色彩のない真実

色彩のない真実

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第一章 灰色の依頼人

古びたインクと紙の匂いが満ちる空間。水城蓮(みずき れん)の世界は、この古書店の静寂に守られていた。彼は、感情を色として見る共感覚の持ち主だった。人の喜びは柔らかな山吹色に、悲しみは心に染みる深い藍色に、そして嘘は、信頼という名の純白のキャンバスを汚す、淀んだ灰色に見える。その能力は、かつて刑事だった彼を蝕んだ。誰も信じられなくなり、人の世の色彩から逃れるように、彼は言葉だけが積み上げられたこの場所に辿り着いたのだ。

店のドアベルが、澄んだ音色とともに錆びた孤独を揺らした。入ってきたのは、桐島咲(きりしま さき)と名乗る若い女性だった。蓮の数少ない友人だった男の、妹だという。彼女の周囲には、輪郭を震わせる紫紺色のオーラ――恐怖――と、雨のように降り注ぐ青い粒子――悲しみ――が漂っていた。だが、そこに嘘を示す灰色は一片もなかった。

「兄が……桐島航が、消えたんです」

絞り出すような声は、彼女の纏う色彩と同じくらいに切実だった。著名な物理学者である兄が、一週間前から行方不明なのだという。警察は家出として真剣に取り合ってくれない。彼女は震える手で、一枚の便箋を差し出した。

『僕を捜さないでくれ。僕は、この世界から消されたんだ』

インクが滲んだその文字からは、絶望を示すどす黒い色が、まるで染みのように広がっていた。世界から、消された? 突拍子もない言葉だった。だが、咲の純粋なまでの悲しみの色は、蓮の閉ざした心を静かに叩いた。

「兄は嘘をつく人ではありません。何か、私たちの理解できない恐ろしいことが起きたんです」

彼女の瞳から溢れるのは、一点の曇りもない、兄を信じる想いの色。蓮は、久しぶりに他人の感情の奔流に正面から向き合っていた。灰色に塗れた人間の世界に嫌気がさしていたはずなのに、その混じり気のない色彩が、彼の心を惹きつけてやまなかった。

「……分かった。少しだけ、力を貸そう」

その言葉を口にした瞬間、蓮は自らの周りに、忘れていた淡い好奇心の色が灯るのを感じた。それは、埃をかぶった古い書物のページを、もう一度開いてみようとする衝動に似ていた。

第二章 金色と灰色の証言

桐島航の研究室は、大学の一角にあり、異様なほど整然としていた。まるで主がほんの数分前に席を立ったかのように、飲みかけのコーヒーカップが置かれている。しかし、窓も扉も内側から施錠された、完全な密室だった。警察は、航が隠し持っていた合鍵で自ら外に出たのだろうと結論づけた。だが、蓮にはそれが腑に落ちなかった。

部屋の中央には、複雑な配線が絡み合った巨大な実験装置が鎮座している。壁のホワイトボードは、常人には理解不能な数式で埋め尽くされていた。「多世界解釈」「時間遡行の可能性」。航は、人類の常識を覆す領域に足を踏み入れていたようだった。

「兄は、この研究に人生を懸けていました」

咲が、兄の机に残された家族写真に触れながら呟く。その指先から、温かいピンク色の愛情が滲み出ていた。

蓮は、航の共同研究者である西野教授に話を聞くことにした。初老の教授は、憔悴しきった表情で蓮たちを迎えた。

「桐島くんは天才だった。だが、最近は少し焦っているようにも見えた。研究に行き詰まり、気分転換にどこかへ旅に出ただけじゃないかね」

その言葉と同時に、蓮の視界に、あの嫌悪すべき「淀んだ灰色」が広がった。濃く、粘りつくような嘘の色。西野は何かを隠している。蓮は確信した。

「教授、航さんの失踪当日、あなたはこの研究室にいませんでしたか? この部屋には、あなたのものと思われる指紋が多数残されていました」

蓮が静かに問い詰めると、西野の纏う灰色が激しく揺らぎ始める。恐怖を示す紫紺色が混じり、オーラが醜く濁っていく。

「し、知らない! 私は何も……」

「嘘ですね」

蓮の冷たい一言に、西野は観念したように肩を落とした。

「……彼の研究データを、少し拝借しようとしていただけだ。彼の才能に嫉妬していたのは事実だ。だが、彼の失踪には本当に関わっていない! 信じてくれ!」

西野が最後の言葉を叫んだ瞬間、蓮は奇妙な光景を見た。彼の言葉を包むオーラは、嘘を示す「灰色」と、なぜか真実を示す「澄んだ金色」が、マーブル状に混じり合っていたのだ。嘘の中に、一片の真実が混在している。こんな色は、今まで一度も見たことがなかった。西野は一体、何を隠し、何を信じているというのか。謎はさらに深まっていくばかりだった。

第三章 ありえない真実の色

航が残した研究ノートを、蓮は咲と共に一枚一枚めくっていった。難解な数式が続く中、最後のページに、万年筆で書かれた走り書きを見つけた。そこには、一つの数式と、短いメッセージが記されていた。

『ψ(t) = Σcnψn(0)e^(-iEnt/ħ)』

『西野を信じるな。だが、彼を許せ』

数式の意味は蓮には分からない。だが、メッセージは明確だった。西野はやはり何かを知っている。そして航は、西野が嘘をつくことを見越した上で、彼を許せと伝えている。この矛盾は何だ?

蓮は再び西野の元へ向かった。研究室で一人、顔を覆っていた教授は、蓮の姿を見ると、まるで亡霊でも見たかのように怯えた。

「もう、やめてくれ……私には話せることがない」

西野の周囲には、罪悪感を示す暗緑色と、恐怖の紫紺色が渦巻いていた。

「航さんは、あなたに許せと書き残していた。あなたを責めるつもりはない。ただ、真実が知りたい。あの日、ここで何があったんですか?」

蓮の静かな、しかし真に迫った声に、西野の心のダムが決壊した。彼はわなわなと震えながら、ゆっくりと顔を上げた。その目は虚空を見つめ、あの日を再現しているかのようだった。

「あの日、私は彼のデータを盗もうと研究室に忍び込んだ。だが、桐島くんはまだ残っていた。彼は装置の最終調整をしていたんだ……。私が声をかけると、彼は振り向き、こう言った。『成功です、西野先生。新しい世界への扉が、今開きます』と……。その直後だった。装置が、今まで見たこともない光を放ち、激しい衝撃音が響き渡った。私は思わず目を閉じた。次に目を開けた時……桐島くんは……」

西野は言葉を切り、ごくりと唾を飲んだ。彼の口から、信じがたい言葉が紡がれる。

「彼は、光の粒子になって……目の前で、消えたんだ。跡形もなく。彼は死んだんじゃない。実験は成功したんだ。彼は……彼は、別の次元に跳んだんだ!」

その瞬間、蓮の世界が揺らいだ。西野の言葉。荒唐無稽な、SF小説のような戯言。だが、彼の全身から放たれるオーラは、一点の曇りもない、神々しいまでの「澄んだ金色」だったのだ。嘘の灰色は、一片たりとも混じっていない。純度百パーセントの、真実の色。

蓮は混乱した。頭が割れるように痛む。目の前の男は狂っているのか? それとも、自分のこの眼が、この能力が、ついに壊れてしまったのか? 自分が信じてきた世界の法則と、絶対だと信じてきた自らの能力が、正面から衝突し、音を立てて崩れ去っていく。金色に輝く狂気を前に、蓮は立ち尽くすしかなかった。

第四章 色彩のない真実

古書店に戻った蓮は、書架の壁に背を預け、ゆっくりと崩れ落ちた。金色の狂気。ありえない真実。彼は、自らの能力の本質について、初めて深く思考していた。この眼は、本当に「客観的な真実」を映し出していたのだろうか。それとも――。

ひとつの答えが、まるで啓示のように彼の脳裏に閃いた。

この能力は、世界の真理を暴くものではない。ただ、目の前の人間が「何を心の底から信じているか」を映し出す、ただの鏡なのだ。

西野は、航の死という耐えがたい現実を直視できなかった。おそらく、装置の欠陥を知りながら黙っていたという罪悪感もあったのだろう。その罪悪感と衝撃から逃れるため、彼は自らの中で物語を創り上げたのだ。「航は死んだのではなく、異次元へ旅立ったのだ」と。その物語を、彼は心の底から、一点の疑いもなく信じている。だからこそ、彼の言葉は「澄んだ金色」に輝いて見えたのだ。

『西野を信じるな。だが、彼を許せ』

航のメッセージの意味が、今なら分かる。彼は、西野が嘘をつくこと、そしてその嘘が、彼の弱さから生まれることを見抜いていた。だからこそ、その弱さを許せと、妹に伝えたかったのだ。

本当の真相は、おそらく装置の暴走による悲劇的な事故死。だが、その色彩のない事実を、蓮は咲に伝えるべきだろうか。

数日後、蓮は咲を店に呼んだ。彼女の纏う悲しみの青は、以前よりも少しだけ薄れていた。

「水城さん、兄のことで、何か分かりましたか?」

蓮は、ゆっくりと口を開いた。

「航くんは、僕らが想像もできないような、偉大な発見をした。そして、新しい世界へと旅立ったんだ。彼のノートがそれを証明している」

蓮は、航の研究が成功したのだと語った。西野が見た光景は、その証なのだと。それは、西野が創り上げた物語に乗っかった、完全な嘘だった。だが、蓮は自分の言葉から、どんな色が放たれているのかを意識した。

「だから、彼を信じて待っていてあげてほしい。君が信じている限り、彼はきっと、どこかの世界で研究を続けているはずだ」

咲の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。しかし、彼女の周囲に漂う色は、悲しみの青だけではなかった。兄への誇りを示す黄金色の光と、未来への希望を示す柔らかな若草色が、オーラとなって優しく彼女を包み込んでいた。

「……はい。ありがとうございます。私、信じます」

咲が深々と頭を下げて店を出ていく。その背中を見送りながら、蓮はガラス窓に映る自分の姿を見た。驚いたことに、そこには何の色も映っていなかった。ただ、透明な、それでいて温かい何かが、自分の内側から静かに湧き上がってくるのを感じた。

絶対だと思っていた能力の限界を知り、蓮は初めて、世界の複雑さと人間の心の不可思議さを受け入れた。真実には、客観的な事実という形もあれば、人を救うために存在する物語という形もある。彼は、色だけでは測れない世界の深淵に触れたのだ。

静寂が戻った古書店で、蓮は一冊の古い本を手に取った。インクと紙の匂いが、今はただ心地よかった。色彩から解放された世界で、彼はこれから、言葉の中に隠された、もっと多くの物語を見つけていくのだろう。それは、果てしなく豊かで、そして優しい世界に違いなかった。

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