インクに込めた祈り

インクに込めた祈り

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第一章 奇妙な来訪者

神保町の古書店『時雨堂』の空気は、いつも静かに澱んでいた。古紙の匂いと、微かな黴の気配。そして、店主である神崎隼人(かんざきはやと)の心に溜まった澱と、それはよく似ていた。窓から差し込む午後の光が、埃を金色に照らし出し、まるで時が止まった標本のように見せる。

あの日も、隼人はカウンターの奥で、値付けの終わった文庫本を無心に磨いていた。客はまばらで、ページをめくる乾いた音だけが響く。そんな静寂を破ったのは、ドアベルの涼やかな音色だった。

入ってきたのは、喪服のような黒いワンピースを着た若い女性だった。雨の日でもないのに、彼女の周りだけがしっとりと濡れているような不思議な雰囲気があった。彼女は店内を一瞥すると、迷いのない足取りでカウンターへ直進してきた。

「神崎隼人さん、ですね」

落ち着いた、けれど芯のある声だった。隼人は訝しげに顔を上げる。見覚えのない顔だ。

「……いかにも」

「これを、あなたに預かっていただきたくて」

女性はそう言って、小さな桐の箱をカウンターに置いた。隼人が視線を落とすと、それは使い込まれた美しい蒔絵の万年筆だった。軸には、夜空に浮かぶ三日月が描かれている。

「はあ……。当店は質屋ではございませんが」

「存じております。これは質草ではありません。あなた自身のためのものです」

女性は、隼人の目を真っ直ぐに見つめて言った。「その万年筆は、特別なのです。未来のあなたが書いた手紙を、今のあなたに届けてくれます」

未来の、自分が? 荒唐無稽な言葉に、隼人の眉がかすかに動いた。この女は一体何を言っているんだ。

「おかしなことを。新手の詐欺ですか」

「信じなくても結構です。ですが、どうか捨てずに持っていてください。必ず、あなたの力になりますから」

女性はそれだけ言うと、深く一礼し、風のように店を出て行った。残されたのは、からん、というドアベルの音と、カウンターに置かれた桐の箱、そして隼人の心に生まれた小さなさざ波だけだった。

その夜、隼人は結局、その万年筆を捨てることもできず、自室の机の引き出しに仕舞い込んだ。馬鹿馬鹿しい。そう思いながらも、心のどこかで奇妙な期待が芽生えているのを自覚していた。亡き妹・美咲を事故で失ってから三年。隼人の時間は、あの雨の日の交差点で止まったままだった。未来なんて、彼にとっては意味のない言葉のはずだった。

翌朝。枕元で携帯のアラームが鳴る前に、隼人は目を覚ました。何か、いつもと違う気配を感じたからだ。シーツの上に、一枚の便箋が置かれている。昨日の万年筆と同じ、三日月の透かしが入った上質な紙。そこに綴られていたのは、間違いなく自分の筆跡だった。

『今日の午後、古書店に赤い傘を差した女性が訪れる。彼女が探している本は、郷土史の棚の上から三段目、右から五番目にあるはずだ』

差出人の名はない。だが、インクの掠れ具合まで、自分の癖と寸分違わなかった。未来の自分からの、第一の手紙だった。

第二章 未来からの囁き

手紙の予言は、現実になった。午後二時を少し過ぎた頃、店のドアベルが鳴り、鮮やかな赤い傘を持った女性が入ってきた。彼女は困った顔で郷土史の棚を探し始め、隼人が手紙の通りに場所を教えると、満面の笑みで礼を言った。偶然にしては、出来過ぎている。

その日から、隼人の朝は枕元の手紙を確認することから始まった。

『夕食はカレーにするといい。冷蔵庫の奥に、忘れられた福神漬けがある』

『店を出る時、傘を忘れるな。夕方から雨が降る』

『今日は美咲が好きだった金木犀の香りが、街のどこかでするだろう』

予言は、どれも些細なことばかりだった。だが、その一つ一つが、灰色だった隼人の日常に、小さな彩りを与え始めた。忘れられていた福神漬けを見つけた時の微かな驚き。予報になかった雨に濡れずに済んだ安堵感。そして、街角でふと漂ってきた金木犀の甘い香りに、思わず足を止めた時、隼人は久しぶりに妹の笑顔を鮮明に思い出した。涙ではなく、温かい記憶として。

手紙は、隼人だけが知るはずの過去にも触れてきた。

『子供の頃、隠したタイムカプセルのことを覚えているか。あの樫の木は、まだ公園にある』

隼人は半信半疑で、何年も近づかなかった公園へ足を運んだ。錆びついたスコップで土を掘り返すと、果たしてそこには、泥のついたブリキ缶があった。中から出てきたのは、色褪せた漫画の付録と、妹の美咲が書いた拙い文字の手紙。『おにいちゃんへ。おとなになっても、ずっといっしょにいようね』。隼人はその手紙を握りしめ、声もなく泣いた。

未来の自分は、なぜこんな手紙を送ってくるのだろう。過去の傷を癒すためか? それとも、何かを伝えようとしているのか。あの万年筆を届けに来た黒い服の女性は、一体何者だったのか。謎は深まるばかりだった。

手紙は、隼人を少しずつ変えていった。閉ざしていた心の扉が、ほんの少しだけ開いた。客との会話が苦にならなくなり、店の掃除にも熱が入るようになった。止まっていた時間が、ゆっくりと動き出すのを感じていた。

だが、隼人はまだ気づいていなかった。手紙が彼を導く先にあるものが、単なる心の慰めなどではないことを。そして、その囁きが、未来からではなく、もっと切ない場所から届いているということを。

第三章 交差点の真実

季節が移ろい、街路樹が葉を落とし始めたある朝。いつものように枕元に置かれていた手紙を手に取った隼人は、息を呑んだ。そこに書かれていたのは、今までとは全く違う、冷たく鋭い命令だった。

『今日の午後三時、美咲が事故に遭ったあの交差点へ行け。すべての真実が、そこで待っている』

心臓が氷の塊になったように冷えた。あの交差点。三年間、意識して避け続けてきた場所。美咲が彼の目の前で車にはねられた、呪われた場所だ。「僕があの時、美咲の手をしっかり握っていれば」。その罪悪感が、隼人をずっと苛んできた。

行きたくない。だが、行かなければならない。手紙の送り主――未来の自分は、何を暴こうとしているのか。隼人は震える手でコートを掴むと、時雨堂を飛び出した。

午後三時、少し前。目的の交差点には、冷たい風が吹き抜けていた。隼人が信号待ちの列に加わると、すぐ隣に見知った気配を感じた。振り返ると、そこにいたのは、あの黒いワンピースの女性だった。彼女は隼人を待っていたかのように、静かに微笑んだ。

「……あなたが、呼んだのですか」

「ええ。あなたが、真実と向き合う時が来たと思ったから」

彼女は言った。「神崎さん。あの手紙を書いていたのは、未来のあなたではありません」

隼人の思考が停止する。何を、言っている? あれは紛れもなく、自分の筆跡だった。

「手紙を書いていたのは……あなたの妹さん。美咲さんです」

青信号が点滅を始める。行き交う人々の流れだけが、現実のもののようだった。隼人の世界は、音を立てて崩れていく。

「嘘だ……。美咲は、三…年前に……」

「亡くなる、数ヶ月前のことです」と、女性は続けた。「私の名前は沙織と言います。美咲の、親友でした」

沙織と名乗った女性は、静かに語り始めた。美咲は事故で亡くなったのではない。彼女は不治の病を患っており、自分の余命が長くないことを知っていたのだ、と。

「美咲は、自分のことよりも、あなたのことを心配していました。自分が死んだら、優しいお兄ちゃんはきっと自分を責めて、心を閉ざしてしまうだろうって。だから、あなたのために、未来への贈り物を遺すことにしたんです」

未来の手紙。それは、美咲が隼人の未来を想像しながら、来る日も来る日も書き綴った、祈りの手紙だった。隼人の筆跡を、何度も何度も練習して。

「『赤い傘の女性』は、私が頼んだ役者です。『探していた本』は、私がこっそり棚に戻しました。『タイムカプセル』のことも、昔、美咲から聞いて覚えていたんです。全部……あなたを過去の呪縛から解き放つための、美咲が仕組んだ、優しい嘘だったのよ」

病室のベッドの上で、日に日に弱っていく体で、それでも兄の未来の笑顔だけを願ってペンを走らせる妹の姿が、隼人の脳裏に鮮やかに浮かんだ。あの万年筆は、美咲が隼人の誕生日に渡そうと、大切に用意していたものだった。

「事故は……」

「ええ。あれは、本当にただの事故でした。でも、病気で動けなくなる前に、あなたと一緒にいたかった。最期の思い出を作りたかった。そう言って、あの日、無理に外出したんです。皮肉なものですね。彼女は、病気で死ぬことからだけは、逃れられた」

涙が、隼人の頬を止めどなく伝った。それは、三年間流し続けた罪悪感の涙ではなかった。自分は、妹の死の理由すら知らずに、勝手に自分を責め、苦しんでいた。だが、妹はそんな兄を責めるどころか、その深い愛情で、未来の自分を救おうとしてくれていた。

未来からの手紙だと思っていたものは、愛する妹からの、過去からの贈り物だったのだ。

第四章 君が編んだ明日

沙織はそっと、隼人に最後の手紙を差し出した。それは封筒に入れられ、宛名には『未来のお兄ちゃんへ』と、少しだけ震えた美咲自身の文字で書かれていた。

時雨堂に戻った隼人は、店の奥で、震える手でその封を開けた。

『お兄ちゃんへ

この手紙を読んでいる頃、私はもう、お兄ちゃんの隣にはいないんだね。ごめんね。ずっと黙っていて。

お兄ちゃんは、きっと自分のせいだって思ってるでしょ。違うよ。全然違う。お兄ちゃんは、私の自慢の、世界一優しいお兄ちゃんだよ。だから、もう自分を責めないで。

私が遺した手紙は、お兄ちゃんを少しでも笑わせることができたかな。未来のお兄ちゃんが、美味しいものを食べて、綺麗なものを見て、時々、私のことを思い出して笑ってくれたら、私はそれだけで幸せです。

私の分まで、たくさん生きて。たくさん笑って。未来のお兄ちゃんが自分で書く物語は、きっと、すごくすごく、幸せな物語になるはずだから。

愛を込めて。

追伸。あの万年筆、使ってね。未来の物語を、そのペンで綴ってね』

手紙を読み終えた時、隼人の心を満たしていたのは、悲しみではなく、温かく、そして少しだけ切ない、途方もないほどの愛情だった。妹が命を賭して紡いでくれた未来。それを無駄にすることなど、できるはずがなかった。

数日後、隼人は店の棚の奥から、埃をかぶったままになっていた一冊のノートを取り出した。それは、彼が昔、小説家を夢見ていた頃に使っていた日記帳だった。

彼は机に向かい、美咲が遺してくれた三日月の蒔絵の万年筆を、そっと手に取った。ひんやりとした感触が、指先に優しい。キャップを外し、インクが紙に染みていく感覚を確かめるように、ゆっくりとペンを走らせる。

未来の誰かからの手紙ではない。過去からの祈りでもない。今を生きる、神崎隼人自身の物語を。

ノートの新しいページに、彼が記した最初の一文は、こうだった。

『今日、空は泣きたくなるほど青かった。そして、僕は新しい一歩を踏み出す』

インクに込められた妹の祈りは、たしかに兄の心に届いた。止まっていた時は動き出し、古書店の澱んだ空気は、窓から差し込む新しい光によって、浄化されていく。隼人の物語は、まだ始まったばかりだった。

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