身には、まるで墨汁を浴びたかのようなおぞましいシミがべったりと張り付いていた。

この呪いのような能力は、物心ついた頃から蓮と共にあった。おかげで彼は、人の本質をシミの濃淡で判断するようになり、いつしか深い人間不信に陥っていた。笑顔の裏に隠されたどす黒いシミを見るたびに、世界への絶望が深まる。だから蓮は、神保町の片隅にある古書店「有時堂(ゆうじどう)」の店番という仕事を選んだ。死んだ作家の後悔は本に染みついているが、少なくともそれはもう動かないシミだ。生きている人間の、絶えず形を変える生々しいシミに比べれば、ずっと心が安らいだ。

そんな蓮の静かな日常に、その老婆は静かに現れた。名を、千代(ちよ)といった。小柄で、背筋がしゃんと伸び、銀色の髪を上品に結い上げている。彼女は週に三度ほど店にやって来ては、決まって奥の植物学の棚へ向かい、一冊の分厚い図鑑を手に取った。そして、窓際の椅子に腰掛け、陽光の中で何時間もページを繰るのだが、決してそれを買おうとはしなかった。

蓮が彼女の存在に強く心を惹かれたのは、ただその習慣の奇妙さからだけではない。驚くべきことに、千代には、あの黒いシミがどこにも見当たらなかったのだ。真っ白なブラウスも、丁寧に手入れされた革のハンドバッグも、そして皺の刻まれたその手にも、一点の曇りもなかった。

蓮の世界において、シミのない人間など存在しない。赤ん坊でさえ、母の乳が出ないことに不満を抱けば、その小さな胸にうっすらとシミが浮かぶのだ。後悔のない人生などありえない。では、目の前のこの老婆は一体何者なのか。聖人君子か、あるいは、後悔という感情そのものを持ち合わせていないのか。

好奇心と、ほんの少しの恐怖。蓮はカウンターの奥から、シミのないその背中をじっと見つめ続けた。彼女がページをめくる乾いた音だけが、埃っぽい静寂に満ちた店内に、ことさら大きく響いていた。

第二章 色褪せた図鑑の温もり

数週間が過ぎた頃、蓮はついに勇気を振り絞った。「あの、いつも同じ本を読んでいらっしゃいますね」

千代はゆっくりと顔を上げた。深い皺に縁取られた瞳は、磨かれた黒曜石のように澄んでいた。「ええ。探しているものがあるの」穏やかな声だった。その声には、蓮が聞き慣れた、言葉の裏に滲む後悔の湿り気が一切なかった。

「何か、特定の植物ですか? お手伝いしましょうか」

我ながら驚くほど、自然に言葉が出た。普段なら、客のシミを見て早々に会話を打ち切る自分が、シミのないこの老婆には、もっと近づきたいと願っている。

千代は嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう、坊や。でも、大丈夫。こうして探している時間が、私には大切だから」

その日を境に、二人の間にはささやかな交流が生まれた。千代はかつて植物学者で、亡くなった夫も同じ道を歩んでいたことを話してくれた。彼女が探している図鑑は、夫との思い出が詰まった、古い版のものらしかった。彼女は植物の話を始めると、まるで少女のように目を輝かせた。絶滅した高山植物の儚さ、新種の苔を発見した時の夫の喜びよう。彼女の語る世界は、蓮が知るシミだらけの世界とはまるで違う、光と喜びに満ちたものだった。

蓮は、千代と過ごす時間に得も言われぬ安らぎを感じていた。彼女の前にいる時だけ、世界から醜いシミが消え去り、ただ純粋な人間の温もりだけを感じることができた。今まで呪いでしかないと思っていた自分の目が、初めて、シミのない「奇跡」を見せてくれたのだとさえ思った。

「千代さんのように生きられたら、どんなに素晴らしいでしょうね」ある日、蓮はぽつりと漏らした。「後悔なんて、何一つないように見える」

千代はきょとんとした顔で蓮を見つめ、それからふわりと笑った。「そう見える? 人生は、忘れることで前に進めるものよ。大切なことだけ覚えていれば、それでいいの」

その言葉は、蓮の心に深く染み渡った。そうだ、人は忘れることができるのだ。自分はこの能力のせいで、他人の過去も自分の過去も忘れられず、シミに縛られて生きてきた。だが、千代のように、大切な記憶だけを抱きしめて生きることもできるのかもしれない。

蓮は、千代のシミのない姿に、自分の目指すべき人間の完成形を見ていた。彼女との出会いは、蓮の頑なだった心を少しずつ溶かし、シミだらけの世界にも美しいものは存在すると信じさせてくれる、一筋の光のように思えた。

第三章 空白の後悔

しかし、その光は突然、途絶えた。千代がぱたりと店に来なくなったのだ。一日、三日、そして一週間。いつもの窓際の椅子は、ただ空虚に陽光を浴びているだけだった。胸騒ぎが蓮を襲う。もしや、彼女の身に何かあったのではないか。

蓮は、以前千代がぽつりと漏らした大まかな住所と、「庭に大きな泰山木(たいさんぼく)がある家」という言葉だけを頼りに、彼女の家を探し始めた。半日かけて歩き回り、ようやく見つけたその家は、立派な庭を持つ、静かな佇まいの日本家屋だった。

呼び鈴を鳴らすと、中から現れたのは四十代くらいの疲れた表情の男性だった。「……母に何か?」

「あの、古書店の者ですが、最近お見えにならないので、ご様子を伺いに」

そう言った蓮の視線は、男性の背中に釘付けになった。そこに、あった。蓮が今まで見たどんなシミよりも巨大で、深く、おぞましい、底なしの闇のようなシミが。まるで重いマントのように彼の背中全体を覆い尽くし、その存在感だけで空気が歪むようだった。

男性は蓮を家の中に招き入れた。そして、重い口を開き、語り始めた事実は、蓮の築き上げてきたささやかな希望を根底から粉々にするものだった。

「母は……千代は、重いアルツハイマー病なんです」

蓮は言葉を失った。男性――千代の息子である昭夫(あきお)は、淡々と続けた。

千代は数年前から認知症を患い、記憶が日に日に失われていること。毎日、古書店に通うのは、夫との思い出の植物図鑑を探すためだが、その図鑑は数年前、他ならぬ彼女自身がどこかへやって失くしてしまったこと。そして、彼女がなぜ図鑑を探しているのか、その理由さえも、日によっては忘れてしまうこと。

「母にシミがない……後悔がないのは、聖人だからじゃない」昭夫は自嘲するように言った。「ただ、後悔するだけの記憶を、留めておけないだけなんです。昨日のことも、一時間前のことも、すべて忘れてしまう。後悔は、記憶がなければ生まれないでしょう?」

蓮は全身から血の気が引くのを感じた。自分が理想としていた「シミのない人間」の真実。それは清廉潔白さの証などではなく、最も残酷な形で記憶を奪われた、空っぽの魂の姿だったのだ。

だが、昭夫の告白はそこで終わらなかった。彼は床の一点を見つめ、震える声で最後の、そして最も重い事実を口にした。

「父が死んだのは、事故でした。……母が運転する車の。あの日、母は認知症の初期症状で、一瞬、判断を誤った。父を亡くしたショックと罪悪感で、母の病気は一気に進んだ。そして今では……自分が夫を死なせたことさえ、忘れてしまった」

蓮は息を呑んだ。昭夫の背中を覆う、あの巨大なシミ。それは、母が犯した罪と、その罪さえ忘れて穏やかに日々を過ごす母を介護し続けなければならない、息子の耐え難い苦しみと葛藤、そして決して消えることのない後悔そのものだった。

蓮は愕然とした。今まで自分が軽蔑し、忌み嫌ってきたあの黒いシミこそが、人が過ちと向き合い、苦しみ、それでもなお生きている証だったのではないか。シミのない千代は、その苦しみからさえも解放されている。どちらが、本当に救われているのだろう。どちらが、より深く傷ついているのだろう。蓮の価値観は、音を立てて崩れ落ちた。

第四章 僕が背負うべきシミ

店に戻った蓮は、まるで亡霊のように書架の間をさまよった。シミのない世界など、どこにもなかったのだ。ただ、後悔から目を逸らすか、後悔する記憶さえ失うか、その違いだけだった。千代の空白は、昭夫の巨大なシミによって埋められていた。誰かの空白は、他の誰かのシミになる。世界はそうやって、痛みの均衡を保っているのかもしれない。

蓮は、自分の能力を初めて違う角度から見つめ直していた。これは呪いではない。人の痛みを、言葉にならない悲鳴を、可視化するだけのものだ。シミを忌み嫌うことは、人の痛みを拒絶することと同じだったのだ。

決意が、蓮の中に静かに灯った。彼は書庫の奥へ向かい、何時間もかけて棚を漁った。そしてついに、埃をかぶった段ボールの底から、一冊の古い植物図鑑を見つけ出した。千代が探していたものと、同じ出版年、同じ装丁の本だった。

翌日、蓮は再び千代の家を訪れた。ドアを開けた昭夫は、驚いた顔をしたが、何も言わずに彼を招き入れた。縁側で日向ぼっこをしていた千代は、蓮のことなど覚えていないかのように、ただぼんやりと庭を眺めていた。

「千代さん」蓮は静かに呼びかけ、図鑑を差し出した。

千代はゆっくりとそれを受け取ると、数秒間、その古びた表紙を撫でた。そして、慣れた手つきでページをぱらぱらとめくり、あるページでぴたりと手を止めた。そこに描かれていたのは、夫が最も愛したという、今はもう見ることのできない幻の花「ヒマラヤの青いケシ」だった。

その瞬間、千代の澄んだ瞳が、ふっと揺らいだ。まるで、深い霧の奥から何かが浮かび上がるように。彼女の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ち、頬の皺を伝った。

その時、蓮は確かに見た。千代の真っ白だった肩先に、ほんの僅か、淡く儚い、小さな黒いシミが浮かび上がるのを。それは、蓮が今まで見てきたどのシミとも違っていた。絶望の色ではなく、失われた愛の記憶を取り戻した証のように、切なく、そして美しくさえ見えた。

隣で見ていた昭夫が、小さく息を呑むのが分かった。彼の背中の巨大なシミは消えていない。だが、その輪郭がほんの少しだけ、和らいだように蓮には感じられた。

店に戻り、蓮は初めて、鏡に映る自分自身をまっすぐに見つめた。自分の肩にも、小さなシミがあった。ずっと見て見ぬふりをしてきた、人との関わりを避け、自分の殻に閉じこもってきた後悔のシミだ。だが、蓮はもうそれを恐れなかった。これは自分が生きてきた証であり、これから誰かの痛みを理解するための、始まりのシミなのだ。

蓮は店のドアを開け、夕暮れの雑踏へと一歩を踏み出した。行き交う人々は、相変わらず大小様々なシミをまとっている。しかし、その景色はもう、蓮にとって醜いだけの世界ではなかった。痛みを抱え、後悔を背負い、それでも懸命に歩き続ける人々が織りなす、不器用で、どうしようもなく愛おしい世界に見えた。風が蓮の頬を撫でる。その風は、街に満ちる無数の後悔の、小さなため息を運んでいるようだった。

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