君が忘れた感情の行方

君が忘れた感情の行方

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第一章 色褪せたセンチメント

僕が通う私立響鳴館学園には、一つの奇妙で絶対的な校則が存在する。卒業生は、三年間で育んだ最も強く、最も純粋な「感情」を一つだけ、学校に寄贈しなければならない、というものだ。

寄贈された感情は、中庭に佇む『共鳴の泉』と呼ばれる場所に捧げられる。泉の水は常に淡い虹色に揺らめき、捧げられた感情の質と量によって、その輝きを変えると言われていた。卒業式のクライマックス、生徒一人ひとりが泉の前に立ち、胸に手を当てて念じる。すると、目に見えない何かが魂から引き抜かれ、水面に美しい波紋を描いて溶けていくのだ。それは神聖な儀式として、僕たちの学園生活の終着点に設定されていた。

だが、僕、水上湊にとって、それは馬鹿げた茶番にしか思えなかった。感情なんて、不確かで、非合理的で、人間の判断を誤らせるノイズだ。そんなものを、なぜわざわざ切り取って捧げなければならないのか。

卒業を三ヶ月後に控えた冬の日、僕は冷たい窓ガラスに額をつけ、白く染まったグラウンドを無感動に眺めていた。教室の喧騒が、分厚い膜を隔てた向こう側のように遠く聞こえる。僕には、寄贈できるような大層な感情など、持ち合わせていなかった。喜びも、悲しみも、怒りも、僕の中では常に低い温度を保ち、燃え上がることなく燻っているだけだ。

「水上くんは、もう決めた? 寄贈する感情」

背後から掛けられた声は、この灰色の世界で唯一、原色の彩度を持つかのように鮮やかだった。日向葵。彼女はいつも太陽のような笑顔を浮かべ、その感情の豊かさを隠そうともしない。僕とは正反対の人間だ。

「興味ない」僕は振り返らずに答えた。

「またまたー。みんな、この時期はその話で持ちきりだよ? 私はね、『期待』にしようって思ってるんだ」

「期待?」

「うん。この学校で過ごす未来の後輩たちが、たくさんの素敵なことに出会えますように、って。そういう『期待』を泉に捧げたいの」

彼女の言葉は、一点の曇りもない善意で満ちていた。だからこそ、僕には眩しすぎた。その純粋さが、僕の空虚さを容赦なく抉り出す。

「くだらない。感情はシステムの部品じゃない」

「部品なんかじゃないよ。贈り物だよ。私たちがここにいたっていう、証みたいなもの」

葵はそう言って、僕の隣に並び、窓の外を眺めた。彼女の吐く息が、ガラスを白く曇らせる。その小さな白の中に、僕には見えない未来が映っているような気がして、僕は居心地の悪さから目を逸らした。この時、僕はまだ知らなかった。僕の心を占めることになる、たった一つの感情が、この他愛ない会話から芽吹き始めていたことにも、その感情が僕たちを待ち受ける残酷な運命の引き金になることにも。

第二章 共鳴する心とシステムの瑕疵

「感情の寄贈」について、僕は自分なりに調べ始めた。くだらないと思いつつも、何もしないまま卒業式を迎えることへの漠然とした焦りがあったからだ。図書室の片隅、学園の歴史が記された古びた書庫で、僕はシステムの概要を見つけた。

寄贈された感情は、単なる儀式的な象徴ではなかった。それらはエネルギーに変換され、学園全体の環境維持に利用されていたのだ。「喜び」は校庭の花壇を彩り、「安らぎ」は図書室の静寂を保ち、「探求心」は実験室の機材の精度を高める。僕たちの学園が、常に理想的な教育環境を維持できているのは、卒業生たちが捧げてきた感情のおかげだった。

僕はそれを読んで、嫌悪感に眉をひそめた。やはり、これは搾取だ。人間の最も内密で神聖な部分を、歯車や潤滑油のように消費するシステム。僕の冷めた心は、ますます固く閉ざされていった。

そんな僕の態度を気にするでもなく、葵は頻繁に話しかけてきた。昼休みには屋上で一緒に弁当を食べ、放課後は他愛もない話をしながら帰る。彼女は僕の無愛想な返事をものともせず、自分が感じたこと、考えたことを、まるで歌うように語った。夕焼けの美しさ、新発売のアイスクリームの味、教科書に出てきた詩の一節に感動したこと。

彼女と過ごす時間が増えるにつれ、僕の中に奇妙な変化が起きていた。彼女が笑うと、僕の口元もわずかに緩む。彼女が何かに夢中になっている横顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。それは、あまりにも静かで穏やかな変化だったため、僕自身も気づかないほどだった。ただ、灰色の世界に、少しずつ色が差し込んできているような感覚があった。

「水上くんって、本当はすごく優しいよね」

ある雪の降る放課後、バス停で並んでいる時に、葵が不意に言った。

「どこが」

「だって、いつも私の話を最後まで聞いてくれる。つまらないって顔してるけど、ちゃんと聞いてくれてる。それに、私が寒いって言ったら、自分のマフラー貸してくれようとしたでしょ、この間」

「あれは…風邪をひかれると迷惑だからだ」

「ふふ、そういうところ」

葵は楽しそうに笑った。その笑顔が、粉雪の舞う薄暗い景色の中で、唯一の光源のように見えた。この時、僕の胸を占めていた感情に名前をつけるなら、それは「慈しみ」や「愛おしさ」といったものだったのかもしれない。だが、感情を分析することを避けてきた僕には、それを正確に捉えることができなかった。ただ、この時間が永遠に続けばいい、と柄にもなく思ったことだけは確かだった。

第三章 泉の底に沈む真実

卒業式を一週間後に控えた月曜日の朝、事件は起きた。日向葵が、自宅で倒れたのだ。原因不明のまま意識が戻らず、集中治療室に運ばれたという報せが、教室を凍りつかせた。

僕の世界から、音が消えた。色が消えた。彼女がいないだけで、教室はただの無機質な箱に戻り、窓の外の景色は色褪せた絵画になった。胸に巨大な穴が空き、そこから冷たい風が吹き込んでくる。授業の内容は一切、頭に入ってこない。ただ、葵の笑顔ばかりが脳裏に浮かんで消えた。

この時、僕は初めて、自分が抱えていた感情の正体と、その途方もない大きさに気づかされた。これは、喪失感。彼女を失うかもしれないという、耐え難い恐怖と痛み。そして、この痛みこそが、僕が彼女をどれほど大切に想っていたかの証明だった。

いてもたってもいられず、僕は学校を飛び出し、葵が入院している病院へ向かった。しかし、面会謝絶の札が冷たく僕を拒絶する。無力感に打ちひしがれ、病院の廊下で膝を抱えていると、ふと、ある考えが頭をよぎった。葵の倒れた原因は、本当に「不明」なのだろうか。あの『共鳴の泉』と、何か関係があるのではないか。

僕は学園へ引き返し、理事長室の扉を叩いた。響鳴館学園を創設した一族の末裔である老理事長は、僕の顔を見るなり、すべてを悟ったような静かな目で言った。

「日向葵くんのことかね」

理事長室の重厚な空気の中、衝撃の事実が語られた。この学園は元々、感情が希薄になった子供たちを救うための研究施設だったこと。そして、『共鳴の泉』のシステムには、致命的な欠陥があること。

「システムは、純粋で強大な感情を求める。特に、未来へ向けられたポジティブな感情は、最高のエネルギー源となる」

理事長の皺深い声が、静寂に染み渡る。

「しかし、時にシステムは暴走する。卒業を間近に控え、感情が最高潮に達した生徒の中から、最も純粋な資質を持つ者を標的とし、その生命エネルギーごと感情を吸い上げてしまうのだ。日向くんの『期待』は、あまりにも強く、美しすぎた…」

つまり、葵はシステムに生命力を奪われたのだ。僕の頭は真っ白になった。僕が非人間的だと唾棄したシステムが、僕の最も大切な人間を奪おうとしている。

「どうすれば…どうすれば葵は助かるんですか!」

僕は思わず叫んでいた。冷静さを保とうとする理性の壁が、ガラガラと崩れ落ちていく。

「システムを停止させるしかない。だが、それには泉の許容量を超えるほどの、強烈なエネルギーを叩き込む必要がある。それも、ポジティブなエネルギーとは逆の…破壊的な衝動を持つ感情を」

理事長は、僕の目をじっと見つめた。その瞳の奥に、深い哀れみと、わずかな希望の色が浮かんでいるように見えた。

第四章 君に捧ぐ、ただ一つの喪失

卒業式当日。体育館には厳かな音楽が流れ、生徒たちの未来を祝福する言葉が並べられていた。しかし、僕の耳には何も届いていなかった。僕の席の隣、葵の席は空いたままだ。その空席が、僕の決意を固めさせた。

式が進行し、いよいよ「感情の寄贈」の儀式が始まった。卒業生が一人ずつ名前を呼ばれ、中庭の『共鳴の泉』へと向かう。僕は自分の番が来るのを、ただ静かに待った。

やがて、「水上湊」と僕の名前が呼ばれる。僕はゆっくりと立ち上がり、壇上を横切り、中庭へと続く扉を開けた。冷たい空気が肌を刺す。目の前には、虹色に輝く泉があった。かつては美しく見えたその輝きが、今は葵を蝕む寄生虫のようにおぞましく見えた。

僕は泉の前に立った。本来なら、ここで胸に手を当て、自分の感情を一つ選んで捧げる。だが、僕が捧げるものは、もう決まっていた。

それは「喜び」でも「希望」でもない。「愛」ですらない。僕がこの三年間で、そしてこの一週間で、最も強く、最も鮮烈に感じた感情。日向葵を失うかもしれないという、この身を引き裂くような痛み。

――「喪失感」。

これこそが、僕が彼女に対して抱いた、最も純粋で、偽りのない感情だった。皮肉なことに、感情を否定し続けてきた僕が、最後に辿り着いたのは、あらゆる感情の中で最も辛く、切ないものだった。

僕は目を閉じ、葵の笑顔を思い浮かべた。彼女と過ごした日々の断片が、走馬灯のように駆け巡る。そして、その全てが失われるかもしれないという絶望を、心の底から掬い上げた。

「――捧げる」

僕がそう念じた瞬間、体の中から何かがごっそりと引き抜かれる感覚に襲われた。それは、魂の一部が剥がれ落ちるような、激しい痛みだった。

僕の感情を受け取った泉は、虹色の輝きを失い、一瞬にしてインクを垂らしたようにどす黒く濁った。ゴポゴポと不気味な音を立てて泡立ち、水面から黒い霧が立ち上る。それと同時に、学園中を包んでいた穏やかな空気が一変した。校庭の花は急速に色を失って枯れ、校舎の窓ガラスにはピシリとヒビが入った。卒業生たちが捧げてきた善意の感情で維持されていたシステムが、僕のたった一つの強烈な負の感情によって、完全に破壊されたのだ。

泉は、やがてただの静かな水たまりになった。僕は、胸に空いた大きな空洞を感じながら、その場に立ち尽くしていた。何かを失った。だが、後悔はなかった。

その時、僕のスマートフォンが震えた。葵の母親からだった。

『湊くん…! たった今、葵が…葵が、目を覚ましたの…!』

電話口で泣きじゃくる声を聞きながら、僕は空を見上げた。厚い雲に覆われていた空から、一筋の光が差し込んでいた。

僕は「喪失感」という感情を捧げた。その感情を、僕はもう二度と感じることはないのかもしれない。だが、空っぽになった心は、不思議と軽かった。これからは、自分の力で、新しい感情を一つひとつ見つけていけばいい。葵が教えてくれたように。

感情を一つ失った僕と、記憶の一部が曖昧になった君。僕たちの新しい物語は、きっと、この壊れた泉のほとりから始まるのだろう。

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