第一章 桜と鉄錆の櫛
江戸の湿った空気が、梅雨の重みを纏って肌にまとわりつく。神田の裏通りで古道具屋「朧月堂(ろうげつどう)」を営む涼(りょう)は、薄暗い店内で一人、古びた硯(すずり)を磨いていた。彼にとって、物は単なる品ではない。それぞれが、かつての持ち主の記憶を「香り」として宿している。涼には、その声なき声を聞き分ける、生まれついての奇妙な才があった。
強い情念が込められた物に触れると、甘美な花の香りがしたり、胃の腑を抉るような腐臭がしたりする。それは涼にとって、呪いにも似た力だった。人々の剥き出しの感情に当てられ続け、彼はいつしか世間から距離を置き、物言わぬ古道具たちと静かに暮らすことを選んだ。
からん、と店の戸が開く音がした。雨の滴を纏った若い娘が、不安げな面持ちで立っている。年は十八か十九。洗いざらしの着物は質素だが、凛とした佇まいが目を引いた。
「ごめんくださいまし」
涼は無言で顔を上げた。娘は懐から小さな桐の箱を取り出し、震える手でそれを差し出した。
「これを……見ていただけますでしょうか」
箱の中には、使い込まれた黄楊(つげ)の櫛が一つ、静かに横たわっていた。月明かりに照らされた夜桜の細工が見事な逸品だ。
「父の形見なのでございます。一月ほど前に、病で……」
娘は言葉を詰まらせた。小夜(さよ)と名乗ったその娘は、父の死がどうにも腑に落ちないのだという。医者は流行り病だと言ったが、亡くなる前日まで、父は別段変わった様子もなかった、と。
涼は黙って櫛に手を伸ばした。指先が滑らかな木肌に触れた、その瞬間。
――ぶわり、と未知の香りが鼻腔を突き抜けた。
それは、満開の桜がこぼれるような甘く優しい芳香。しかし、その奥底には、ひやりと冷たい鉄錆の匂いが、毒蛇のようにとぐろを巻いていた。相反する二つの香りが、互いを打ち消すことなく、あまりにも鮮烈に混じり合っている。愛情と、殺意。それも、他者へ向かう憎悪ではない。己の内に向かうような、凍てついた決意の香り。
涼は思わず息を呑んだ。これほどまでに複雑で、心をかき乱す香りは初めてだった。
「この櫛からは……とても、強い想いが感じられます」
涼が絞り出した言葉に、小夜ははっと顔を上げた。
「本当ですか? 父は、この櫛をとても大切にしておりました。母の形見でしたから」
愛情の香りは、亡き妻と愛娘へ向けられたものだろう。だが、あの鉄錆の匂いは何だ? 病死した男の遺品に、なぜこれほど冷徹な殺意の香りが残されているのか。
涼の心の奥底で、固く閉ざしていた何かが、軋みを立てて動き始めるのを感じた。この香りの正体を、知らねばならぬ。それは、呪われた能力を持つ彼に課せられた、初めての使命のように思えた。
第二章 残香の追憶
涼は小夜に数日の猶予を請い、櫛を預かった。ただの古道具屋の主人が、人の死を探ることなど許されるはずもない。だが、あの桜と鉄錆の香りが、彼の心を掴んで離さなかった。
翌日から、涼は小夜の父・惣右衛門(そうえもん)の足跡を辿り始めた。彼は腕の良い指物師で、多くの得意先を持っていたという。涼はまず、惣右衛門が懇意にしていたという茶屋を訪れた。
茶屋の主人は人の好さそうな男で、惣右衛門のことを「仕事には厳しいが、根は優しい人だった」と懐かしんだ。涼は主人が使っていた煙草盆にそっと触れる。ふわりと漂うのは、茶の香りと、人の往来が織りなす微かな汗の匂い。そこには何の澱みもなかった。
次に、惣右衛門と仕事を共にしていたという塗師の仕事場を訪ねた。頑固そうな職人は、惣右衛門の腕を褒め、その死を惜しんだ。仕事場に置かれた道具箱に触れる。漆の刺激臭の奥に、仕事への矜持というべき、誇り高い木の香りがした。ここにも、あの鉄錆の匂いはない。
数日が過ぎても、手掛かりは掴めなかった。惣右衛門の周囲の誰からも、彼に対する悪意の香りはしない。ならば、あの殺意の香りはどこから来たのか。涼の心に焦りが募る。
その夜、店で一人、櫛を眺めていた。月光が、彫られた桜の花びらを淡く照らし出す。その美しさが、かえって胸を締め付けた。小夜の悲しむ顔が目に浮かぶ。いつの間にか、自分は他人の心に深く踏み込んでいる。これまで徹底的に避けてきたはずのことだった。
「なぜ、おれが……」
自問するが、答えは出ない。ただ、あの混じり合った香りを解き明かし、小夜に穏やかな日々を取り戻してやりたいという想いが、熱を帯びて胸に灯っていた。
涼はもう一度、香りの記憶を手繰り寄せた。櫛に残された香りは、惣右衛門自身のものだ。ならば、彼が最期に触れた何かにも、同じ香りが強く残っているはず。
涼は再び小夜の家を訪れた。
「お父上が、櫛以外に肌身離さず持っておられた物はございませんか」
小夜は少し考えた後、小さな引き出しから古びた煙管(きせる)を取り出した。雁首(がんくび)には細かな傷があり、長く使い込まれていることが窺える。
「父はこれを片時も手放しませんでした」
涼は息を整え、覚悟を決めて煙管を手に取った。
第三章 偽りの香り、真実の心
指先が、冷たい金属と滑らかな羅宇(らう)に触れた。
その瞬間、涼の世界は圧倒的な香りに支配された。
それは、櫛で感じた比ではない。満開の桜が一斉に散り、吹雪のように舞い落ちる甘美な香り。そして、研ぎ澄まされた刃が己の肉を断つような、鮮烈で冷え切った鉄錆の香り。二つの香りが巨大な渦となり、涼の意識を飲み込んでいく。
彼の脳裏に、幻視が流れ込んできた。
――月明かりの下、一本の大きな桜の木。まだ固い蕾をつけている。その根元に、惣右衛-門が座っている。彼の顔は病の影でやつれているが、その眼差しは驚くほど穏やかだ。手には、小夜から預かった煙管ではなく、きらりと光る小刀が握られている。
『小夜……すまぬ』
唇が、声にならぬ言葉を紡ぐ。
『お前には、父の醜い姿を見せたくない。達者で暮らせ。お前の中の父は、いつまでも元気な指物師のままで……』
次の瞬間、惣右衛門は躊躇なく、その刃を自らの胸に突き立てた。血が流れ出す。鉄の匂い。しかし、彼の心を満たしていたのは、痛みや恐怖ではなかった。ただひたすらに、一人娘への深い、深い愛情。桜の花びらのように、優しく温かい想い。
幻視が消え、涼は畳の上に膝をついていた。全身が冷たい汗で濡れている。
これが、真実。
惣右衛門は殺されたのではない。病魔に蝕まれ、愛する娘に苦しむ姿を見せることを良しとせず、自ら命を絶ったのだ。
涼が殺意だと思い込んでいた鉄錆の香りは、病への憎しみと、己を断つという凄絶な決意の香りだった。そして、甘美な桜の香りは、死の瞬間まで持ち続けた、娘への最後の愛情そのものだった。
なんと哀しく、そして気高い最期だろうか。
涼は、震える手で煙管を握りしめた。真実を知ってしまった。しかし、このあまりにも残酷な真実を、どうやって小夜に伝えればいいというのか。父は病死ではなく、自ら命を絶ったのだと。彼女の心を、父が守ろうとした想いを、自らの手で踏みにじることになるのではないか。
これまで涼は、ただ香りを「聞く」だけだった。物の記憶は客観的な事実であり、そこに彼の意思が介在する余地はなかった。だが、今は違う。彼は「語り手」になることを迫られていた。真実を語るか、偽りを語るか。彼の言葉一つで、一人の娘の未来が変わってしまう。
能力を疎み、人を避けてきた涼にとって、それはあまりにも重い選択だった。
第四章 雨上がりの空
数日後、涼は小夜のもとを訪れた。彼の顔には深い苦悩の色が浮かんでいたが、その瞳の奥には、静かな決意が宿っていた。
小夜は、やつれた様子の涼を心配そうに見つめた。
「何か、わかりましたか」
涼は懐から櫛を取り出し、そっと彼女の前に置いた。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「お父上の櫛からは……やはり、とても温かい香りがいたしました」
涼は、一言一言を確かめるように、静かに語り始めた。
「それは、春の満開の桜のような香りでした。亡き奥方への想い、そして何よりも、あなたの幸せを願う、深く優しい愛情の香りです。お父上は、最期の瞬間まで、あなたのことを想っておられました。その心は、この櫛に確かに残っております」
涼は、鉄錆の香りのことには一切触れなかった。それは彼が生まれて初めてついた、誰かのための「優しい嘘」だった。惣右衛門が命を懸けて守ろうとした娘の心を、彼もまた守りたかった。
小夜の瞳から、大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、安堵と、父への感謝の涙だった。
「……よかった。父は、独りではなかったのですね」
そう言って微笑んだ小夜の顔は、雨上がりの空のように晴れやかだった。
帰り道、降り続いていた雨はすっかり上がっていた。洗い流された江戸の町は、澄んだ空気に満ちている。涼は空を見上げた。
彼の鼻先を、ふと、湿った土の匂いと、どこかの庭先から漂う梔子(くちなし)の甘い香りが掠めていった。それは、ただの香りだった。何の記憶も、何の情念も宿さない、ありのままの香り。
だが、今の涼にとって、その香りはこれまで感じてきたどんな香りよりも心地よかった。
呪いだと思っていた自らの力。それは、人の心の深淵にある哀しみや愛情に触れるためのものだったのかもしれない。真実を知るだけが全てではない。時には、その真実をそっと胸にしまい込み、人の心に寄り添うことこそが、本当の役割なのかもしれない。
涼は、もはや孤独な古道具屋の店主ではなかった。物の記憶(香り)を通じて、声なき者たちの心を「聞く」者として、そして時には、その心を救うために静かな嘘をつく者として、生きていくのだろう。
彼の歩む先には、きっとこれからも、様々な香りが待ち受けている。その一つ一つと向き合いながら、彼は静かに歩き続けた。朧月堂に帰る足取りは、不思議と軽かった。