影写しの詩

影写しの詩

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第一章 影を売る姫

江戸の片隅、夕闇が藍色に溶け始める頃、俺の仕事場には明かりが一つだけ灯る。名は弦之助。影法師を生業としている。人の記憶を「影」として切り取り、特別な墨を漉き込んだ和紙「影写し紙(えいうつしがみ)」に封じ込める。それが俺の全てだ。客は様々。忘れたい過去を切り捨てに来る者、失った愛しい人の面影を永遠に留めたい者。俺はただ、淡々と影を切り、墨に写す。他人の人生の断片を扱ううちに、自分自身の物語はとうに色褪せてしまったかのように感じていた。

その夜、戸を叩く音は、いつもの客とは明らかに違っていた。絹の擦れる微かな音。戸を開けると、そこに立っていたのは、息を呑むほどに美しい、武家の姫君だった。年の頃は十六か七。上等な打掛に身を包み、夜の闇の中でもなお気品を放っている。供の老侍を一人だけ伴い、彼女は凛とした声で言った。

「あなたが、影法師の弦之助殿か」

俺は無言で頷く。

「願いがあって参った。私の記憶を、影にしてほしい」

よくある依頼だ。俺は「どなたの、どの記憶を」と事務的に問い返した。姫の細い眉が、わずかに曇る。

「……父が、殺された夜の記憶。他ならぬ、私自身の記憶を」

思わず、俺は姫の顔を見つめた。正気の沙汰とは思えなかった。人は辛い記憶を忘れたがるものだ。それをわざわざ形にして残したいなど。

「なぜ、そのようなことを」

「理由を話さねば、受けてはもらえぬか」

姫――小夜と名乗った彼女の瞳は、静かな湖面のようだった。だが、その底には計り知れないほどの澱みが揺らめいている。

「父は、藩主の座を巡る争いで暗殺された。一月前のこと。私はその場に居合わせた……はずなのだ。だが、恐ろしさのあまり、記憶が靄に包まれて定かではない。犯人の顔も、父の最期の言葉も、何もかもが朧げで……。このままでは、父上の無念を晴らすことなどできぬ」

老侍が深く頭を下げた。「どうか、姫様のお力に。報酬は、望むがままに」

望むがまま、か。金にも名誉にも興味はない。だが、小夜姫の瞳の奥にある深い闇が、俺の心を奇妙に揺さぶった。それは、俺が日々扱っている空虚な記憶の断片とは違う、生々しい痛みの色をしていた。

「……承知した。ただし、切り取った影は、俺がまず検めさせてもらう」

俺は、初めて自分の仕事に、わずかながら好奇心を抱いていた。この姫が求める記憶の影に、一体何が写っているのか。それを確かめずにはいられなかった。

第二章 朧月夜の残像

影を切り取る儀式は、弦之助の仕事場の奥にある、光の一切入らない蔵で行われる。床の中央に置かれた黒漆の水盤に、月光を映すための清水が張られている。弦之助は小夜姫を水盤の前に座らせ、彼女の額にそっと指を触れた。

「心を、空に。あの夜のことだけを、静かに思い浮かべてくだされ」

弦之助が呪に似た言葉を紡ぎ始めると、水盤の水面が微かに揺らめき始めた。小夜姫の閉じられた瞼が震え、浅い呼吸が繰り返される。やがて、水面に黒い影が滲み出し、ゆらゆらと形を結び始めた。混沌としたイメージの奔流。弦之助は神経を集中させ、その影を慎重に掬い取り、影写し紙の上へと滑らせる。墨がじわりと紙に染み込み、朧げな形が定着していく。

儀式を終えた小夜姫は、魂が抜け落ちたかのようにぐったりとしていた。老侍に支えられて帰っていく彼女の後ろ姿を見送り、弦之助は一人、蔵に残った。

影写し紙を灯りにかざす。そこに写っていたのは、悪夢そのものだった。

激しい剣戟の音。悲鳴。血飛沫の赤黒い染み。そして、覆面をつけた屈強な侍が、小夜姫の父である殿様を斬り伏せる瞬間。だが、全てが断片的で、肝心の犯人の顔は影に隠れて見えない。ただ、妙に気になる点があった。影の中から、まるで鈴が鳴るような、か細く澄んだ音が繰り返し聞こえてくるのだ。斬り合いの場にそぐわない、場違いな音。

それから数日、弦之助はその影に憑りつかれたように向き合った。何度も影を水盤に映しては、その夜を追体験する。影は単なる映像記録ではない。記憶の持ち主の感情や五感が、微かに宿っている。影を覗き込むたびに、小夜姫の絶望的な恐怖と、深い悲しみが津波のように弦之助の心を洗い、彼は自分のことのように胸を痛めた。

「弦之助殿、何か分かり申したか」

様子を見に来た老侍、内藤に、弦之助は首を振った。

「犯人の手がかりは掴めぬ。だが、この影には何か……何か腑に落ちないものが写り込んでいる」

内藤は深くため息をついた。「姫様はあの日以来、心を固く閉ざされておられる。真実を知ることだけが、姫様をあの悪夢から解き放つ唯一の道と信じております。どうか、よしなに」

その言葉に、弦之助は決意を固めた。もはやこれは単なる仕事ではない。あの湖面のような瞳の奥に渦巻く澱みを、俺の手で晴らしてやりたい。初めて抱く、強い感情だった。影法師としてではなく、一人の人間として、彼女を救いたいと願っていた。

彼は全ての神経を研ぎ澄まし、もう一度、影の最も深い場所へと意識を沈めていった。あの奇妙な鈴の音。その正体を突き止めるために。

第三章 二つの真実

執念ともいえる集中が、ついに影の新たな層をこじ開けた。覆面の男が刀を振り下ろす、まさにその瞬間。弦之助は意識を一点に絞り、男の細部に目を凝らした。覆面の隙間から覗く目元、刀を握る手の形、そして……腰に下げられた小さな根付。それは、精巧な細工が施された、銀の鈴だった。男が動くたびに、あの澄んだ音が鳴っていたのだ。

その根付に見覚えがあった。数日前、内藤が茶を運んできた時、彼の帯の間に同じものが揺れているのを見た。

まさか。血の気が引くのを感じた。忠義に厚く、姫を心から案じていたあの老侍が?

弦之助は震える手で、影の焦点をさらに絞り込む。覆面の男が、斬り伏せた殿様を見下ろす。その一瞬、覆面がわずかに緩み、その下から覗いたのは、紛れもなく内藤の顔だった。皺の刻まれた、苦渋に満ちた横顔。

なぜ。どうして。裏切りか?弦之助の頭は混乱した。だが、物語はまだ終わっていなかった。影はさらに続く。内藤の顔が写ったのは、ほんの一瞬。次の瞬間、影はまるで嘘のように場面を変えた。そこは血生臭い広間ではなく、静かな寝所だった。病にやつれた殿様が、穏やかな顔で床に伏している。その傍らには、薬湯を冷ます小夜姫の姿があった。

「……小夜。この国を、民を頼むぞ」

か細い声。それは、斬られたはずの殿様の声だった。彼は、娘の顔を愛おしそうに見つめ、ゆっくりと目を閉じた。それは、暗殺などではない。病による、静かで威厳に満ちた最期だった。

何が起きている?二つの全く異なる記憶。一つは惨劇、もう一つは静かな看取り。どちらかが偽物なのか?いや、影は嘘をつかない。どちらも、小夜姫の記憶から切り取られた断片なのだ。

弦之助は全てのピースを繋ぎ合わせ、そして、戦慄すべき結論にたどり着いた。

殿様は病で死んだ。だが、政敵がその弱みにつけ込むことを恐れたのだろう。だから、自らの死を「暗殺」に見せかける必要があった。そして、その憎まれ役を、最も信頼する忠臣、内藤に託したのだ。

小夜姫は、その全てを知っていた。いや、薄々感づいていたのだ。父の穏やかな最期も、内藤の悲しい芝居も。だが、あまりにも辛いその真実を受け入れることができず、彼女の心は自らを守るために、記憶に靄をかけた。そして、彼女は弦之助の元へ来た。影法師という権威に、「父は無念の死を遂げたのだ」という“物語”を完成させ、お墨付きを与えてもらうために。辛い真実から目を背け、悲劇のヒロインとして生きるために。

弦之助は全身から力が抜けていくのを感じた。愕然とした。彼は、真実を暴くことこそが救いだと信じていた。だが、人が求めるのは、必ずしも真実ではない。時には、生きるための支えとなる、優しい嘘や偽りの物語が必要なのだ。

影法師とは、ただ記憶を写すだけの存在ではなかったのか。人の心が生み出す物語の、なんと複雑で、悲しく、そして美しいことか。弦之助の価値観が、音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 心が選ぶ物語

数日後、弦之助は小夜姫と内藤を再び仕事場に招いた。彼の前には、二枚の影写し紙が置かれている。

「姫様。お求めの影が、二つ、写し取れました」

弦之助は静かに言った。彼の声には、以前の虚無的な響きはなかった。

一枚目の影写し紙を水盤に映す。そこには、覆面の内藤が殿様を斬り殺す、凄惨な光景が映し出された。「これが、貴方が創り出したかった物語の影。父君は非業の死を遂げ、忠臣であったはずの内藤が裏切り者となる筋書きにございます」

内藤は唇を固く結び、床に目を伏せる。小夜姫の肩が小さく震えた。

弦之助は、一枚目の紙を静かに横に置くと、二枚目の影写し紙を手に取った。

「そして、こちらがもう一つの影。貴方が心の奥底に封じ込めた、真実の物語にございます」

水盤に映し出されたのは、穏やかな寝所の光景。病床の父が、娘の行く末を案じながら、安らかに息を引き取る姿だった。父の最期の、愛に満ちた眼差し。そこには憎しみも、無念もなかった。

水面に映る光景を見つめながら、小夜姫の瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ち、水盤に波紋を広げた。それは、靄が晴れていく心の涙だった。

「姫様。人は、己が生きるための物語を、自ら選ぶことができます。貴方は、どちらの物語と共に、これからの人生を歩まれますか」

弦之助の問いは、刃のように鋭く、しかしどこまでも優しかった。それは、真実を突きつける糾弾ではない。彼女の魂の解放を願う、祈りにも似た問いかけだった。

長い沈黙の後、小夜姫は震える声で言った。

「……偽りの物語の中で、父上の心を偽り続けるのは、もう、やめにいたします」

彼女は、二枚目の影写し紙、真実の物語が宿る紙を、そっと両手で受け取った。

「父上の本当の心を……この影と共に、私は生きてゆきます」

その言葉を聞き、内藤は静かにその場に両手をつき、深く、深く頭を下げた。彼の肩は、かすかに震えていた。主君と姫君への忠義を、彼は彼なりの方法で、最後まで貫き通したのだ。

小夜姫たちが去った後、がらんとした仕事場に、弦之助は一人佇んでいた。彼はもう、自分の仕事が虚しいとは思わなかった。自分はただの記録者ではない。人の心が紡ぐ、悲しくも尊い物語の、最初の読者であり、水先案内人なのだ。

彼はふと、窓の外に目をやった。月明かりが、濡れた石畳を静かに照らしている。その光景を、弦之助は一枚の影写し紙に、そっと写し取った。誰の記憶でもない。依頼されたわけでもない。彼が、彼自身の心で感じた、ただの夜の風景。

その影写し紙を、彼は仕事場の壁に飾った。そこには、初めて生まれた、彼自身の物語の一片が、静かに息づいていた。空っぽだった彼の心に灯った、小さな、確かな光だった。

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