第一章 霧中の面影
神田の裏路地に、蒼介(そうすけ)の工房はひっそりと佇んでいた。陽の光さえ遠慮するように射し込むその場所は、墨と古紙の匂いが深く染みついている。蒼介は「記憶絵師」と呼ばれていた。人の脳裏に浮かぶ情景を、あたかも見てきたかのように和紙の上へ描き出す。その腕は江戸市中でも評判だったが、彼自身はいつもどこか虚ろな目をしていた。他人の思い出をなぞるだけの我が身を、空っぽの器のように感じていたからだ。
ある蒸し暑い夏の午後、工房の引き戸が静かに開いた。現れたのは、上質な麻の着物をまとった一人の老武士。歳は七十に近いだろうか。背筋は真っ直ぐに伸び、深い皺が刻まれた顔には、武人らしい厳格さと、歳月がもたらした穏やかさが同居していた。
「ここが記憶絵師殿の工房かな」
低く、落ち着いた声だった。蒼介は筆を置くと、無言で男に向き直った。
「伊吹彦九郎(いぶきげんくろう)と申す。一つ、描いていただきたい記憶がござる」
伊吹が依頼したのは、三十年前に亡くした妻、千代との最後の思い出だった。花見の季節、満開の桜並木の下を二人で歩いたという。伊吹は、その日の千代の微笑み、風に舞う花びら、木漏れ日の暖かさを、懐かしむように語った。
蒼介は目を閉じ、伊吹の言葉に意識を集中させた。いつもなら、依頼人の記憶は奔流のように蒼介の脳裏へと流れ込み、鮮やかな映像を結ぶ。だが、今回は違った。伊吹の語る情景は、まるで深い霧に包まれているかのように輪郭がぼやけ、千代の顔も、その微笑みも、どうしてもはっきりと像を結ばないのだ。
「……どうかなされたか」
怪訝な顔で伊吹が問う。
「いえ……」
蒼介は内心の動揺を隠し、作り笑いを浮かべた。「少し、集中いたします故」
初めての経験だった。記憶が視えない。いや、視えるのだが、何重もの薄絹を隔てて眺めているかのようだ。これは一体、どういうことなのか。蒼介は得体の知れない不安に胸をざわつかせながら、それでも依頼を引き受けるしかなかった。この霧の向こうに何があるのか、確かめずにはいられなかったのだ。
第二章 血染めの花びら
蒼介の苦闘が始まった。伊吹はその後も幾度となく工房を訪れ、妻との思い出を繰り返し語った。その語り口はよどみなく、愛情に満ちていた。蒼介は、その断片的な言葉と、霧の向こうにかすかに見えるイメージを手繰り寄せ、一枚の絵を描き進めていった。
絵には、陽光を浴びて輝く桜並木が描かれた。そよ風に揺れる枝、空を覆うほどの薄紅色の花々。中央には、寄り添って歩く若き日の伊吹と千代の姿がある。しかし、描けば描くほど、蒼介の意図しないものが絵の中に滲み出してくるのだった。
何百、何千と描いた桜の花びらの一枚が、どうしても血のような赤黒い色に染まってしまう。何度描き直しても、乾くとそこだけが禍々しい斑点として浮き上がってくるのだ。さらに奇妙なことに、微笑んでいるはずの千代の瞳の奥に、時折、言いようのない深い悲しみの色が宿るように描かれてしまう。それは蒼介が描こうとしたものではなく、筆が、墨が、勝手に生み出したかのような染みだった。
「わしの腕が鈍ったのか……」
蒼介は苛立ち、筆を投げ出した。完璧な記憶の再現こそが、彼の唯一の矜持だった。それが、自身の制御を超えた力によって歪められていく。
「見事なものだ」
ある日、途中経過を見に来た伊吹は、絵を前にして深く頷いた。「ああ、そうだ。千代は、このように美しかった……」
彼は血色の花びらにも、妻の瞳に宿る影にも気づかぬ様子で、ただただ満足げに絵を眺めている。その姿に、蒼介の違和感はますます募っていった。この老人は、本当にこの絵と同じ記憶を抱いているのだろうか。それとも、見たいものだけを見ているのか。
蒼介は、この絵が何か恐ろしいものに繋がっているのではないかと感じ始めていた。まるで、美しい思い出話という薄皮一枚を剥げば、その下にどす黒い何かが蠢いているような、不気味な予感。それでも彼は筆を止めることができなかった。この絵を完成させなければならない。その先に待ち受けるのが、たとえ破滅であったとしても。
第三章 燃え盛る真実
満月の夜だった。工房には灯りが一つだけ灯され、蒼介は完成した絵の前に座していた。傍らには、満足げな表情でそれを見つめる伊吹がいる。絵の中の二人は、満開の桜の下で永遠の幸せを謳歌しているように見えた。血色の花びらも、千代の瞳の影も、今は見る角度によってかろうじてわかる程度にまで薄れていた。
「これで、わしの心もようやく……」
伊吹が安堵のため息をついた、その時だった。
月光が窓から差し込み、絵の表面をすっと撫でた。次の瞬間、信じがたい光景が繰り広げられた。和紙の上の絵が、まるで水面の波紋のように揺らぎ始めたのだ。
「なっ……!?」
蒼介と伊吹が息をのむ前で、絵はひとりでに変貌していく。陽光に輝いていた桜並木は、夜の闇に燃え盛る炎に包まれた屋敷へと姿を変えた。穏やかに微笑んでいた千代の顔は、苦悶と絶望に歪み、何かを必死に訴えかけるような悲痛な表情になった。そして、風に舞っていた桜の花びらは、燃え尽きた家屋から舞い上がる無数の火の粉となった。
極めつけは、千代の背後に現れた人影だった。それは、紛れもなく若き日の伊吹彦九郎。しかしその手には、鞘から抜かれた刀が握られ、その切っ先は、燃え盛る屋敷に向けられていた。
「ああ……ああああ……!」
伊吹は膝から崩れ落ちた。その顔は蒼白になり、全身がわなわなと震えている。長年、分厚い壁の奥に封じ込めてきた記憶が、こじ開けられたのだ。
彼は、途切れ途切れに真実を告白した。
三十年前、彼は妻の千代が、屋敷に出入りしていた若い庭師と密通していると疑った。嫉妬と裏切られたという怒りに狂った伊吹は、二人が会っていると思い込んだ離れに火を放った。助けを求める千代の声を聞きながら、彼は刀を構え、誰一人としてそこから出すことはなかった。
だが、全ては彼の妄執が生んだ悲劇だった。後に、千代はただ、病に伏した庭師の身を案じていただけだったと知る。罪の意識に耐えきれなくなった伊吹は、そのおぞましい記憶に蓋をし、「妻との最後の花見」という美しくも完全な偽りの記憶を自らの中に創り上げた。そして三十年の歳月をかけ、その偽りを真実だと信じ込もうとしてきたのだ。
蒼介は呆然と立ち尽くしていた。彼の能力は、人の表層的な「記憶」を描くものではなかった。その奥底に沈殿する、魂の「真実」を暴き出す力だったのだ。伊吹の偽りの記憶が強固であればあるほど、押し殺された真実が、血色の花びらや瞳の影となって、絵の中に染み出していたのだ。
自分はただの絵師ではなかった。人の魂の最も深い場所に触れ、その叫びを紙の上に写し取る存在。そのあまりに重い事実に、蒼介は眩暈さえ覚えた。
第四章 祈りの絵筆
工房に満ちるのは、伊吹の嗚咽と、墨のかすかな香りだけだった。燃え盛る屋敷を描いた絵は、まるで地獄の入り口のように、暗い光を放っている。
やがて、伊吹は顔を上げた。涙で濡れたその顔には、不思議なことに、長年の重荷を下ろしたかのような安堵の色が浮かんでいた。
「ありがとう……絵師殿」
彼は深く、深く頭を下げた。「これで、やっと……千代に詫びることができる」
偽りの記憶の中で生き続けることは、彼にとって甘美な地獄だったのだろう。真実と向き合う痛みは、同時に魂の解放でもあったのだ。
その姿を見て、蒼介の中で何かが変わった。これまで呪わしいとさえ感じていた自らの能力が、人を救う力にもなり得るのかもしれない。彼はこれまで、他人の記憶という過去の残像をなぞるだけの存在だった。だが、もし、未来を描くことができるとしたら?
蒼介は無言で新しい和紙を広げ、墨をするするとすった。そして、燃える屋敷の絵の隣に、もう一枚の絵を描き始めた。伊吹は驚いてその手元を見つめる。
蒼介の筆は、迷いなく紙の上を走った。そこに描かれていったのは、灰燼に帰した屋敷の跡地で、深く頭を垂れる老いた伊吹の姿。そして、その彼の前に立つ、透き通るような千代の幻影。彼女は怒りも悲しみも見せていない。ただ、静かな、すべてを許すかのような慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
それは誰の記憶でもない。蒼介が紡ぎ出した、伊吹の魂が最も渇望していたであろう、贖罪と赦しの光景。過去を描くのではなく、未来への祈りを込めた一枚だった。
伊吹は、二枚の絵を静かに受け取った。一枚は消えることのない罪の証として。もう一枚は、これから背負っていく希望として。彼は何も言わず、再び深く一礼すると、夜明け前の薄明かりの中へと去っていった。
一人残された工房に、朝の光が差し込み始める。蒼介は、自分の掌を見つめた。この手は、人の記憶を、魂を、そして祈りをも描くことができる。それは、時に残酷な真実を突きつけるだろう。だが、同時に、誰かの心を救う一筋の光にもなるかもしれない。
空っぽの器だと思っていた我が身に、確かな熱が宿るのを感じていた。蒼介は静かに立ち上がると、白紙の和紙を一枚、画架に立てかけた。これから描かれるべき、まだ見ぬ誰かの物語のために。彼の目は、もう虚ろではなかった。夜が明け、新しい一日が始まろうとしていた。