第一章 濁った不在
音葉奏(おとは かなで)の世界は、色に満ちていた。だがそれは、絵の具や光が織りなす色彩ではない。人の言葉が放つ、真偽のオーラだった。真実は澄み切った水晶のように透明で、嘘は淀んだ泥水のような濁った色を帯びて奏の目に映る。この共感覚は、彼女から人への信頼を静かに奪い、古書の修復師という、紙とインクの沈黙に満ちた仕事へと導いた。
そんな彼女にとって、水城怜(みずき れい)は唯一の例外だった。高名な脳科学者であり、記憶研究の第一人者。怜が語る言葉は、常に純粋な探究心と優しさに満ちた透明な色をしていた。だからこそ、電話口で告げられた警察からの知らせは、奏の世界そのものを根底から揺るがす、ありえない不協和音だった。
「水城怜さんが、ご自身の研究室で亡くなっているのが発見されました。……遺書のようなメモがあり、我々は自殺と見ています」
嘘だ。その言葉を発した刑事の声には、職務遂行の淡々とした色しか見えない。だが、怜が自ら死を選ぶはずがない。つい三日前、怜は興奮した様子で奏に電話をかけてきたばかりだったのだ。
「奏、聞いてくれ!もうすぐなんだ。記憶はね、ただの記録じゃない。過去を癒し、未来を紡ぐための設計図なんだよ。僕の研究が、それを証明する!」
あの時の怜の声は、夜明け前の空のように希望に満ちた、美しい藤色をしていた。そんな人間が、なぜ。
いてもたってもいられず、奏は警察の許可を得て、怜の研究室を訪れた。そこは怜の頭脳そのもののような空間だった。壁一面の本棚、複雑な配線が絡まる実験装置、そしてホワイトボードには、解読不能な数式がびっしりと書き殴られている。部屋の中心には、怜が座っていたであろう椅子がぽつんとあり、床にはチョークで人の形が描かれていた。争った形跡はなく、すべてが整然としている。ただ、主だけがいない。その不在が、部屋の空気を重く濁らせていた。
「音葉さん、ですね」
振り返ると、憔悴しきった顔の青年が立っていた。年の頃は二十代半ばだろうか。真っ直ぐな瞳が印象的だった。
「博士の助手を務めておりました、伊吹(いぶき)と申します。先生には、本当にお世話に……」
言葉を詰まらせる彼の声は、悲しみで震えていた。奏は、彼の全身から放たれるオーラを凝視する。そこには、深い哀悼を示す、一点の曇りもない澄んだ色が広がっていた。
「警察から何か聞いていますか?」奏は尋ねた。
「いえ……ただ、先生が遺されたメモが……」
伊吹が指さした机の上には、一枚のカードが置かれていた。『私の記憶は、ここで終わる』。怜の筆跡だ。だが、その言葉は何の感情も伝えてこない。まるで無機質なプログラムの終了コマンドのようだった。
「先生は、最近少し思い詰めていらっしゃるようにも見えました。研究が、大きな壁にぶつかっていたのかもしれません」
伊吹は俯きながら言った。その言葉もまた、嘘偽りのない、透明な色をしていた。
奏は混乱していた。怜が自殺するはずがないという確信と、目の前の青年の言葉に嘘がないという、自らの能力が示す事実。二つの真実が、彼女の中で激しく衝突していた。この部屋には、まだ奏の知らない「何か」が隠されている。それは、色では見ることのできない、もっと深い場所にある真実のような気がした。
第二章 沈黙の研究ノート
警察の捜査は早々に打ち切られ、怜の死は「研究に行き詰まった末の自殺」として処理されようとしていた。納得できるはずもなかった。奏は怜の遺族に頼み込み、彼の研究ノートを数冊、借り受けることに成功した。古書を修復する指先で、親友が遺した最後の思索の跡を辿る。ページをめくるたび、インクの匂いと共に、怜の息遣いが聞こえてくるようだった。
ノートは、怜の頭脳をそのまま写し取ったかのように、緻密なデータと大胆な仮説で埋め尽くされていた。彼の研究テーマは「記憶の再構築」。特に、トラウマとなる強烈な記憶を、無害な情報、あるいは幸福な記憶で「上書き」する技術の開発に心血を注いでいた。
「記憶とは、脳内に保存されたファイルではない。呼び起こされるたびに再構成される、流動的な物語なのだ」
ノートの余白に、怜の字でそう書かれていた。
読み進めるうち、奏は奇妙な記述に気づいた。「被験者I」というコードネームが、実験の記録に繰り返し登場するのだ。
『被験者Iに音階パターン8-dを提示。脳波に軽微な鎮静効果を確認』
『光刺激プロトコルγを照射。過去の断片的イメージの想起反応あり。ただし、強い情動ストレスを伴う』
実験は、危険と隣り合わせの領域に踏み込んでいるようだった。被験者Iとは、一体誰なのか。奏は再び伊吹に連絡を取った。カフェで向かい合った彼の瞳は、やはり純粋な悲しみの色を湛えている。
「博士の研究について、何か心当たりは?特に、被験者Iという人物について」
奏の問いに、伊吹は少し考え込むように視線を落とした。
「先生の研究は、非常にデリケートなものでしたから……被験者のプライバシーは固く守られていました。僕も、具体的なことは何も。ただ、先生はいつも言っていました。『この研究が成功すれば、過去の呪縛から解放される人がいるんだ』と」
彼の言葉は、どこまでも誠実だった。奏の能力は、彼の言葉の中に一片の嘘も見つけ出すことができない。奏は焦りを感じ始めていた。自分の持つこの絶対的なはずの「物差し」が、この事件の前では完全に無力だった。まるで、濃い霧の中でコンパスを失ったような感覚。自分の能力を疑い、怜の死の真相から遠ざかっていくような無力感が、じわじわと心を蝕んでいった。
「音葉さんは、先生の死が信じられないのですね」
伊吹が静かに言った。
「ええ」
「僕もです。でも……あのメモを見ると、先生は全てを悟って、自ら研究に殉じたのではないか、と……。そう思うしかないんです」
その言葉もまた、悲しいほどに透明だった。奏は、伊吹の言葉が真実であることを受け入れざるを得なかった。だが、それが怜の死の真相だとは、どうしても思えなかった。
第三章 偽りの記憶、真実の愛
調査は行き詰まった。奏は最後の手がかりを求め、もう一度、怜の研究ノートを一枚一枚、丹念に調べ直していた。その時、一番厚いノートの裏表紙に、わずかな膨らみがあることに気づいた。丁寧に裏表紙を剥がすと、中から一枚の古い写真と、黄ばんだ新聞記事の切り抜きがはらりと落ちた。
写真は、満開の桜の木の下で、幸せそうに微笑む親子三人。その中心にいる幼い少年は、紛れもなく伊吹だった。そして、新聞記事の見出しが、奏の目に突き刺さった。
『高速道路で多重衝突事故。〇〇さん夫妻死亡、同乗の長男は意識不明の重体』
日付は十五年前。奏は息を飲んだ。怜が、伊吹の過去を調べていた?記事の隅には、怜の小さなメモ書きがあった。「事故後、逆行性健忘と診断。事故前後の記憶を喪失」。
全てのピースが、音を立ててはまっていく。
「被験者I」。
それは、伊吹(Ibuki)のイニシャルだったのだ。
怜は、幼い頃に両親を目の前で亡くし、そのトラウマから記憶を失った伊吹を救うために、この研究を続けていたのだ。助手として側に置いたのも、彼を近くでケアし、治療の機会を窺うためだったに違いない。「この研究が成功すれば、過去の呪縛から解放される人がいる」。怜が言っていたその人とは、伊吹のことだったのだ。
奏は研究室へ走った。警察の封鎖はすでに解かれている。埃っぽい部屋の奥、怜が「記憶の揺り籠」と名付けた実験装置に駆け寄る。複雑なヘッドギアと、脳波を測定するモニター。奏は震える手で装置のメインコンピュータを起動した。幸いにも、最終実験のログが残されていた。
日付は、怜の死亡推定時刻と一致する。
ログには、照射された音波の周波数と、点滅する光のパターンが克明に記録されていた。それは、怜のノートにあった「トラウマ記憶を幸福な記憶で上書きする」ための、最終プロトコルだった。怜はあの日、伊吹の治療を完成させようとしていたのだ。
しかし、ログの最後は異常な数値で埋め尽くされていた。エラー、エラー、システム過負荷。安全装置が作動した記録。何らかの予期せぬトラブルで、装置が暴走したのだ。そして、その致死量レベルの光と音のシャワーを、怜は真正面から浴びてしまった。強烈な感覚情報が脳の処理能力を超え、彼の心臓を停止させた。それが、死の真相だった。密室で起きた、悲しい事故。
では、伊吹は?彼はその時、どこにいた?
ログをさらに解析すると、被験者用の椅子に座っていた人物の脳波データが記録されていた。それは、極度の緊張状態から、急速に深い安らぎの状態へと移行していることを示していた。
奏は悟った。伊吹は、その一部始終を見ていたのだ。敬愛する博士が、自分のために命を落とす瞬間を。しかし、暴走した装置から漏れ出た光と音は、伊吹の脳にも作用した。事故の衝撃的な記憶を消し去り、その代わりに、全く別の「偽りの記憶」を植え付けたのだ。
――博士は、長年の研究を完成させ、満足したように穏やかな顔で、安らかに旅立っていった。
だから、伊吹の言葉には一片の嘘もなかった。彼が語ったことは、彼の中で再構築された、紛れもない「真実」だったのだ。奏の能力が通用しなかったのは、彼が嘘をついていたからではない。彼が、あまりにも悲しい真実を、その身に刻まれていたからだった。
第四章 色彩のない鎮魂歌
真実の全てを知った奏は、深い沈黙の中にいた。警察に連絡し、事故の真相を伝えれば、怜の名誉は回復されるだろう。しかし、それは同時に、怜が命を懸けて施した最後の治療を、無に帰すことだった。伊吹に「真実」を告げることは、彼を再び過去の地獄に引きずり戻し、彼の心を永遠に破壊してしまうかもしれない。
奏は、生まれて初めて、自分の能力に背を向ける決意をした。
彼女は警察に一本の電話を入れた。「怜の研究室で、実験装置の不具合を示すログを見つけました。おそらく、事故だったのだと思います」。彼女は伊吹の存在を、そこから注意深く消し去った。
数日後、奏は伊吹を呼び出した。
「伊吹さん。博士の死は、装置の誤作動による事故だったようです」
「……事故……」
伊吹は呆然と呟いた。奏は彼の目を真っ直ぐに見つめて、続けた。
「博士の研究は、完成間近だった。あなたのような、過去に苦しむ人々を救うための研究が。博士の遺志を継ぐことが、一番の供養になるんじゃないでしょうか」
その言葉は、奏が紡いだ「優しい嘘」だった。だが、彼女の目には、その言葉が濁った色に見えることはなかった。ただ、怜への想い、伊吹への想いが、澄んだ光となって溢れているように感じられた。
伊吹の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……はい。僕が、先生の夢を……必ず」
彼の声は震えていたが、そこには新たな決意という、透明で力強い色が宿っていた。
奏は、人間不信の原因だった自らの能力が、初めて人を守るための「沈黙」を選ばせたことに、静かな感慨を覚えていた。絶対的な真実を暴くことだけが正義ではない。嘘と真実の境界線は、人が思うよりずっと曖昧で、その間には、無数の「想い」が揺らめいている。
数年後。奏は古書修復師の仕事を続けながら、時折、記憶障害を持つ人々が集う施設で、本の読み聞かせのボランティアをしていた。ある秋の日、一通の手紙が届いた。差出人は、怜の研究を引き継ぎ、若き研究者として活躍している伊吹からだった。
そこには、研究の成果によって多くの人が笑顔を取り戻しているという報告と共に、こう綴られていた。
『先生が最後に僕に見せてくれた、あの穏やかな顔を、今でも時々思い出します。あの顔が、僕の道標です』
奏は手紙を静かに閉じ、窓の外に広がる、どこまでも澄んだ空を見上げた。世界は、嘘と真実でできているのではない。誰かを想う心、守りたいと願う祈り、そうした無数の名もなき色彩で、こんなにも美しく彩られているのだ。
彼女は、静かに微笑んだ。それは、親友に捧げる、音も色もない鎮魂歌(レクイエム)だった。