虚構の断章、真実の終章

虚構の断章、真実の終章

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第一章 預言された死体

その知らせは、梅雨の湿気を纏った重い空気を切り裂くように、月森雫のデスクに届いた。日本のミステリー界の巨匠、久遠寺雅人、享年72歳。自宅書斎にて変死。警察は自殺の可能性が高いと発表した。しかし、雫は信じなかった。彼女が担当する編集者として、久遠寺の最新作「時の楔」のゲラが、先日彼の手元に届いたばかりだったからだ。彼は創作意欲に満ち溢れ、次の構想について熱く語っていた。そんな男が、自ら命を絶つはずがない。

久遠寺の書斎は、まるで時間の流れから切り離されたかのような、独特の空気に満ちていた。古書特有の黴と紙の匂い、そして微かなインクの香りが混ざり合い、視界の端には、埃を被った膨大な蔵書が壁一面にそびえ立っていた。室内は荒らされた形跡もなく、ただ、机の上に置かれた飲みかけのコーヒーカップと、万年筆が転がっていた。警察の捜査は一通り終わり、編集部が遺品整理のために立ち入ることが許可された。雫は久遠寺が最後に何を書いていたのかを知りたくて、彼の愛用するアンティークな書物台へと向かった。そこには、真新しい原稿用紙の束が置かれていた。タイトルは手書きで「虚構の断章」。未発表の作品だ。

「虚構の断章」と題されたその原稿は、奇妙なことに、既に完成されているかのような装丁で綴じられていた。ざらりとした厚手の表紙に、繊細な金の箔押し。通常、作家が死の直前まで執筆していた原稿は、書きかけの状態であることが多い。だが、これは違った。久遠寺が自らの死期を悟って、遺稿として遺したものなのだろうか。雫は胸騒ぎを覚えながら、最初のページを捲った。

物語は、老練なミステリー作家が、自宅の書斎で不可解な死を遂げる場面から始まる。そして、その作家が遺した未発表の原稿が、事件の謎を解く鍵となるという設定だった。雫は思わず息を呑んだ。現実の久遠寺の状況と酷似している。これは偶然なのだろうか。ページを繰るたびに、久遠寺の精緻な筆致が、まるで彼の声となって響くかのようだった。しかし、読み進めるうちに、雫の心にさらなる疑念が芽生えた。

原稿の最終章。そこには、作家が遺体で発見された状況が、あまりにも具体的に、そして現実と寸分違わない描写で綴られていた。まるで、久遠寺自身の死を「再現」しているかのようだ。だが、決定的な違いがあった。最終章の末尾に、日付が記されていたのだ。それは久遠寺の死亡日よりも一週間も先の未来の日付だった。「二〇〇五年七月二十七日」。今日の、いや、久遠寺が亡くなったのは七月二十日だ。雫は原稿を握りしめた手が震えるのを感じた。これは単なるフィクションではない。久遠寺雅人は、自らの死を、いや、未来に起こるであろう出来事を「予言」していたとでもいうのだろうか。もしそうなら、この「虚構の断章」は、彼の死の真実を解き明かすための、唯一無二のメッセージに他ならない。雫は、警察が「自殺」と結論付けた事件の裏に、もっと深い、そして恐ろしい謎が隠されていることを確信した。彼女は原稿を抱きしめ、硬く唇を噛みしめた。これは、久遠寺先生からの、最後の挑戦状なのだ。

第二章 未完の叙事詩

雫は「虚構の断章」を読み込みながら、原稿と現実との奇妙な符合点を徹底的に洗い出した。小説に登場する人物たちは、久遠寺雅人の身近な人間と見事に重なる。老作家を支える献身的な秘書「佐倉美奈子」。かつて久遠寺の弟子であったが、才能の限界を感じて去った、今は落ち目のミステリー作家「黒瀬慎吾」。そして、久遠寺と長年にわたり文学賞を争ったライバル作家「神崎龍之介」。雫は、彼らが久遠寺の死に何らかの形で関わっているのではないかという疑念を抱きながら、彼ら一人ひとりに接触を試みた。

佐倉美奈子は、久遠寺の死を受け入れられない様子で、憔悴しきっていた。彼女は久遠寺の書斎から「虚構の断章」が発見されたことを知ると、顔色を変えた。「先生は、あの原稿を『禁断の物語』と呼んでいました。決して世に出してはならないと……」美奈子の言葉は、雫の胸に重く響いた。禁断の物語。それは何を意味するのか。美奈子は久遠寺の執筆状況について、最近は少し様子がおかしかったと証言した。「夜中に突然、錯乱したように何かを書き始めたり、書いたものを破り捨てたり。まるで何かに憑りつかれたかのように……」彼女の証言は、原稿の「予言」めいた性質と相まって、雫をさらに混乱させた。

次に雫は、黒瀬慎吾を訪ねた。黒瀬は久遠寺とは疎遠になっていたものの、彼に対する複雑な感情を抱いているようだった。「あの人は、常に俺たち凡人には理解できない高みにいた。だが、同時にどこまでも人間臭く、弱さも抱えていた。自殺だと? 笑わせるな。彼は自分自身を殺すような男じゃない。もし誰かに殺されたのなら、それは彼の『物語』の中に殺されたんだ」。黒瀬の言葉は、まるで原稿の内容を暗示しているかのようだった。彼の言葉の端々からは、久遠寺への尊敬と、それと同等かそれ以上の複雑な羨望、そして嫉妬が滲み出ていた。黒瀬は、久遠寺の「虚構の断章」について尋ねると、顔をこわばらせた。「あの人は、過去にも現実と虚構が混じり合うような話をしていたことがある。俺には理解できなかったが、あれは単なる妄想ではなかったのかもしれないな……」

神崎龍之介は、久遠寺のライバルらしく、皮肉めいた態度で雫を迎えた。「久遠寺が死んだか。これでようやく、日本のミステリー界も少しは風通しが良くなるだろう」。しかし、その言葉とは裏腹に、彼の瞳の奥には深い悲しみが宿っているように見えた。神崎は久遠寺がかつて、ある文学賞を巡る「盗作疑惑」に巻き込まれたことがあったと明かした。その疑惑は結局、無実とされたが、久遠寺の心には深い傷を残したという。「彼はその事件を、いつか自分の作品で『昇華』すると言っていた。あの原稿が、それなのかもしれないな」。神崎の言葉は、雫に新たな視点を与えた。久遠寺は、過去の因縁を、この「虚構の断章」で清算しようとしていたのか。

「虚構の断章」は、ただのミステリー小説ではなかった。それは、久遠寺自身の人生を投影した、あるいは予言めいた要素を持つ、未完の叙事詩のように思われた。登場人物たちの証言は、原稿に新たな意味を持たせ、謎をさらに深めていった。雫は、久遠寺の死の背後にある、過去の因縁や、彼の心の内側に隠された闇を感じ始めていた。だが、なぜ「未来の日付」が記されていたのか。その疑問だけが、彼女の心に澱のように残り続けた。

第三章 原稿の影、己の姿

雫は「虚構の断章」の読解に没頭するうちに、奇妙な現象に遭遇し始めた。原稿の中に描かれた情景や、登場人物のセリフが、まるでデジャヴュのように、現実の自身の経験と重なる瞬間が増えてきたのだ。ある日の午後、雫は編集部のカフェテリアでコーヒーを飲んでいた。ふと、原稿のワンシーンが脳裏をよぎる。それは、主人公の女性編集者が、窓の外に降る雨を眺めながら、苦いコーヒーを飲む場面だった。その時、彼女の手元にあったカップが、急に熱を帯びたかのように感じられた。それは原稿の中で、主人公が事件の核心に近づくにつれて、感覚が鋭敏になっていく描写と酷似していた。彼女は次第に、原稿の登場人物の一人である、事件を追う若い女性編集者「月夜野静(つきよの しずか)」が、自分自身なのではないかという疑念を抱き始める。

この疑念は、雫の心に大きな動揺をもたらした。もし、自分が原稿の中の登場人物だとしたら、久遠寺は自身の死を「予言」しただけでなく、その「物語」の中に自分をも組み込んでいたことになる。それは、作家の傲慢な想像力の産物なのか、それとも、もっと恐ろしい真実が隠されているのか。雫の価値観は、根底から揺らぎ始めた。現実と虚構の境界線が曖昧になり、自身の存在すらも、久遠寺が仕組んだ壮大な物語の一部なのではないかという、哲学的な問いが心に渦巻いた。

ある夜、雫は書斎で「虚構の断章」の最終章を再び読み返していた。最終章の日付は、久遠寺の死亡日よりも未来の七月二十七日。そして、その章の最後のページには、事件の主人公である作家が「失踪」する描写が記されていた。警察は「自殺」と断定していたが、久遠寺の遺体は発見されていない。見つかったのは、彼の衣服と遺書だけだ。雫は、久遠寺が死んだのではなく、「失踪」したのではないかという可能性に思い至った。警察の「自殺」という結論は、状況証拠から導き出されたもので、決定的な証拠には欠けていたのだ。

その時、雫の脳裏に、かつて久遠寺が語っていた言葉が蘇った。「真の物語は、現実を凌駕し、作者自身をも飲み込むものだ」。

久遠寺は、自身の過去の「盗作疑惑」や、文学界における競争、そして自身の才能と向き合う中で、深い苦悩を抱えていたに違いない。彼は、その全てを清算するため、あるいは、これまでの「作家・久遠寺雅人」という存在から逃れるため、自らの失踪を「物語」として構築したのではないか。そして、その物語を世に出し、自身が作り出した虚構の世界へと姿を消すことで、真の自由を得ようとしたのではないか。

雫は、久遠寺の意図を理解した瞬間、全身に電撃が走ったような衝撃を受けた。原稿に記された「未来の日付」は、久遠寺が「失踪」を計画した日、あるいは、彼が作り上げた物語が「完成する日」を示していたのだ。そして、その物語を追い、真実を解き明かす役割を担うのは、他ならぬ「月夜野静」、つまり自分自身だった。久遠寺は、自身の最後の作品で、読者を、そして編集者である自分をも巻き込む、究極の「リアルミステリー」を仕掛けていたのだ。彼の死は虚構であり、彼の失踪こそが真実だった。この驚くべき事実に、雫は呆然としながらも、作家としての久遠寺雅人の途方もない想像力と、彼が抱いていた人間としての孤独と哀しさを、深く理解した気がした。

第四章 終章の幕、そして始まり

久遠寺雅人の「失踪」という真実を突き止めた雫は、深い思索に沈んだ。この事実は、警察の発表を覆すだけでなく、日本の文学界に大きな波紋を呼ぶだろう。しかし、彼女は警察に連絡する前に、久遠寺がなぜそこまでして自身の姿を消したかったのか、そして「虚構の断章」を通して何を伝えたかったのか、その真意を完全に理解しなければならないと感じた。彼女は久遠寺の書斎に再び足を運び、彼の蔵書を読み漁り、古い日記やメモを探した。

数日後、書斎の隅に置かれた、埃を被った古い木箱の中から、一冊の手帳を見つけた。それは久遠寺が若い頃から綴っていた、自身の創作ノートだった。そこには、「物語は現実を越えなければならない」「作者は自らの虚構の中で生きるべきか」といった、彼の深い哲学的な問いが記されていた。そして、彼の最後の書き込みは、こう締めくくられていた。「私は、私自身の物語を完成させる。それは、私の人生の終章であり、新たな物語の始まりでもある」。その言葉の横には、彼が理想とする、とある孤島の地図が挟まれていた。久遠寺は、その孤島で、自身の作り出した物語の登場人物として、残りの人生を生きることを選んだのかもしれない。

雫は、久遠寺雅人が「虚構の断章」で伝えたかったことの全容を理解した。彼は、過去の盗作疑惑によって深く傷つき、文学界の評価や商業主義に囚われることに苦悩していた。そして、彼を「久遠寺雅人」という作家の呪縛から解放するために、自らの死を偽装し、新たな人生を歩むという「究極の物語」を創造したのだ。彼の最後の作品は、単なるミステリーではなく、作家としての彼自身の「解放宣言」であり、現実と虚構の境界線に対する問いかけだった。そして、彼が原稿の中で「月夜野静」として描写した雫に、その真実を見抜き、彼の物語の真の「終章」を紡ぎ出す役割を託したのだ。

雫は、久遠寺の膨大な蔵書と、手帳、そして何よりも「虚構の断章」を前にして、深く感動していた。それは、単なる事件の解決を超えた、作家の魂と読者の魂の共鳴だった。彼女は、久遠寺の失踪を公にすべきか、あるいは彼の意図を尊重し、彼の「物語」を完成させるべきか、葛藤した。しかし、彼女の心は既に決まっていた。久遠寺が作り上げた「虚構の断章」は、彼自身の物語を完結させるためのものだ。それをそのまま世に出すのではなく、彼の意図を汲み、雫自身の視点から、この壮大な「物語の終章」を書き上げることが、彼女に課せられた使命だと感じた。

数カ月後、雫は編集者としての職を辞し、久遠寺の書斎を譲り受けた。窓から差し込む夕日に照らされた机の上には、真新しい原稿用紙が置かれている。彼女は万年筆を手に取り、久遠寺の「虚構の断章」に続く、新たな物語の第一行を書き始めた。それは、久遠寺雅人の魂が宿る、現実と虚構が交錯する「真実の終章」だった。久遠寺雅人の行方は、永遠に謎のままだ。しかし、彼の物語は、月森雫のペンを通して、確かに生き続けている。彼女は、物語が持つ無限の可能性と、作者の魂が作品に刻まれる永遠の瞬間を信じ、新たな作家としての一歩を踏み出したのだった。久遠寺が示した「虚構の中の真実」は、雫の心に深く刻まれ、彼女自身の人生を、物語を紡ぐ者へと変貌させた。

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