第一章 月下の獣、無人の小路
江戸の夜は、深い藍色の帳に覆われていた。その静寂を破るのは、更行燈の油がはぜる微かな音と、どこかの軒先で鳴く虫の声くらいのものだ。影絵師の朔(さく)にとって、この月光だけが満ちる夜こそが、唯一心安らぐ時間だった。
彼の住まう裏長屋の小さな一室。障子に映し出されるのは、彼の手指が生み出す幻の生き物たちだ。細くしなやかな指が交差すれば、兎が生まれ、跳ね、月を目指す。指の形を変えれば、狐が駆け、鳥が羽ばたく。それらは単なる影ではない。朔の影は、月光を浴びることで、束の間の命を宿すのだ。和紙の向こう側、彼の背後の土間では、影の兎がぴょこぴょこと跳ね回り、影の小鳥が彼の肩にそっと舞い降りる。朔は、この誰にも言えぬ秘密の力を持つ「影遣い」だった。口下手で人付き合いの苦手な彼にとって、言葉を交わす必要のない影の友だけが、孤独を癒す存在だった。
だが、ここ最近の江戸の夜は、不気味な噂に満ちていた。神隠しだ、と人々は囁き合った。夜更けに子供がふっと姿を消す事件が、三件も続いていたのだ。拐かされたにしては身代金の要求もなく、ただ、子供が消えた場所には、奇妙な獣の足跡だけが残されているという。
その夜も、朔はいつものように影の獣たちと戯れていた。戯れに、これまで作ったことのない、空想の獣を創り出してみる。鹿の角、狼の牙、虎の縞模様を持つ、猛々しい姿の影。影は朔の意のままに動き、部屋の中を勇ましく闊歩した。満足した朔が、ふっと指の力を抜くと、影はたちまち形を失い、闇に溶けて消えた。
翌朝、町の騒がしさに朔は目を覚ました。また一人、子供が消えたのだという。大工の棟梁の一人娘が、昨夜、自室の布団から忽然と姿を失ったらしい。野次馬に混じり、朔も恐る恐る現場へ足を運んだ。役人が敷いた筵の向こう、娘が消えたという部屋の窓下の地面に、それはあった。
朔は息を呑んだ。泥に残された足跡。それは、鹿のような蹄と、鋭い爪の痕が混じり合った、奇妙な形をしていた。見間違うはずがない。昨夜、自分が戯れに創り出した、あの空想の獣の足跡と寸分違わぬものだった。背筋を冷たい汗が伝う。自分の力が、制御できず暴走しているのか? それとも、この力を知る何者かが、自分の仕業に見せかけているのか? 罪悪感と恐怖が、朔の心を黒い影のように覆い尽くしていった。
第二章 影遣いの系譜
眠れぬ夜が続いた。朔は月夜を恐れ、自らの指を固く握りしめ、影絵を封じた。しかし、事件の噂は日増しに大きくなり、彼の心を蝕んでいく。このままではいけない。自分の力が関わっているのなら、確かめなければならない。朔は意を決し、夜の町を密かに調べ始めた。
唯一の手がかりは、亡き祖父が遺した古い行李だった。祖父もまた、名の知れた影絵師だった。行李の底から出てきたのは、古びた和紙の巻物。そこに記されていたのは、朔の一族に代々受け継がれてきた「影遣いの術」の秘伝だった。それは単なる芸ではなく、月光の霊力を借りて、人の想いや記憶を影として現し、操る秘術。巻物の最後には、こう記されていた。「この術、心を映す鏡なり。心正しければ影は友となり、心邪なれば影は災いとなる。決して、人の魂を影に写そうとしてはならぬ」
その言葉に、朔は新たな恐怖を覚えた。誰かが、この禁忌を犯しているのではないか。
調査を続けるうち、朔は一人の娘と出会った。名を、ひなたという。彼女は、三番目に姿を消した薬問屋の小僧の姉だった。快活で、向日葵のような笑顔を浮かべる娘だったが、その瞳の奥には深い憂いが宿っていた。
「あなた、影絵師の朔さんでしょう? 私、あなたの影絵、見たことがあるんです。とても優しくて、温かい影でした」
ひなたは、朔がたまに子供たちのために開く小さな影絵芝居を見ていたのだ。彼女の真っ直ぐな言葉に、人と目を合わせるのも苦手だった朔は、戸惑いながらも、少しずつ心を開いていった。ひなたは弟の残した手鞠を握りしめ、犯人を見つけ出すと息巻いていた。その健気な姿に、朔は自分の無力さを痛感し、同時に、彼女を守りたいという強い想いが芽生え始めていた。
ある夜、ひなたは朔の長屋を訪れた。
「朔さん、お願い。弟が最後に見ていたっていう、狐の出てくる影絵を、もう一度見せてくれないかしら」
朔は断れなかった。月明かりが差し込む部屋で、彼は震える指を動かす。障子に映った狐は、踊るように跳ね回り、やがて悲しげに首を垂れた。それは、今の朔の心を映した影だった。
「……ありがとう」
ひなたの目に涙が光っていた。その時、彼女の背後の壁に、一瞬、ぞっとするほど黒く、禍々しい影がよぎったのを朔は見逃さなかった。それは、彼が知るどんな影とも違う、まるで闇そのものが凝縮したかのような気配を放っていた。
第三章 黒麒麟の胎動
あの禍々しい影。それは間違いなく、犯人が残した痕跡だ。朔はひなたを守るためにも、犯人と対決する覚悟を決めた。巻物に記された術の伝承と、町の噂を照らし合わせ、ついに犯人が潜む廃寺へとたどり着く。
月が雲に隠れ、辺りを深い闇が包む夜だった。本堂の奥、朽ちかけた仏像の背後で、その男は待っていた。痩身で、目の下に深い隈を刻んだ男。名を玄(げん)と名乗った。
「ようやく来たか、朔。先代様の孫よ」
玄の声は、乾いた木が擦れるように冷たかった。彼は、かつて朔の祖父に師事し、その才能を認められながらも、術の力を追い求めるあまり破門された男だった。
「子供たちをどこへやった!」
朔が問い詰めると、玄は歪んだ笑みを浮かべた。
「子供たちなら、ここにおるさ。新たな命の礎としてな」
玄が指を鳴らすと、彼の背後に巨大な影が立ち上がった。それは、朔が作り出したどの影よりも濃く、立体的で、まるで実体を持っているかのような威圧感を放っていた。鹿の角、狼の牙、虎の縞模様。朔が戯れに創った獣と同じ姿。だが、その影からは、生命そのものを吸い上げるような、底知れぬ邪気が発せられていた。
「お前の術は不完全だ。月光がなければ消えてしまう、儚い幻に過ぎん。だが俺は突き止めたのだ。人の魂、その純粋な生命力を注ぎ込むことで、陽光の下でも消えぬ『真の影』を創り出す禁術をな!」
玄の言葉に、朔は愕然とした。子供たちを攫ったのは、その魂を影の器とするためだったのだ。だが、朔を真に打ちのめしたのは、玄が次に語った事実だった。
「お前は何も知らんな。我ら影遣いの術の真の意味を。あれはな、無から有を生み出す術ではない。**『失われたものの影を現世に繋ぎ止める』**ための鎮魂の術なのだ」
その言葉は、雷のように朔の脳天を貫いた。夜な夜な戯れていた影の兎。あれは、幼い頃に自分の不注意で死なせてしまった、愛兎の姿ではなかったか。影の小鳥は、病で死んだ弟が見たがっていた、南の国の鳥の絵姿ではなかったか。自分の孤独を癒してくれていたのは、自分自身の哀しみと後悔が生み出した、過去の記憶の影だったのだ。
「お前の力は、死者の記憶を慰めるだけの惰弱なものよ。だが俺は、この『黒麒麟』で、新たな世界を創る!」
玄が叫ぶと、黒麒麟の影が咆哮を上げた。それは音のない叫びだったが、空気を震わせ、朔の魂を根底から揺さぶった。自分の力は、失われた者への手向けだった。その神聖な術を、玄は命を弄ぶ道具へと貶めた。許せない。怒りが、恐怖を焼き尽くしていく。これまで呪いとさえ感じていたこの力を、今こそ、守るために使わねばならない。
第四章 記憶の影語り
「ひなたさんを、町の人々を、これ以上傷つけさせはしない!」
朔の指が、決意と共に動き始めた。月が雲間から顔を出し、銀色の光が廃寺の床を照らし出す。
朔が最初に創ったのは、小さな兎の影だった。かつて彼の孤独を慰めてくれた、最初の友。続いて、病床の弟を笑わせた滑稽な猿の影。子供たちにせがまれて創った、物語の英雄の影。そして、ひなたの向日葵のような笑顔の影。一つ一つ、朔の記憶に宿る、温かい想いの欠片たち。それらは黒麒麟のように禍々しくはない。淡く、儚げで、けれど消えない光を宿していた。
「そんなもので、俺の黒麒麟に勝てるものか!」
玄が嘲笑う。黒麒麟が、その漆黒の爪を振り上げた。だが、朔が生み出した無数の光のような影たちは、怯むことなく黒麒麟にまとわりつき、その動きを封じていく。それは力と力のぶつかり合いではなかった。玄の歪んだ野心が生んだ虚無の影と、朔が紡いできたささやかな人生の記憶、その慈しみの心との戦いだった。
黒麒麟の影の奥深く、朔は囚われた子供たちの魂の気配を感じ取った。泣いている。家に帰りたいと叫んでいる。
(もう、寂しくないよ)
朔は、全ての想いを一つの影に束ねた。彼が最初に影絵を習った日、祖父が「お守りだ」と言って教えてくれた、最も優しく、最も力強い影。巨大な「月の兎」の影が、障子いっぱいに現れた。
その兎は、黒麒麟を攻撃しなかった。ただ、その巨大な影の体で、黒麒麟を優しく抱きしめた。温かい光が、漆黒の闇を内側から溶かしていくようだった。黒麒麟の核となっていた子供たちの魂が、その抱擁の中で安らぎを取り戻し、一つ、また一つと解放されていく。光を失った黒麒麟は、まるで朝霧のように掻き消え、後には呆然と立ち尽くす玄だけが残された。
事件は解決し、子供たちは無事、親たちの元へ戻った。朔の術のことは、誰にも知られることはなかった。だが、彼の心は確かに変わっていた。彼はもはや、力を恐れる孤独な影絵師ではなかった。失われた者たちの記憶を、その哀しみを、影絵として語り継ぐ「影語り」としての道を歩み始めていた。
縁側で、朔はひなたと並んで静かに月を眺めていた。彼の隣には、もう影の友はいない。だが、孤独は感じなかった。ひなたの手の温もりが、そこにあったからだ。
「見て、朔さん」
ひなたが指さす夜空。満月の白い円盤の中に、まるで兎が餅をついているかのような、優しい影の模様が見える。それはただの月の模様に過ぎないのかもしれない。だが、朔の目には、自分たちを見守るように、夜空を優しく跳ねる月の兎の姿が、はっきりと見えているような気がした。