忘却の檻、偽りの空
第一章 空白の隣席と銀色の熱
朝、目覚めた瞬間に感じるのは「欠落」だ。
頭蓋の内側をスプーンでひと掬い抉り取られたような喪失感。昨夜食べた夕食の味か、あるいは母親の顔の皺の数か。自分が何を失ったのかさえ分からないまま、僕は枕元の分厚いノートを掴む。
『名前は霧野悠真。高校二年生。能力は記憶改変。代償は自己の記憶喪失』
自分の筆跡で記された事実(ファクト)を網膜に焼き付け、僕は僕という輪郭を無理やり繋ぎ止める。
カーテンを開ける。眼下に広がる学園都市は、今日も作り物めいた極彩色に満ちていた。
空の色は絵の具をぶちまけたような不自然なスカイブルー。登校する生徒たちの笑い声にはノイズが一切なく、まるで録音されたトラックを再生しているかのように均一だ。
昨日は年に一度の「記憶の収穫祭」。住民から不要な悲しみを徴収し、システムが調整した「幸福」を配給する日だ。だから誰もが、貼り付けたような笑顔で舗道を歩いている。誰と喧嘩し、誰を憎んでいたか、そんな人間らしい凹凸はすべて削ぎ落とされ、ツルツルとした幸福のマネキンになり果てている。
教室に入ると、吐き気がするほどの平和な空気が充満していた。
僕は窓際の後ろから二番目の席に座り、いつものように後ろを振り返る。
そこに、ぽっかりと「穴」が開いていた。
一番後ろの席。机も椅子もそこにある。だが、あまりにも綺麗すぎるのだ。指紋ひとつ、埃ひとつない。まるで最初から誰も座る予定などなかった展示品のように、そこだけ空気が死んでいる。
「……なあ」
前の席の男子の肩を突く。彼は昨日の収穫祭で何を吸い取られたのか、薄気味悪いほど晴れやかな顔でこちらを向いた。
「一番後ろの席、誰か座ってなかったか? ほら、いつも授業中に寝てた……」
「は? 何言ってんだよ霧野。そこは予備席だろ。入学してからずっと誰も座ってないよ」
男子の瞳はガラス玉のように透き通っていた。疑う余地すらない、純度一〇〇パーセントの無知。
背筋に冷たいものが走る。
違う。座っていた。確かにそこにいた。
僕が恐怖で過呼吸を起こし、自分の名前すら思い出せなくなってうずくまった時、背中をさすってくれた掌の温度。ミントガムと消毒液が混ざったような匂い。
『息を吐け、悠真。吸うな、吐くんだ。俺が覚えててやるから、お前は空っぽになってもいい』
そう言って笑った、皮肉屋で、優しくて、僕の唯一の「錨」だった少年。
神崎朔(かんざき さく)。
慌ててノートをめくる。だが、どこにも彼の名前はない。
震える手で胸元を掴む。制服の下、銀色のペンダントが肌を焦がすほどの熱を発していた。
翼を半分もいだような、歪な形の銀細工。
――悠真、世界が全部お前に嘘をついても、こいつの熱だけは信じろ。
記憶の底で、朔の声が響く。
教室を見渡す。教師も、生徒も、誰も彼を見ていない。まるで「神崎朔」というテクスチャが、この世界のデータから削除されたかのように。
収穫祭は記憶を「間引く」イベントだ。存在そのものを「なかったこと」にするなんて芸当、ただのメンテナンスで起こるはずがない。
これは異常だ。
あるいは、僕の能力が暴走したのか? 僕が無意識に「朔のいない世界」を望んで改変してしまったのか?
いや、それなら僕も忘れているはずだ。僕が覚えているということは、これは僕の仕業じゃない。
ジリ、とペンダントが皮膚を焼く。
痛みに顔をしかめた瞬間、脳裏にノイズが走った。
暗い水音。鉄の錆びた匂い。そして、朔の苦悶の表情。
『忘れられた塔……最上階……』
途切れ途切れの思念。助けを呼ぶ声ではない。それは「来るな」という拒絶と、「会いたい」という渇望が混ざり合った、矛盾する魂の悲鳴だった。
僕は椅子を蹴倒して立ち上がった。
「おい、霧野?」
誰かの制止を振り切り、僕は教室を飛び出す。
この都市の禁忌である、北の森の奥。「忘れられた塔」。
恐怖で足がすくむ。行けば、また僕は記憶を失うかもしれない。今度は何を忘れる? 言葉か? 歩き方か?
それでも、あの冷たい手で背中をさすってくれた朔を、このまま世界から消滅させるわけにはいかなかった。
第二章 汚泥に沈む参道
都市の北端。鬱蒼とした原生林の入り口には、重厚なフェンスと検問所が聳え立っていた。
警備員が二人、自動小銃を提げて立っている。彼らの目には感情がない。システムに飼い慣らされた番犬の目だ。
僕は森の茂みに身を隠し、荒くなる呼吸を整えた。
正面突破しかない。僕の能力、「記憶改変」を使う。
対象の脳内にある事実を書き換える力。だが、それは等価交換だ。他人の脳をいじれば、僕の脳の一部がランダムに焼き切れる。
怖い。
自分の過去が、積み上げてきた日々が、砂のように崩れ落ちる感覚。あれに慣れることなんて一生ない。
だが、ペンダントの熱が僕を急き立てる。
僕は震える足を踏み出し、警備員の前に姿を現した。
「止まれ。ここは立ち入り禁止区域だ」
銃口が向けられる。その冷たい黒目を見据え、僕は能力を発動した。
イメージする。彼らの脳髄にある「通行許可リスト」。そこに僕の顔写真を、焼印のように押し付ける。
――書き換えろ。僕は「特別監査官」だ。
脳の奥でバチッ、と何かがショートする音がした。
激痛。
視界が白く明滅し、代わりに僕の中の「何か」が引き抜かれる。
夕暮れのキッチン。包丁の音。味噌汁の匂い。「おかえり」という優しい声。
ああ、母さん。
母さんの顔が、溶けていく。どんな目をして笑う人だった? 声のトーンは? 温かさは?
必死に手を伸ばしても、その記憶は黒いインクを垂らしたように塗りつぶされ、二度と戻らない「情報」へと劣化していく。
膝から崩れ落ちそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
「……失礼しました、監査官殿。どうぞお通りください」
警備員が敬礼し、ゲートが開く。
僕は礼も言わず、よろめきながらゲートを潜った。頬を伝う涙が、悔しいほど熱い。
母さんの顔と引き換えに手に入れた、たった数メートルの前進。
朔、お前にはそれだけの価値があるんだよな? そうでなきゃ、僕は自分が許せない。
森の中は、都市の「排泄物」で満ちていた。
木々の幹には、ヘドロのような黒い染みがこびりついている。
耳を澄ますと、風の音に混じって、無数の怨嗟が聞こえてきた。
『死にたくない』『あの子を返して』『許さない』
これらは、都市の幸福を維持するために切り捨てられた「負の記憶」だ。システムが住民から剥ぎ取った悲しみが、行き場を失ってこの森に滞留している。
足元に絡みつく蔦が、誰かの未練に見えて寒気がした。
ペンダントが導く先、木々の隙間から、巨大な灰色の塔が見えてくる。
その塔は、周囲の空間を歪ませるほどの圧力を放っていた。
近づくにつれ、頭痛が激しくなる。
幻覚が見える。
隣を歩く朔の姿。
『悠真、帰ろうぜ。新作のゲーム買ったんだ』
振り返れば誰もいない。
『お前は本当、危なっかしいな』
幻聴が鼓膜を叩く。
ここは記憶の墓場であり、迷宮だ。自分の記憶すら不確かな僕にとって、ここは猛毒の沼に等しい。
それでも、僕は走った。
自分が誰か分からなくなる前に。朔の名前を忘れてしまう前に。
第三章 忘却の塔、犠牲のフィルター
塔の最上階。重厚な扉をこじ開けた先には、地獄のような光景が広がっていた。
天井のないドーム状の空間。その中央に、巨大なガラスのシリンダーが鎮座している。
シリンダーの中は液体で満たされていた。透明な水ではない。人々の負の感情が凝縮された、どす黒い汚泥だ。
その汚泥の中心に、彼がいた。
「……朔!」
無数のチューブを全身に突き刺され、磔にされた神崎朔。
汚泥はチューブを通って朔の肉体へと注ぎ込まれている。彼の体内で濾過された泥は、淡い金色の光――「幸福な記憶」へと変換され、塔の頂上から都市へと放出されていた。
彼は人間フィルターだった。
都市のすべての不幸を飲み込み、幸福という名の排泄物を垂れ流すための部品。
僕は悲鳴を上げて駆け寄った。ガラスを叩く。
「朔! おい、起きろ!」
分厚いガラスの向こうで、朔が薄く目を開けた。
その瞳は焦点が合っていない。苦痛に歪んだ顔。口元からは絶えず気泡が漏れている。
『……悠真?』
直接、脳内に響く声。ペンダントが共鳴している。
『馬鹿だな……来たら、戻れなくなるぞ』
「ふざけるな! なんだよこれ、どういうことだよ!」
『見ての通りさ。都市のシステムが壊れかけてた。誰かが……負の感情を一身に引き受ける「器」にならなきゃ、みんな狂っちまう』
朔の声は、諦観に満ちていた。
『お前の能力……記憶改変は、この世界のバグだ。お前が使うたびに生じる世界の矛盾、それを裏で処理してたのも僕だ。……でも、もう限界だった』
心臓が早鐘を打つ。
僕のせい? 僕がノート片手に自分の記憶を弄び、気楽に生きていたツケを、朔が払っていたというのか。
『僕が存在ごと消えれば、都市は安定する。悠真、お前も……普通の高校生に戻れるんだ』
汚泥が朔の喉元まで迫っている。彼の体が痙攣した。黒い泥が彼を侵食し、咀嚼している。
彼は今この瞬間も、何万人分もの「絶望」を味わわされているのだ。
「嫌だ……そんなの嫌だ!」
僕は泣き叫びながらガラスに手を押し付けた。
能力を使う。このガラスを「存在しないもの」に書き換える。
『やめろ!』
朔の絶叫が脳を揺らした。
『ここを開ければ、溜め込んだ「呪い」が逆流する! お前だけじゃない、都市中の人間が発狂して死ぬぞ!』
「知るかよ! お前がいない世界なんて、守る価値があるもんか!」
僕は構わず意識を集中させた。代償なんてどうでもいい。僕の記憶が全部消えて廃人になっても、朔だけはここから引きずり出す。
ガラスに亀裂が走る。
ピキ、ピキピキと音が広がる。
その時、朔が悲しげに微笑んだ。
『……分からず屋』
彼は、拘束された手の中で、何とか指を動かした。
ガラス越しに、僕の掌と、彼の手が重なる。
冷たい。ガラス越しの熱など伝わるはずがないのに、僕の手は朔の体温を思い出していた。
第四章 刻印された選択
時間が凍りついたようだった。
目の前には、世界のために生贄となった親友。
背後には、何も知らずに偽りの平和を享受する都市。
ガラスを割れば、世界は終わる。割らなければ、朔は永遠に苦しみ続ける。
究極の二択。いや、選択肢など最初からなかった。
朔は、僕に生きていてほしいと願った。そのために自らをこの地獄に捧げた。
僕が世界を壊せば、朔の覚悟も、犠牲も、すべて無駄になる。
けれど、このまま彼を見殺しにして、のうのうと生きていけるか?
『悠真』
朔の声が、優しく響く。
『選択肢は、もう一つある』
彼は水槽の中で、首元のペンダントを揺らした。
『僕の存在を、お前の記憶から完全に消すんだ。能力を使って、「神崎朔」というノイズをお前の世界から排除しろ』
「……は?」
『僕との思い出も、僕の名前も、この場所のことも。すべて忘れれば、お前は苦しまない。システムも安定する』
なんて残酷な提案だ。
それは、僕の手で朔を殺すことと同じじゃないか。僕の中で彼を殺し、二度と思い出せないように墓石を置く。
「できるわけ……ないだろ! 忘れたくないんだ! 辛くても、痛くても、お前を覚えていたいんだよ!」
『甘えるな、霧野悠真!』
朔が初めて、僕を怒鳴りつけた。
『お前が僕を覚えている限り、僕とお前の間の「絆」がパイプになって、お前にまで汚泥が流れ込む! お前が壊れちまうんだよ!』
朔の目から、涙が溢れ、汚泥に混じって消えていく。
『頼むから……僕に、お前を守らせてくれよ』
その言葉が、鋭利な刃物のように僕の胸を抉った。
彼は知っているのだ。僕がどれほど弱く、脆い人間かを。だからこそ、彼は最期まで僕の「保護者」であろうとしている。
僕はガラスに額を押し付けた。嗚咽が止まらない。
助ける方法は一つだけ。
彼の願いを叶えること。彼を、僕の記憶という檻から解放してやること。
それは、僕という人間の一部を、永遠に切り落とす行為だ。
「……朔」
僕は涙で潤んだ目で、親友の顔を焼き付けた。
意地悪な笑みも、呆れた顔も、この泣きそうな笑顔も。
あと数秒で、すべて消える。
「お前は、本当にすげえ奴だよ」
『知ってる』
朔が笑った。
「……さよならだ」
僕は能力を最大出力で解放する。
対象は僕自身の脳。キーワードは「神崎朔」。
彼に関するすべての記憶ニューロンを、焼き切る。
激しい光が視界を覆う。
脳が沸騰するような熱さ。
教室の風景。放課後の屋上。くだらない会話。テスト勉強。喧嘩して仲直りした日の缶ジュースの冷たさ。
それら一枚一枚の写真を、火の中に放り込んでいく感覚。
朔の輪郭が、光の中で崩れていく。
最後に聞こえたのは、
『ありがとう』
という、とても小さな、満足げな声だった。
そして、僕の世界はホワイトアウトした。
最終章 名もなき傷痕
放課後のチャイムが、気怠げに鳴り響いていた。
西日が差し込む教室は、茜色と影のコントラストで二分されている。
「おい霧野、帰らないのか?」
クラスメイトの声に、僕はふと顔を上げた。
「ああ……ちょっと、ここのノートまとめてから帰る」
「お前、また記憶飛んだのか? あんまり無理すんなよ」
「大丈夫だよ。いつものことさ」
友人が手を振って教室を出て行く。
静寂が戻った教室に、僕一人。
僕は手元の分厚いノートを見つめていた。
相変わらず、僕の記憶は穴だらけだ。今日一日、何があったのかも曖昧だ。ただ、何かとても大きなことを成し遂げたような、あるいは取り返しのつかない失敗をしたような、奇妙な疲労感だけが残っている。
パラパラとノートをめくる。
最後のページ。そこは白紙のはずだった。
だが、ページの隅に、小さな落書きがあった。
下手くそな、翼の折れた鳥のような絵。
僕が描いた覚えはない。
鉛筆の跡が強く残るほど、筆圧高く描かれたそれは、まるで誰かの叫びのようだ。
指先でその線をなぞる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
胸の奥、もっと深い場所。魂のいちばん柔らかい部分を、見えない棘で刺されたような鋭い痛み。
「……うっ」
不意に、視界が滲んだ。
涙だ。
どうして? 悲しいことなんて、何ひとつなかったはずなのに。
今日は天気が良くて、授業も退屈で、平和な一日だったはずなのに。
胸元で、何かが微かに熱を持っている。
シャツの下から引っ張り出すと、歪な形をした銀色のペンダントが出てきた。
いつから持っていたっけ。誰にもらったんだっけ。
何も思い出せない。
なのに、この銀色の冷たさを握りしめると、誰かに「大丈夫だ」と背中をさすられているような、不思議な安堵感に包まれた。
そして同時に、体の一部をもがれたような、耐え難い飢餓感が襲ってくる。
ここに、誰かがいた気がする。
僕の隣に。この空席に。
でも、そこにはただ、夕日に照らされた埃ひとつない机があるだけだ。
「……なんだよ、これ」
涙がノートに落ち、落書きの鳥を濡らして滲ませた。
拭っても拭っても、涙が止まらない。
僕は、僕にとって一番大切な何かを、ここに置いてきたのだ。
名前も、顔も、声も分からない「誰か」。
その空洞(あな)だけが、僕が生きていく上で抱え続ける、消えない傷痕だった。
僕は震える手でシャーペンを握り、滲んだ落書きの横に、無意識のうちに言葉を書き添えていた。
なぜそう書いたのか、自分でも分からない。
『忘れない』
その文字は、僕の意思を超えて、祈りのように紙面に刻まれた。
窓の外では、今日も嘘のように美しい夕焼けが、完璧に整備されたこの街を優しく、残酷なほど綺麗に照らしていた。