時の彼方、名もなき座標
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時の彼方、名もなき座標

第一章 雨と砂と、歪んだ格子

雨粒が、空中で凍りついたように見えた。

時雨の瞳には、この世界が色彩豊かな風景画としては映らない。

空から降り注ぐ無数の雫は、天と地を結ぶ幾何学的な直線の集合体だ。風が吹けば線は撓み、瓦屋根に当たれば放物線を描いて飛散する。すべての事象は、彼にとって解読可能な数式であり、予測可能な軌道を持つ「理(ことわり)」の連鎖だった。

だが、その整然とした格子の世界に、あからさまな傷があった。

破れた番傘を傾け、ぬかるんだ都の大路を行く。浪人の身なりをした時雨の視線は、往来の人々ではなく、その背後に潜む空間の歪みに注がれている。

「……経緯(たてぬき)の乱れ、修正不能」

低く呟き、彼は足を止めた。

目の前の空気が、熱せられた陽炎のように揺らぎ、ねじれている。そこにあるはずの時間軸が、澱んだ水のように淀み、腐臭を放っていた。

その淀みの中心に、一人の老人がうずくまっていた。

「あ……あぁ、指が……わしの指が……」

老人の絶叫は、乾いた音を立てて途切れた。

彼の右腕は、枯れ木のようにひび割れ、皮膚が剥がれ落ちると同時に、さらさらとした灰色の砂へと変貌していく。肉が、骨が、存在そのものが、時間という風化作用によって急速に削り取られていく。

都を蝕む奇病、「朽ち葉病」。

「ひっ、来るな!」

「砂が飛んでくるぞ! 逃げろ!」

周囲の人々が蜘蛛の子を散らすように後退る。彼らの顔に張り付いているのは、感染への恐怖ではない。目の前で人間が「無」へと還元されていく、根源的な虚無への怖気だ。

「どいて! 道を空けてください!」

泥を跳ね上げ、人垣を割って飛び込んできた影があった。

巫女装束の少女だった。白衣は薄汚れ、袴の裾は破れているが、その瞳だけが異様に燃えている。

彼女が駆け寄ると、群衆の恐怖は一瞬で粘着質な敵意へと変質した。

「未来巫女だ……!」

「疫病神め! お前が不吉な未来を視るから、こんな災いが起きるんだ!」

石礫が飛んだ。鋭利な石が少女の頬を掠め、赤い筋を作る。

それでも少女――篝は、怯むことなく老人の残った左肩を抱きしめた。

「違います……私はただ、この方を……」

「黙れ! お前の眼には絶望しか映らんのだろう! 見るな! 俺たちの未来を見るな!」

罵声の雨が彼女を打つ。篝は唇を血が滲むほど噛み締め、涙を堪えて祝詞を紡ごうとした。震える指先で印を結び、老人の崩壊を止めようとする。

だが、時雨の眼には見えていた。

彼女が祈りを捧げようとした瞬間、周囲の空間座標が赤黒い警告色を発して軋み始めたのを。

彼女の干渉は、解けかけた織物を無理に引っ張るようなものだ。糸は切れ、ほころびは広がる。

「やめろ」

思考するよりも早く、時雨の身体は最適解の軌道を描いて移動していた。

踏み込み、滑るように間合いを詰め、篝の手首を掴む。

「っ! 放して! このままじゃこの人が……!」

「お前が祈れば、その反動で彼は三秒早く塵になる。場の理が耐えきれない」

時雨の声は、雨音よりも冷たく、硬質だった。

篝がハッとして見上げる。

至近距離で交錯する視線。彼女の瞳の奥で揺れるのは、恐怖、焦燥、そして誰にも理解されない深い孤独の色だった。

その瞳を見た瞬間、時雨の胸中でチリリとノイズが走った。

計算式にはない、不確定な変数。数値化できない「痛み」のようなものが、彼の整然とした視界を一瞬だけぼやけさせた。

「……どうすれば、いいのですか」

「何もしないことだ。何もしないことが、今の彼に許された唯一の遅延だ」

時雨は残酷な事実を告げた。

その言葉を証明するように、老人の崩壊速度はわずかに緩んだ。だが、止まらない。

「あ……あり、が、と……」

老人は最期に、篝に向かって微かに微笑もうとした。だが、その表情筋さえも砂となって崩れ落ち、着物だけをその場に残して、彼は風に溶けた。

あとには、ざらついた砂塵の山と、やり場のない沈黙だけが残された。

「……人殺し」

群衆の誰かが吐き捨てた。

その言葉は篝に向けられたものだったが、ただ傍観し、崩壊の時間を計測することしかできなかった時雨の胸にも、棘となって突き刺さった。

時雨は懐から、真鍮製の古びた懐中時計を取り出した。

蓋を開ける。そこには文字盤と共に、緻密な日本地図が刻まれている。針は狂ったように回転し、やがてピタリと北西の方角を指し示した。

「時間の澱みが、限界を超えようとしている」

時雨は、罵倒を浴びながらもじっと立ち尽くす篝の背中を見つめた。小さく震えるその肩は、彼自身の内にある空洞と重なって見えた。

計算外の行動だった。

彼は番傘を、濡れそぼる彼女の頭上へと差し出した。

「……来るか。死にたくなければ」

言葉足らずな誘い。だが、雨を遮るその小さな空間だけが、世界で唯一の安全地帯のように思えた。

篝は縋るように時雨を見つめ、小さく頷いた。

第二章 忘却の断層

都外れ、朽ちた荒れ寺。

屋根の隙間から雨漏りの音が規則的に響く本堂で、時雨は無言のまま「絡繰りの懐中時計」を分解していた。

ピンセットの先で極小の歯車をつまみ上げ、光に透かす。

「……噛み合わない」

時雨は独り言のように呟いた。

焚き火に当たっていた篝が、不安げに顔を上げる。

「時計、壊れているのですか?」

「いや、時計は正確だ。狂っているのは世界の方だ」

時雨は歯車の一つを篝の目の前に差し出した。

「見てみろ。この歯車の溝、ミクロン単位で磨耗しているわけじゃない。縮んでいるんだ」

「縮んで……?」

「俺たちが感じている一秒と、世界が刻む一秒の長さがズレ始めている。歯車をどれだけ精巧に直しても、この空間そのものが歪んでいるから、決して噛み合わない」

時雨は苛立ちを隠すように、乱暴にピンセットを置いた。

カチリ、と乾いた音。

その音さえも、どこか間延びして聞こえる。

「私のせいです」

篝が膝を抱え、小さく身を縮めた。炎に照らされた横顔に、深い陰影が落ちる。

「私の眼が、不吉な未来を引き寄せるから。私たちが『見て』しまったから、世界は呪われたんです」

「……違う」

時雨は否定した。

彼は焚き火の爆ぜる音を聞きながら、言葉を選んだ。彼にとって言葉は、数式よりも扱いづらいツールだった。

「お前たちは、川の上流にある岩を見つけただけだ。岩があるから川が淀むのであって、お前たちが見たから岩が出現したわけじゃない」

「でも、みんなは……」

「人は、理解できない現象を『恐怖』という名の箱に押し込める。そうすれば、思考を停止できるからな」

時雨は手元の部品を布の上に並べた。

「俺の眼には見える。この世界の『時』の流れが、未来へ向かわずに滞留し、腐敗しているのが。原因は未来じゃない。過去だ」

「過去……?」

「ああ。行き場を失った過去の時間が、逆流して現在を侵食している。朽ち葉病で人が砂になるのは、過去という質量に現在の肉体が押し潰されているからだ」

篝は息を呑んだ。

「そんな……じゃあ、どうすれば……」

彼女の身体が震え出した。雨に濡れた衣服が冷え、体温を奪っているのだ。

時雨はふと、自分の行動に迷いが生じた。

普段なら、他者の体温低下など「環境変数」の一つとして処理するだけだ。だが、目の前の少女の震えは、なぜか看過できないエラーとして彼の意識を占拠した。

(……効率が悪い)

心の中で言い訳をしながら、時雨は羽織っていた上衣を脱いだ。

どう渡すべきか一瞬逡巡し、結局、無骨に彼女の頭からバサリと被せた。

「え?」

「震えていると、視界のノイズになる」

素っ気ない言葉とは裏腹に、時雨の手が誤って彼女の冷えた指先に触れた。

氷のように冷たい。

だが、そこには確かに「生」の脈動があった。

時雨は弾かれたように手を引っ込めた。指先に残った微かな熱が、彼自身の凍りついた内面を溶かしていくような錯覚に陥る。

「……温かい」

篝は羽織をきゅっと掴み、時雨を見上げた。その瞳が潤み、焚き火の朱色を映して揺れている。

「時雨さんは、どうして私を助けてくれたのですか? あなたには、何の得もないのに」

「……俺はこの世界の『形』が歪んでいるのが気に食わないだけだ」

嘘だった。

本当は、この荒廃した世界で、彼女だけが同じ「孤独」という座標軸の上に立っていると感じたからだ。

時雨は視線を逸らし、時計を組み上げた。蓋を閉じる音が、決意の銃声のように響く。

「行くぞ。この時計が、すべての元凶――『時の絡繰り箱』の残骸がある場所を示している」

針は、地図上の存在しない空白地帯を、狂ったように指し続けていた。

第三章 時間の墓標

地図から消された場所。そこは、時間の墓場だった。

かつて神殿だったと思われる石造りの建造物は、風化した肋骨のように空を突き刺している。

周囲の風景は灰色一色だ。草木は枯れ果て、触れれば崩れる灰の彫像と化している。ここでは「現在」という時間が完全に死滅していた。

「ここが……」

篝が口元を押さえる。

空間の中央に、巨大な亀裂が走っていた。

まるで世界のキャンバスがカッターナイフで切り裂かれたかのような、黒い裂け目。そこから、どす黒い泥のような「過去」がドロドロと溢れ出し、大地を侵食している。

その裂け目の中心に、砕け散った『時の絡繰り箱』の残骸が浮いていた。

「ひどい……。これじゃあ、もう修復なんて……」

「物理的な修復は不可能だ。器そのものが破裂している」

時雨は冷静に断言した。

彼の視界は、すでに極限まで研ぎ澄まされていた。

風景は消え去り、無数の数式と幾何学的なライン、そして崩壊へと向かう深紅のベクトルだけが見える。

この亀裂を放置すれば、都だけでなく、世界そのものが砂上の楼閣のように崩れ去る。

未来への道は、溢れ出した過去の泥濘(ぬかるみ)によって完全に閉ざされていた。

「止めるには、この亀裂を塞ぐしかない」

「どうやって? 祈りも通じないのに!」

「『楔(くさび)』を打つ」

時雨は静かに言った。

「強固な『現在』の質量を持つ存在を、この亀裂にねじ込み、溢れ出る時間をせき止める。そして、歪んだ座標を強制的に縫い合わせる」

篝は時雨の顔を見た。

彼の横顔は、いつものように無表情で、冷徹な計算機のように見えた。だが、その瞳の奥には、見たこともないほど澄んだ、静謐な光が宿っていた。

「そんなことができるものが、あるのですか?」

時雨は、懐中時計を篝の手のひらに押し付けた。

「……持っていてくれ」

「え?」

「これは、俺のアンカー(錨)だ。これがお前の手にある限り、俺の座標はロストしない……たぶんな」

時雨は腰の刀を抜き放った。だが、切っ先は敵ではなく、空間の亀裂――時間の噴出孔に向けられている。

「篝」

初めて、彼は彼女の名を呼んだ。

「未来を恐れるな。お前たちが視ていた絶望は、確定した運命じゃない。単なる可能性の残骸だ」

「時雨さん……?」

篝の胸に、心臓を鷲掴みにされるような嫌な予感が走った。

時雨の身体から、青白い燐光が立ち上り始めていた。

それは、彼の存在そのものが物質の枠を超え、純粋な「情報」と「エネルギー」へと還元され始めている証。

「俺の能力は、空間と時間の座標を読み解くことだ。だから分かる。この亀裂を埋めるのに必要な質量と、魂の強度が」

「まさか、あなた自身が……!?」

篝が叫び、彼に手を伸ばす。

だが、彼女の指先は、霞のように透け始めた時雨の腕をすり抜けた。

「待って! やめて! 行かないで!」

篝は半狂乱で叫んだ。やっと見つけた、たった一人の理解者。その温もりが、今まさに消えようとしている。

「私を置いていかないで!」

時雨は足を止めた。

その背中が一瞬、強張ったように見えた。

(……計算外だ)

時雨は奥歯を噛み締めた。

脳内の数式は、彼自身の消滅こそが唯一の解だと示している。それなのに、胸の奥が焼けつくように痛む。

彼女の声が、彼女の涙が、彼を現世に繋ぎ止める鎖となって絡みつく。

生きたい。

この不器用な少女と共に、ただの人間として、明日を迎えたい。

焚き火の側で感じたあの微かな熱を、もっと知りたい。

未練という名のエラーコードが、彼の思考回路を埋め尽くす。

だが、だからこそ――彼は行かねばならなかった。

彼がここで留まれば、彼女の未来が消える。

「……不器用ですまない。俺には、これ以外の『解』が見つけられなかった」

時雨は振り返った。

その顔には、涙も、悲壮な決意もなかった。ただ、困ったような、それでいてどこか誇らしげな、人間らしい苦笑いがあった。

「……未来を、生きてくれ」

時雨は地を蹴った。

その身体が光の粒子となり、一条の流星となって、黒い亀裂へと吸い込まれていく。

剣客としての肉体も、浪人としての記憶も、時雨という個人のすべてが、崩壊する世界を繋ぎ止めるための「接着剤」へと変換される。

「時雨さあああああん!!」

篝の絶叫は、光の奔流にかき消された。

亀裂から放たれた閃光が、世界を白く塗り潰していく。

ねじれた空間が、パズルのピースがはまるように、あるべき形へと戻っていく音がした。

世界は、修正された。

だが、その修正の代償として、一つの存在が「最初からいなかったこと」として、歴史の編み目から静かに解かれていった。

最終章 雨上がりの空白

ふと、風の匂いが変わった気がした。

気がつくと、篝は都の雑踏の中に立っていた。

見上げれば、雨上がりの空に鮮やかな虹が架かり、茜色の夕焼けが街を優しく染めている。

人々は笑顔で行き交い、どこからか威勢のいい売り声と、子供たちの笑い声が聞こえる。

「あれ……? 私、ここで何を……?」

篝は呆然と周囲を見回した。

先ほどまで、自分は暗い闇の中で、何かとても大切なものを守ろうとしていた気がする。喉が裂けるほど誰かの名前を叫んでいた気がする。

だが、思い出せない。

記憶の糸を手繰り寄せようとしても、指の間からさらさらとこぼれ落ちていく。まるで、夢の残滓のように。

「巫女様、どうなさいました?」

通りがかりの老婆が、親しげに声をかけてきた。

「あ……いいえ、なんでも……」

かつて彼女に向けられていた侮蔑の視線はない。誰も彼女を避けようとはしない。

世界は平和だ。穏やかな時間が、当たり前のように流れている。

ふと、篝は自分の右手が何か硬いものを握りしめていることに気づいた。

「……これ」

それは、真鍮製の古びた懐中時計だった。

ずしりと重い。金属特有の冷たさと、染み付いた油の匂い。

蓋を開ける。中には文字盤と、緻密な日本地図。

秒針が、カチ、カチ、と正確なリズムを刻んでいる。

なぜ、自分はこんなものを持っているのだろう?

父の形見ではない。母のものでもない。

誰か……誰か、とても不器用で、優しい人が、これを託してくれたような気がする。

「っ……」

胸の奥に、強烈な痛みが走った。

幻肢痛のような感覚。心臓の一部がごっそりと抉り取られたような、埋めようのない空洞がそこにあった。

名前も、顔も、声も思い出せない。

それなのに、この時計の秒針の音を聞いているだけで、涙が溢れて止まらない。

視界が滲み、夕焼けがぼやける。

「う……っ、あぁ……っ」

篝はその場に崩れ落ち、時計を胸に抱きしめた。

冷たい真鍮の感触が、肌を通して心臓に突き刺さる。

失ったものが何なのかすら分からないまま、彼女はただ、空っぽになった穴を埋めるように、子供のように泣きじゃくった。

その時計の針は、もう二度と、特定の座標を指し示すことはなかった。

ただ、絶え間なく進み続ける「未来」への時間を、淡々と、冷酷なまでに正確に刻み続けるだけだった。

世界は救われた。

一人の男が、その存在と引き換えに、誰にも知られることなく時の彼方へ消えたことなど、歴史書のどこにも記されない。

だが、雨上がりの空に一瞬だけ架かった虹のように。

彼の生きた証は、名もなき少女の流す涙の中にだけ溶け、永遠にその胸に残るのだった。

AIによる物語の考察

時雨は世界の理を数式で読み解く冷徹な存在だが、未来視の力ゆえに孤独な巫女・篝との出会いを経て、自身の中に計算外の「痛み」や「生きたい」という人間的な感情を見出す。篝もまた、時雨に初めて理解者としての希望を見出すが、その消滅に半狂乱となる。

「経緯の乱れ」や「狂った時計」は、世界の「時」の歪みを象徴。その原因が「行き場を失った過去の滞留」と明かされ、「時の絡繰り箱」の破裂が根本原因だ。時雨が篝に託す「アンカー」としての懐中時計は、彼の自己犠牲と、それでも篝との繋がりを求める心の表れであり、未来への布石となる。

物語は「理」と「感情」の対立と融合、そして「孤独」な二人が互いに「共鳴」し、絆を深める姿を描く。さらに、「未来は確定した絶望ではなく、選択によって変えられる可能性」というテーマが、時雨の自己犠牲という「楔」を通じて問いかけられる。彼の消滅は、世界を救う希望の「楔」となるのだろうか。
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