澱の色、プリズムの心

澱の色、プリズムの心

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第一章 紫紺の澱を纏う人

柏木湊(かしわぎみなと)の世界は、人々の後悔で彩られていた。彼には、他人が心の奥底に沈殿させている後悔が、その人から立ち上る「澱(おり)」のような色として見えた。それは煙でもオーラでもない、もっと実体感のある、まるで水中に溶けきれなかった絵の具のような粒子だった。些細な失言は濁った灰色に、叶わなかった夢は錆びた鉄のような赤褐色に、裏切りはどす黒い緑色に。神保町の古書店「時の栞」で働く湊は、その色の洪水から逃れるように、古い紙の匂いと静寂の中に身を埋めていた。

この能力のせいで、湊は深入りを避けるようになった。色の濃い人間とすれ違うだけで、その人物が背負う痛みの残滓が肌を撫でるような不快感があったからだ。だから彼は、人の過去を詮索せず、未来を問わず、ただ目の前の本を売るだけの、感情のない歯車でいることを自らに課していた。

奇妙なことに、湊は自分自身の澱を見たことがない。鏡を覗き込んでも、ガラスに映る姿を見ても、そこには色のない、ただの自分がいるだけだ。後悔のない人間などいるはずがないのに。能力の対象外なのか、それとも自分でも気づかないほど無感覚に生きているのか。その答えの出ない問いは、彼の心の隅に小さな棘のように刺さっていた。

そんなある秋の午後、店の扉が軋み、一人の老婆が入ってきた。その瞬間、湊は息を呑んだ。老婆の全身から立ち上っていたのは、今まで見たどんな澱とも違う、深く、それでいて底光りするような「紫紺の澱」だった。夜明け前の空の色にも、最高級の硯で磨られた墨の色にも似ていた。それは単なる後悔の色ではなく、長い年月をかけて熟成された、一種の荘厳ささえ感じさせた。

「あのう、詩集を探しておりまして」

老婆――千代と名乗った――は、しわがれた声で言った。彼女が探しているのは、戦前に出版された無名の詩人の、小さな詩集だという。亡き夫が、プロポーズの言葉代わりに贈ってくれた、思い出の品だった。

「主人が亡くなってから、どこかにしまい込んでしまって。もう一度、あの人の言葉に触れたいのです」

千代の瞳は、紫紺の澱の奥で、切実な光を宿していた。湊は、いつもなら丁重に断っていただろう。特定の古書を探すのは骨の折れる仕事だ。だが、彼の心を捉えたのは、その見たこともない澱の色だった。この色の正体を知りたい。その抗いがたい好奇心が、湊の長年の信条を、いとも容易く覆した。

「分かりました。探してみましょう。少しお時間をいただけますか」

湊がそう答えると、千代の紫紺の澱が、ほんの少しだけ、柔らかく揺らめいた気がした。

第二章 栞の無い記憶

詩集探しは、記憶の海をたどる旅のようだった。千代は週に二、三度店を訪れ、湊に夫との思い出をぽつりぽつりと語り始めた。若い頃に交わした手紙の話、二人でよく散歩した公園の風景、夫が好きだったクラシック音楽。彼女が語る思い出はどれも温かく、陽光に満ちていた。しかし、話が弾むほど、彼女を包む紫紺の澱は、より一層その深みを増していくように見えた。まるで、幸せな記憶が、後悔という名の染料を濃くしているかのようだった。

「きっと、夫が亡くなる直前に喧嘩をしてしまったせいでしょうね」

ある日、千代はそう呟いた。夫の容態が急変する前夜、些細なことで口論になり、謝れないまま永遠の別れとなってしまったのだという。

「『ごめんね』の一言が、言えなかった。それがずっと、この胸に突き刺さっているんです」

それか、と湊は思った。死別した相手に伝えられなかった言葉。それは確かに、深く濃い後悔になるだろう。紫紺の色は、その愛情の深さと、謝罪できなかった痛みの深さが混ざり合った色なのかもしれない。

詩集探しを手伝う中で、湊は千代の孫娘である美咲とも顔見知りになった。快活で、祖母思いの彼女からは、ミルクをこぼしたような淡い灰色の澱が見えた。

「祖母、ご迷惑をおかけしていませんか? あの詩集のこと、もう何年も探しているんです。でも、見つからない方がいいのかもしれないって、時々思うんです」

美咲は、祖母が過去に囚われすぎていると感じていた。詩集を見つけることで、かえって悲しみが深まるのではないかと案じているのだ。祖母を思う気持ちと、その心の内を完全には理解できないもどかしさ。彼女の灰色の澱は、その優しい葛藤の色だった。

他人の後悔の色を分析しながら、湊は再び自分自身に目を向けた。千代の紫紺、美咲の灰色。誰もが何かしらの色を纏って生きている。なのに、なぜ自分だけが無色透明なのだろう。湊はこれまでの人生を振り返る。大きな失敗も、誰かを深く傷つけた記憶もない。だが、それは単に、傷つけないように、失敗しないように、あらゆることから距離を置いて生きてきただけではないのか。色のない人生とは、何の色もない、空っぽの人生ということではないのか。その考えは、冷たい霧のように湊の心を覆い始めた。

第三章 告白と輝き

捜索を始めて一ヶ月が経った頃、それは偶然見つかった。店の奥にある、先代の店主が残したままになっていた段ボール箱。その底に、ひっそりと横たわっていたのだ。表紙は色褪せ、ページは黄ばんでいたが、千代が言っていた『海の賛歌』というタイトルが微かに読み取れた。

湊はすぐに千代に連絡した。駆けつけた彼女は、詩集をその手に取ると、わななく指で表紙を撫でた。湊は固唾を飲んで見守った。これで、彼女の長年の後悔は癒えるはずだ。あの荘厳でさえあった紫紺の澱も、陽光に溶ける霧のように薄まっていくに違いない。

だが、湊の予想は裏切られた。詩集を胸に抱いた千代から立ち上る澱は、消えるどころか、まるで内側から光を放つように、さらに鮮烈な輝きを増したのだ。湊は混乱した。後悔の象徴である品を見つけ、思い出と向き合ったというのに、なぜ澱は濃くなるのか。

「……見つかって、しまったのですね」

千代は、涙を流しながら、しかしどこか絶望したような声で言った。そして、堰を切ったように、本当の真実を語り始めた。

「私の後悔は、主人に謝れなかったことなんかじゃありません。そんな綺麗なものじゃないんです」

彼女の夫は、最後の数年間、病で寝たきりだった。意識は朦朧とし、ただ苦痛に耐えるだけの日々。日に日に痩せ細っていく愛する人の姿を見るのは、千代にとって身を切られるより辛いことだった。

「ある晩、主人の苦しそうな寝息を聞きながら、思ってしまったんです。『もう、楽にしてあげたい』って。……いいえ、違います。私が、『私が楽になりたい』と、そう願ってしまったんです。主人の死を、この心のどこかで、望んでしまった瞬間があったんです」

その翌朝、夫は息を引き取った。まるで彼女の願いを聞き入れたかのように。

「それ以来、私は自分が許せない。あんなに愛した人の死を望んだ、汚れた自分が。この詩集は、主人がくれた、私たちの幸せだった頃の証です。だから、こんな私には、これに触れる資格なんてないと思って、ずっと見ないように、心の奥底に封印してきたんです」

衝撃的な告白だった。湊は言葉を失った。後悔とは、単純な行為に対するものではない。愛と憎しみ、希望と絶望が複雑に絡み合った、矛盾した感情の奥底にこそ、その根は深く張られているのだ。千代の紫紺は、夫への深い愛情と、自分自身への激しい嫌悪が混ざり合い、長い年月をかけて練り上げられた、魂の色そのものだった。

第四章 僕の虹色

湊は、ただ黙って千代の話を聞いていた。何を言えるというのだろう。彼が今まで見てきた澱は、所詮、表面的な色の染みに過ぎなかった。その色の下に、これほどまでの葛藤と愛憎の物語が渦巻いているとは、想像したことすらなかった。

しばらくして、千代は顔を上げた。その目から涙は消え、不思議なほど穏やかな表情をしていた。彼女は、手の中の詩集を愛おしそうに見つめる。

「でも、これでいいのかもしれません」と彼女は言った。「この澱は、もう消えなくていいんです。私が主人をどれだけ深く愛していたかという証でもあるのですから。この痛みも、罪も、全部抱えて、残りの人生を生きていこうと思います。それが、私にできる唯一の供養でしょう」

彼女を包む紫紺の澱は、相変わらず深く、濃い。しかし、その輝きは、もはや苦しみの色ではなく、覚悟を決めた人間の気高さを示す光のように、湊の目には映った。千代は深々と頭を下げると、詩集を大切に抱え、静かに店を出ていった。

一人残された店内で、湊は呆然と立ち尽くしていた。そして、初めて本気で自分自身と向き合おうと決意した。なぜ、僕には色がないんだ?

彼は店の片隅にある姿見の前に立った。埃をかぶった鏡に映る、色のない自分。彼は目を閉じ、心の奥底に問いかけた。僕の後悔は、一体何なんだ。誰かを傷つけたことは? 誰かを見捨てたことは? 叶えられなかった夢は?

問いかけるたびに、記憶の断片が蘇る。いじめられている同級生を見て見ぬふりをした小学生の自分。親の期待に応えることを諦めた高校生の自分。恋人の涙の理由に踏み込めなかった大学生の自分。そして、他人の後悔の色をただ眺めるだけで、何一つ行動を起こさず、自分の感情にさえ蓋をして生きてきた、今の自分。

それは、どれも紫紺のような一つの強烈な後悔ではなかった。数え切れないほどの、小さな、些細な、見て見ぬふりをしてきた後悔の積み重ねだった。

その瞬間、湊は鏡の中に変化を見た。

鏡の中の自分の姿から、ふわりと、何かが立ち上った。それは特定の色ではなかった。陽光を受けたプリズムが壁に映し出す光の帯のように、赤、青、黄、緑……あらゆる色が混じり合い、溶け合い、それでいて一つ一つの色が確かに存在する、透明に限りなく近い「虹色の澱」だった。

綺麗だ、と彼は思った。

彼の色が見えなかったのは、後悔がなかったからではない。他人の色に気を取られ、自分自身の無数の感情のグラデーションから、ただ目を背けてきたからだ。傍観者であり続けたこと。自分の人生の主役になることを恐れたこと。その数えきれない後悔の一つ一つが、光の粒となって混ざり合い、この虹色を作り上げていたのだ。

湊は、初めて自分自身の澱を受け入れた。それは紛れもなく、彼が生きてきた証だった。痛みであり、弱さであり、そして、これからどう生きるべきかを示す道標でもあった。

古書店の窓から差し込む西日が、店内の浮遊する埃を黄金色に照らし出していた。その一粒一粒が、まるで誰かの小さな後悔の色のようにも見えた。明日からは、訪れる客の澱をただ眺めるのはやめよう。その色の奥にある、声にならない物語に、少しだけ耳を傾けてみよう。そう思った瞬間、湊には、世界がほんの少しだけ、色鮮やかに見え始めた気がした。

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