約束の森のレクイエム

約束の森のレクイエム

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第一章 約束の訪問者

高槻湊(たかつきみなと)の世界は、埃とインクと古い紙の匂いで満たされていた。祖父から受け継いだ古書店「時雨堂」の片隅で、彼は本の森に埋もれるようにして日々を過ごしていた。窓から差し込む午後の光が、宙を舞う無数の塵を金色に照らし出す。それはまるで、忘れられた言葉の精霊たちのようだった。人付き合いを苦手とする湊にとって、この静寂こそが安息だった。

その静寂を破るように、ちりん、とドアベルが乾いた音を立てた。現れたのは、雨に濡れた紫陽花のような儚げな雰囲気を持つ女性だった。年は湊と同じくらいだろうか。藤宮栞(ふじみやしおり)と名乗った彼女は、一冊の本を探していると、震える声で告げた。

「『約束の森』という本をご存知ありませんか。作者は、確か……」

「水無月(みなづき)しずく。今はもう絶版の、古い童話ですね」

湊は、記憶の棚から即座にその名を引っ張り出した。栞の瞳が、驚きと期待でわずかに見開かれる。

「ご存知なのですね!ぜひ、譲っていただけないでしょうか」

「申し訳ありませんが、あれは売り物ではないんです。祖父の遺品で……個人的に大切なものですから」

湊の言葉に、彼女の肩が小さく落ちる。しかし、栞は諦めなかった。彼女は、その本をただ読みたいわけではないのだと言った。

「一年前に、恋人を亡くしました。彼が……一ノ瀬樹(いちのせいつき)が、亡くなる前に言っていたんです。『もし僕に何かあったら、時雨堂にある『約束の森』の三十八ページを読んでほしい。そこに、僕の本当の気持ちを遺したから』と」

樹という名の恋人は、事故で突然この世を去ったのだという。彼女の瞳は、癒えない悲しみの色をたたえながら、必死に湊に訴えかけていた。

「彼の最後の言葉なんです。そのメッセージを見つけなければ、私は……私はきっと、一生前に進めない」

湊は戸惑った。他人の深い事情に足を踏み入れるのは、彼の最も避けてきたことだった。しかし、目の前の女性の切実な眼差しが、彼の心の扉を執拗に叩く。それは、まるで自分自身の孤独に呼びかけているかのようだった。長い沈黙の後、湊はため息とともに呟いた。

「……わかりました。お貸しすることはできませんが、ここで一緒に探すことだけなら」

その言葉に、栞の表情がぱっと明るくなる。それは、厚い雲間から差し込んだ一筋の光のように、湊の世界をかすかに照らした。

第二章 嘘つきの葉

店の奥、祖父の書斎だった小部屋から、湊は埃をかぶった『約束の森』を持ち出してきた。深い森の色をした装丁は、長い年月を経て角が擦り切れている。二人はカウンターに向かい合い、緊張した面持ちで本を開いた。

栞が震える指でページをめくり、目的の三十八ページを開く。しかし、そこに書き込みの類いは一切なかった。あるのは、インクで印刷された物語の一節だけだ。

『森の賢者は言いました。ほんとうの宝物は、目に見える場所にはないのだよ、と。そして、嘘つきの葉に、ひとひらの真実を隠したのです』

「嘘つきの葉……?」栞が首を傾げる。

「この一文が、彼が遺したヒントなのかもしれません」

湊は古書鑑定用のルーペを取り出し、ページを隅々まで調べ始めた。インクの滲み、紙の繊維、光に透かしたときの影。彼の専門知識が、無味乾燥なページに隠された意味を探っていく。栞は、その真剣な横顔を見つめながら、ぽつりぽつりと恋人の思い出を語り始めた。

樹は、星空を見上げるのが好きな、ロマンチストな人だったこと。少し不器用で、大切なことはいつも遠回しにしか伝えられなかったこと。そして、この『約束の森』という童話が、彼にとって特別なお守りのような本だったこと。

「彼はいつも、この物語の王子様に自分を重ねていました。愛するお姫様のために、どんな困難にも立ち向かう王子様に」

語りながら、栞の目には涙が滲んでいた。湊は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。人の過去に触れるたび、彼は自分の心の壁が少しずつ溶けていくのを感じていた。栞の純粋な想いが、乾いた彼の心に染み渡っていくようだった。

数日が過ぎた。二人はあらゆる可能性を試した。特定の文字を拾い読みするアナグラム、ページを折って作る図形、栞の誕生日や記念日とページ数を結びつける方法。だが、どれも意味のあるメッセージにはならなかった。「嘘つきの葉」という謎は、深い森のように二人を惑わせるばかりだった。諦めにも似た空気が漂い始めた頃、湊はふと、あることを思いついた。

第三章 時を超えた告白

湊は店の奥深く、何年も開けていなかった祖父の古い机の引き出しを開けた。目当ては、祖父がつけていた業務日誌だ。何気なくページを繰っていた湊の手が、ある記述の上でぴたりと止まった。

『――一ノ瀬樹と名乗る青年、来店。『約束の森』をたいそう気に入り、熱心に読んでいく。この本の本当の秘密を、彼にだけは打ち明けてしまった。若き日の私と妻の物語。彼もまた、愛する人のために、この物語を必要としていたのだろう』

湊は息をのんだ。日誌の別の箇所には、さらに衝撃的な事実が記されていた。『約束の森』の作者、水無月しずくとは、若き日の祖父が使っていたペンネームだったのだ。この童話は、彼が病弱だった妻――湊の祖母――のために書き下ろした、たった一人の読者のための物語だった。

心臓が早鐘を打つ。樹は、この本の秘密を知っていた。そして祖父は、彼に何かを託していた。

「嘘つきの葉……」湊は呟いた。「ページが嘘をついているんだとしたら?」

三十八ページという数字そのものが、樹の仕掛けた罠、ミスディレクションだったとしたら?湊は再び『約束の森』を手に取った。彼の脳裏に、古書の構造に関する知識が閃光のように駆け巡る。そして、ある一点に行き着いた。

「栞さん、光を……」

湊は栞にスマートフォンのライトを点けるよう頼むと、本の表紙をめくった直後にある、何も印刷されていない真っ白なページ――「遊び紙」と呼ばれる部分を、特定の角度から照らした。

すると、奇跡が起きた。一見、ただの空白にしか見えなかった紙の上に、鉛筆で書かれた淡い文字の影が、亡霊のようにゆっくりと浮かび上がってきたのだ。

栞が息をのむ。そこに綴られていたのは、彼女が待ち望んでいた甘い愛の言葉ではなかった。それは、樹の魂からの、あまりにも切ない告白だった。

『栞へ。

君を愛している。心の底から。だからこそ、僕は君を自由にしなくてはならない。

僕の病気は、もう治らないんだ。君の隣で、未来を共に歩むことはできない。だから、僕のことは忘れて、君の人生を生きてほしい。

僕が事故で死んだと聞かされるだろう。それも、僕が仕組んだ最後の嘘だ。君をこれ以上、苦しめたくないから。

このメッセージを探すという約束は、君を縛り付けるためのものじゃない。君が僕の死を乗り越え、前を向くための、僕からの最後の贈り物だ。

どうか、幸せに。君を過去に縛り付けていたのは、僕の思い出ではなく、この「約束」という名の呪いだったのかもしれない。

さようなら、僕の愛しい人。

――樹』

樹は事故死ではなかった。不治の病に侵され、自らの運命を悟った彼は、栞の未来のために、自らの存在を静かに消したのだ。謎のメッセージは、栞が彼の本当の想いに辿り着き、悲しみを乗り越えてくれることを願った、樹の最後の祈りであり、壮大なミステリーだった。

第四章 開かれた扉

栞はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。しかし、その涙は絶望の色をしていなかった。一年間、彼女の心を苛んできた「なぜ?」という問い。その答えが、樹からの最も深い愛情の形となって、今ようやく彼女の元に届いたのだ。彼女を縛っていた謎という名の鎖が、音を立てて解けていく。それは、悲しいけれど、温かい解放だった。

数日後、時雨堂を訪れた栞の表情は、雨上がりの空のように澄み切っていた。

「湊さん、本当にありがとうございました」

彼女は深々と頭を下げた。「私は、彼のおかげで、そして湊さんのおかげで、やっと自分の時間を歩き始めることができます」

そう言って微笑んだ彼女は、最初に来た時とは別人のように、強く、美しく見えた。

栞が去った後、湊は一人、店の中に佇んでいた。窓から差し込む光は、あの日と同じように埃を金色にきらめかせている。だが、今の彼には、それがもう忘れられた言葉の精霊のようには見えなかった。それは、これから生まれる新しい物語の、希望の光のように思えた。

彼は『約束の森』をそっと手に取る。祖父と祖母の愛の物語。樹と栞の、切ない別れの物語。一冊の本が、時を超え、人と人とを結びつけた。想いは、記憶は、こうして受け継がれていくのだ。

人との関わりを恐れ、本の森に閉じこもっていた自分。湊は、ゆっくりと店の扉に手をかけた。ぎい、と重い音を立てて開かれた扉の向こうには、喧騒と、生命力に満ちた世界が広がっている。

湊は、眩しさに少しだけ目を細め、そして、確かな一歩を外へと踏み出した。

世界はまだ、知らない物語で満ちている。そして、彼自身の新しい物語が、今、静かに始まろうとしていた。

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