頁岩の未来日記

頁岩の未来日記

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第一章 頁岩の予言

時田航(ときた わたる)の人生は、埃とインクの匂いに満ちていた。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店『時田書房』。半年前に父が急逝し、航はその三代目の主となった。だが、彼の心は店の奥にある薄暗い書庫のように、静まり返り、閉ざされたままだった。

雨がしとしととアスファルトを濡らす四月の午後、航は父の遺品を整理していた。手放すには忍びなく、かといって眺めるには辛い品々。その中で、一冊の奇妙な本が目に留まった。黒い頁岩(けつがん)のような、ざらりとした手触りの装丁。タイトルも、出版社の名もない、無銘の本。

好奇心に駆られ、重い表紙を開く。そこに広がっていたのは、印刷された活字ではなく、父の几帳面な万年筆の文字だった。それは日記のようであり、日々の出来事が綴られている。しかし、航は最初の数行を読んだだけで、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

『四月十日。雨。店の前の交差点で、赤い傘を差した女性が車にはねられる。命に別状はないが、右足を骨折するだろう』

今日の日付は、四月九日。これは未来の記述だ。馬鹿げている、と航は頭を振った。父は現実的な人間だった。こんな非科学的な戯れに興じるはずがない。何かの小説の草稿だろう。そう自分に言い聞かせ、本を閉じようとした。だが、その手が止まる。頁の端に、震えるような文字で追記があった。

『これは、変えられない事実だ』

翌日、四月十日。昨夜からの雨は上がらず、店先には灰色の空が広がっていた。航はカウンターの奥で仕事をするふりをしながら、窓の外の交差点から目が離せなかった。本の記述が、呪いのように頭にこびりついて離れない。

午後二時を回った頃だった。鋭いブレーキ音と、短い悲鳴が鼓膜を打った。航は弾かれたように立ち上がり、窓に駆け寄る。そこには、横断歩道に転がる女性の姿と、傍らに無惨にひしゃげた、鮮血のような赤い傘があった。やがて駆け付けた救急隊員の声が、女性が右足を骨折していることを告げていた。

航は全身の血が凍りつくのを感じた。偶然ではない。あれは、予言だ。震える手で、再びあの黒い本を開く。頁をめくる指が、自分のものとは思えないほど冷たい。そして、彼は見つけてしまった。一ヶ月ほど先の日付、桜がとうに散ったであろう五月十五日の頁に書かれた、短い一文を。

『五月十五日。晴れ。私は、この店の書庫で死ぬ』

第二章 黒衣の影

死の宣告を受けてから、航の世界は一変した。古書の静謐な香りは死の匂いを帯び、頁をめくる乾いた音は、自分の寿命が削れる音のように聞こえた。あの黒い日記帳――航はそれを『頁岩の日記』と呼ぶことにした――が、彼の思考の中心に鎮座していた。

どうすれば、この運命から逃れられるのか。日記を破り捨てようかとも考えた。だが、赤い傘の事故が脳裏を焼き付いて離れない。この日記は、単なる紙の束ではなく、抗いがたい力を持つ何かなのだ。航は日記を隅々まで読み返し、自分の死の記述に繋がる手がかりを探した。

すると、死の数日前から、ある人物が頻繁に登場することに気づく。『黒いコートの男』。日記には、その男が店を訪れ、航と何かを話し込み、彼をじわじわと追い詰めていく様子が克明に記されていた。まるで、死神のようだ。

「この男を見つけなければ……。未来を変えるには、まずこの男の正体を突き止めるんだ」

それからの航は、人が変わったようだった。今まで書庫に引きこもりがちだった彼が、店の外に立つようになった。訪れる客一人ひとりの顔を、服装を、執拗なまでに見つめる。近所の商店の主人たちに、父の交友関係について聞き込みまで始めた。

「時田さんのご主人? ああ、気難しい人だったけど、たまにふらっとやって来ては、難しい顔で哲学の話をしていくんだよ」

「航くん、親父さんと違って愛想がいいねえ。親父さんはいつも何かに追われてるみたいだったから」

人々が語る父の姿は、航の知らないものばかりだった。不器用で、孤独で、けれど必死に何かと繋がろうとしていた父の横顔が、おぼろげに浮かび上がってくる。

行動を起こす中で、航は奇妙なことに気づいた。あれほど恐れていたはずの世界との接触が、苦痛ではなくなっていたのだ。人と話すこと、街の喧騒、陽の光。それら全てが、死の影に怯える彼にとって、皮肉にも「生きている」という実感を与えてくれた。

そして、運命の日が近づいた五月のある日。店のドアベルが鳴り、一人の男が入ってきた。長く着込んだ、黒いトレンチコート。穏やかだが、その瞳の奥には何かを見定めるような鋭い光があった。心臓が跳ね上がる。日記の記述と、あまりに酷似していた。

「時田航さん、ですね」男は言った。「お父様から、お預かりしていたものがあります」

第三章 父の遺言

男は、片桐と名乗った。大手出版社の編集者だという。航は店の奥の応接スペースに彼を通しながら、全身の神経を逆立たせていた。この男が、自分を死に追いやるというのか。一体、どうやって。

「父が、あなたに何を?」航の声は掠れていた。

片桐は鞄から一通の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。「これは、お父様…時田先生からの、最後の原稿です」

「先生?」

「ええ。お父様は、作家でした。いえ、作家になろうとしていました。これは、彼が命を懸けて書き上げた、小説のプロットです」

片桐の言葉が、航の頭の中で意味を結ばない。小説の、プロット?

「何のことです。父はただの古本屋だ」

「表向きは。ですが、彼の魂は常に物語を紡いでいました」片桐は静かに続けた。「そして、あなたに見つけてほしかったのです。あの、黒いノートを」

航は息を呑んだ。『頁岩の日記』のことだ。

「あれは…未来を予言する本じゃないのか?」

「いいえ」片桐は首を横に振った。「あれは、お父様があなたを主人公にして書いた、未完の物語の設計図です」

衝撃が、雷のように航の全身を貫いた。片桐が語る真実は、航の信じてきたすべてを根底から覆すものだった。

『頁岩の日記』は、父が書いた小説の草稿だった。主人公は、父から古書店を継いだ、内向的で本の世界に閉じこもる一人の青年。その青年が、父の遺した不思議な日記を見つけ、そこに書かれた「自分の死の予言」をきっかけに、殻を破って外の世界へと踏み出していく――そんな成長物語を、父は構想していたのだという。

「赤い傘の事故は…?」

「お父様が数年前に実際に目撃した事故を、物語のフックとして取り入れたのです。毎年、春の嵐の後にはあの交差点で小さな事故が起きやすいことを、長年この街に住んでいた彼は知っていました。それが偶然、今回も起きてしまった。運命の悪戯のようなものです」

では、あの死の予言は。

『五月十五日。晴れ。私は、この店の書庫で死ぬ』

「それも、物語の一部です」片桐の目が、初めて少しだけ潤んだように見えた。「お父様は、主人公が古い自分と決別し、新しい人生を歩み始めることを、比喩的に『死』と表現したのです。それは物理的な死ではない。再生のための、死です」

航は、言葉を失った。父は、直接言葉を交わすのが苦手な、不器用な人だった。息子が自分の殻に閉じこもっていることを、誰よりも心配していた。だが、どう声を掛ければいいか分からなかった。だから、彼は物語を紡いだ。息子にそっくりな主人公を創り、彼に試練を与え、成長させ、そして最後に、新しい世界へと解き放つ物語を。

それは、父から息子へ贈られた、最も遠回りで、最も愛情深い、一通の手紙だったのだ。

「お父様は、あなたにこのプロットを完成させてほしかったのかもしれません」片桐が差し出した封筒には、『航へ』と父の字で書かれていた。

第四章 未完の物語

五月十五日。雲一つない、抜けるような青空が広がっていた。日記に書かれた通りの、晴れの日。

航は店の書庫に一人で立っていた。父の匂いが染みついた、懐かしい場所。かつてはここが世界のすべてだった。だが今は、この壁の向こうに広がる本当の世界を、彼は知っている。

死は、訪れない。

航は『頁岩の日記』を手に取った。ざらりとした表紙の感触が、今は温かく感じられる。最後のページを開く。そこには、父の文字でこう書かれていた。

『――ここで、彼の古い物語は終わる。そして、新しい頁が始まるのを、待っている』

航の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。父との間にあった、見えない壁が、音を立てて崩れていくのを感じた。分からなかった。いや、分かろうとしなかったのだ。父の孤独を、その不器用な愛情を。

航は父の机に向かった。そこに置かれていた愛用の万年筆を、そっと手に取る。ひんやりとした金属の感触が、指先に父の体温を伝えるようだった。彼は『頁岩の日記』の、その最後の文章の続きを読むように、インクを走らせた。

それは予言ではない。決意の言葉だった。

『彼の名は時田航。彼の未来は、誰にも予言できない。なぜなら、その物語を紡ぐのは、彼自身なのだから』

書き終えた航は、万年筆を置くと、ゆっくりと立ち上がった。そして、書庫を出て、店の表へと向かう。カラン、とドアベルが軽やかな音を立てた。春の柔らかな光と、街のざわめきが、彼を優しく包み込む。

未来は白紙の頁だ。そこには恐怖も不安もあるだろう。だが、喜びも、出会いも、そして愛も、記されていくはずだ。父が遺してくれたのは、死の予言などではなかった。それは、お前自身の物語を生きろ、という力強いエールだったのだ。

航は空を見上げた。どこかで父が見ていてくれるような気がした。彼は小さく微笑むと、光の中へ、確かな一歩を踏み出した。

未完の物語の、本当の始まりだった。

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