時の残響

時の残響

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第一章 鈴の音の殺人

その日、僕の人生は音もなく、しかし確実に崩壊を始めた。

雨粒が窓を叩く音が、世界中の喧騒を遠ざけるように響く。ここは都心の片隅にある、ひっそりとした古書研究図書館。僕はここで司書として働いている。鳴神響。それが僕の名前だ。幼い頃から、僕は人には聞こえない「音」を聞いてきた。それは、街のざわめきの中に紛れ込んだ、誰かの深いため息や、過去に失われた喜びの断片、あるいは、未来への漠然とした不安が具現化したような、漠然とした感情の響きだった。その「呪い」のような能力を隠し、僕は静かな場所を求めてこの図書館に辿り着いたのだ。分厚い本の匂いと、時が止まったような静寂は、僕にとって唯一の安息だった。

しかし、その静寂は唐突に破られた。主任司書の神崎美咲さんが、開架書庫の奥、めったに人が足を踏み入れない禁書のコーナーで倒れているのが発見されたのだ。発見したのは、巡回中だった同僚の浅倉。彼の悲鳴が、図書館の静けさを切り裂いた。

現場は瞬く間に警察によって封鎖され、重苦しい空気が漂った。僕はその場に立ち尽くしていた。警察官たちの慌ただしい足音、無線から漏れる不鮮明な声、そして彼らの心の中で渦巻く焦燥感。それら全てが、僕の耳には不快なノイズとして届いた。普段なら、すぐにその場を離れて静寂に身を置くはずが、僕は動けずにいた。

午前零時ちょうど。警察が神崎さんの死亡推定時刻を告げた、その刹那だった。

僕の耳の奥で、かすかな、しかし魂を揺さぶるような「音」が響いた。それは、何かが静かに、しかし決定的に砕け散るような音だった。そして、その砕け散った破片の一つ一つが、まるで風に揺れるガラスの鈴のように、微かに鳴り始める。チリン、チリン。

僕以外の誰も、その音に気づいている様子はなかった。刑事たちは鑑識作業を進め、鑑識官は無言で写真を撮り続けている。僕の周りにいる全員が、その音の存在に無関心だった。だが、僕には聞こえる。その鈴の音の中に込められた、深く、深い諦念。抗うことを諦め、全てを受け入れたかのような、悲しみの極致。そして、それ以上に、誰かに何かを伝えようとする、微かな、しかし強烈な意志。その感情の波動は、まるで神崎さんの最後の息吹が、形を変えてそこに留まっているかのようだった。

僕は背筋に冷たいものを感じた。この音は、これまで聞いてきたどんな音とも違っていた。それは単なる感情の残滓ではない。それは、事件の「核」を宿した、具体的な「情報」の塊のように思えた。僕の特殊な聴覚が、初めて明確な「証拠」を捉えた瞬間だった。

第二章 残響の解剖

翌日、警察の捜査は難航していた。犯行時刻、場所、動機。いずれも不明確。外部からの侵入形跡はなく、内部犯行の可能性が濃厚とされたが、職員たちは皆、互いに顔色を窺うばかりで、具体的な手がかりは得られていなかった。神崎主任は、穏やかで誰からも好かれる人物だったため、怨恨の線も薄いと思われた。

僕は、あの「鈴の音」が頭から離れなかった。あの音に宿る感情は、僕に何かしらのヒントを与えているように感じられた。しかし、そのことを誰に話せば信じてもらえるだろう? 僕は自分の能力を隠し通すことに慣れきっていた。だが、この音はあまりに鮮烈で、無視できるものではなかった。

僕は事件後も、あえて現場となった開架書庫の奥に足を運んだ。当然、警察の規制線が張られており、立ち入りはできない。しかし、僕はそこで、まるで音の残骸を探すかのように、ただ静かに佇んだ。すると、死体発見時刻の午前零時が近づくにつれて、僕の耳には再びあの鈴の音がかすかに聞こえ始める。それは昨日聞いた音と寸分違わぬ、諦念と悲しみに満ちた鈴の音だった。

「残響……まさか、時間が感情を刻んでいるのか?」

僕の脳裏に、突拍子もない仮説が浮かんだ。特定の条件下で強い感情を伴う死が起こった場合、その瞬間の感情が「音」として、その「時間」に固定化されるのではないか? そして、その固定化された「音」が、死体が発見された時刻に反復して響くのではないか?

僕は、その仮説を検証するために、過去に図書館内で発生した、小さな窃盗事件や不審者侵入事件の記録を漁り始めた。それらの事件の記録には、不審な「音」が報告されたケースはなかった。それは、僕の仮説を補強した。つまり、「音」は単なる不審な出来事ではなく、「死」という極限の状態、そしてそこに付随する「強い感情」によってのみ発生する、特異な現象なのではないか。

僕はこの現象を詳しく知るため、事件資料に目を通し始めた。神崎主任の検死報告書、現場検証の結果。しかし、どれもが「音」について語るものではない。唯一、神崎主任の遺体から検出された微量の「植物の繊維」が気になった。それはこの図書館には生息しない、珍しい植物のものだと報告書にはあった。

その夜、僕は初めて、自分の能力を事件解決のために使おうと決意した。僕は図書館の古い資料を調べ尽くし、過去に起きた未解決事件、特に死亡事件にまつわる報告書を読み漁った。すると、ある共通点が見えてきた。過去のいくつかの未解決の変死事件の記録には、どれも「奇妙な幻聴」や「原因不明の異音」が、事件現場の周辺で報告されていたのだ。だが、どの報告も、曖昧な「気のせい」として処理されていた。

僕はそれらの「奇妙な音」の報告を、僕自身の「音」の解釈と結びつけていく。ある事件では「乾いた葉が擦れる音」、また別の事件では「重い鎖が引きずられる音」。それら一つ一つに、被害者たちの最後の感情が刻まれているように感じられた。僕は、僕だけが聞こえる「音」を頼りに、事件の真相へと深く沈み込んでいくのだった。

第三章 時の裂け目、過去のこだま

僕は、神崎主任の遺体から検出された珍しい植物の繊維について、さらに詳しく調べ始めた。その植物は「記憶草」と呼ばれ、かつては薬草として使われていたが、自生する場所が極めて限られている希少種だった。記憶草は、特定の条件下で強い感情に触れると、その感情を「記憶」として保持し、時間と共にそれを微細な振動として周囲に放出する、という伝説が残っていた。僕は鳥肌が立つ。これは僕が感じている「音」の現象と酷似している。

記憶草の自生地を特定するため、僕は地質学の専門書を読み漁った。すると、ある共通の地質を持つ地域にしか生息しないことが分かった。その地域は、かつて僕の両親が事故死した場所と、驚くほど近い場所だったのだ。

僕の両親は、僕が幼い頃に山道での自動車事故で亡くなった。その時のことは、鮮明には思い出せない。ただ、事故現場で僕が気を失う直前、耳元で聞こえた、あの「音」だけは忘れられない。それは、二つの異なる「叫び」が重なり合ったような、魂を抉られるような悲鳴だった。その音は、僕の能力が発現した最初の記憶だった。僕はそれ以来、その「音」を呪いとして封印してきた。

僕は急いで両親の事故記録を引っ張り出した。当時の警察の報告書には、「事故現場から奇妙な音が報告されたが、車の衝突音の残響とみられる」と記されていた。だが、僕は知っている。あれは単なる残響ではなかった。あれもまた、誰かの最後の感情が固定化された「音」だったのだ。

そして、僕は震える手で、神崎主任の殺害時刻に現場から聞こえた「鈴の音」と、両親の事故現場で聞いた「叫び」を比較した。

鈴の音は、諦念と悲しみ。

叫びは、絶望と恐怖。

どちらも、極限状態での強い感情。

そこで、僕はある「人物」にたどり着いた。それは、図書館の若手司書、佐倉健太だった。彼は、神崎主任に恩義を感じていた一方で、珍しい植物の標本収集が趣味であり、特に記憶草について異常なまでの執着を見せていた。彼の机の引き出しから、僕は乾燥した記憶草の欠片を見つけ出した。

僕は佐倉に詰め寄った。「神崎主任の最後の音、知っているでしょう?」

佐倉は最初、動揺を隠せない様子だったが、やがて諦めたように顔を上げた。

「俺は、あれを再現しただけだ……いや、再現しようとしたんだ」

佐倉は語り始めた。彼は幼い頃、事故で妹を失っていた。その事故現場でも、彼には僕と同じ「音」が聞こえたのだという。それは、妹の絶望に満ちた最後の叫び声だった。彼は、その音の正体が、強い感情が時間と共に物質化した「時間の歪み」だと信じていた。そして、その「音」を記録し、解析することで、真実が隠蔽された妹の死の真相を突き止めようとしていたのだ。

佐倉は、記憶草がその「音」を増幅させ、より鮮明に固定化できることを知った。彼は、神崎主任が図書館の不正経理に気づき、それを告発しようとしていることを偶然知った。そして、神崎主任がその不正の責任を押し付けられ、絶望の淵に立たされていることを理解した。佐倉は、神崎主任の「最後の音」を、その不正の証拠として、警察に「聞かせる」ことで、真実を暴こうとしたのだ。彼は神崎主任を絞殺し、記憶草を仕込んで、その感情の音を「事件の証拠」として残そうとしたのだ。

しかし、佐倉は知らなかった。神崎主任の鈴の音の中に込められていたのは、不正経理の告発への「諦念」だけではなかった。それは、佐倉自身の過去の悲劇を知り、彼を守ろうとした、主任の「自己犠牲」の音だったのだ。主任は、佐倉の復讐心を止めるために、不正経理の全責任を自らが負い、彼を守ろうとしていた。佐倉は、その「音」を、自分への裏切りと誤解していたのだ。

僕の耳には、神崎主任の最後の鈴の音が、改めて響いた。そこに込められた、途方もない悲しみと、誰かを守ろうとする、尊い意志。僕は、あの音の真の意味を理解した瞬間、全身が震えた。僕の特殊な聴覚が、初めて「真実」の全貌を、痛みと共に捉えたのだ。

第四章 感情の螺旋

佐倉は、自らの行為が、救おうとした相手の最後の意志を裏切るものだったと知り、その場に崩れ落ちた。彼の目からは、妹を失った時のものと同じ、深い絶望の涙が溢れ出していた。彼は、自分自身の復讐心と、真実を求めるあまり、再び悲劇を繰り返してしまったのだ。

警察が到着し、佐倉は静かに逮捕されていった。図書館は再び静寂に包まれた。しかし、僕の心の中は、かつてないほどの感情の渦が巻き起こっていた。僕の「呪い」だと思っていた能力は、真実を解き明かすための「力」だった。そして、その力は、単なる物理的な証拠では決して辿り着けない、人間の心の奥底に秘められた感情の、生の記録を聞き取ることができるものだった。

僕は佐倉の行為を糾弾しながらも、彼に深く共感していた。僕もまた、両親の事故の「音」に囚われ、その真意を探ろうとせず、ただ蓋をしてきたのだから。あの時、両親は一体、どのような「音」を響かせたのだろう? 恐怖と絶望、それだけではなかったはずだ。もしかしたら、僕への最後の愛情や、未来への希望のような、微かな、しかし力強い感情も込められていたのかもしれない。僕は、その「音」の全容を聞き取ることを恐れて、目を背けていた。

事件が解決し、図書館の日常が戻りつつある。僕は再び書架の間を巡り、静かに本を整理する。しかし、もう以前と同じ僕ではなかった。僕の耳は、以前にも増して繊細に、世界の「音」を捉えるようになっていた。それは、過去の出来事が残す、微かな感情の残響。未来への希望を秘めた、新しい命の鼓動。そして、何気ない日常の中に隠された、人々の心の声。

僕は、あの事件を通して、人々の感情が時の流れに刻み込まれることの重みを知った。そして、真実が常に音として、どこかで響き続けている可能性に気づいた。僕の能力は、まだ誰も聞いたことのない物語を語り続けるだろう。それは、喜びであり、悲しみであり、そして時には、救いを求める静かな叫びである。

僕は、もう自分の能力を疎むことはない。むしろ、この耳でしか聞こえない「音」を、真実の証言として、人々に伝えられる存在になりたいと強く願うようになった。僕の物語は、これからも「音」と共に紡がれていく。この世界の片隅で、時が奏でる、無数の残響を聴きながら。

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