黒き雨、無色の鎮魂歌
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黒き雨、無色の鎮魂歌

第一章 腐蝕の雫

黒い雨が降っていた。

酸っぱい腐臭を纏った雫が、永都の甍(いらか)を叩き、石畳を濡らす。人々は俯き、足早に軒下から軒下へと駆け抜けていく。彼らの言葉から、表情から、そして纏う衣服からさえ、鮮やかな「色」は失われつつあった。嘘が真実を塗り潰し、世界が黒く濁っていく。幕府はこれを天罰と呼び、祈祷を繰り返すばかり。だが、誰もが心のどこかで気づいていた。これは天罰などではない。人が招いた、人為の災いであると。

古道具屋の薄闇の中、時雨(しぐれ)は錆びた脇差を手に、息を詰めていた。指先が冷たい鋼に触れた瞬間、脳髄を灼くような激痛と共に、他人の記憶が流れ込む。血飛沫、断末魔、そして斬り捨てられた男の、家族を想う無念の叫び。それが、時雨の持つ呪われた能力だった。刀に宿る「魂の叫び」を夢として追体験する力。その夢は、彼の心身を少しずつ蝕んでいく。

「……また、つまらぬ夢だ」

時雨は脇差をそっと布の上に置いた。彼の指先は、血の気が失せたように白く、その存在自体が周囲の闇に溶け込んでしまいそうなほど希薄に見えた。この能力を使い続ける代償か、時雨自身の「存在の色」は、日に日に薄れていた。

店の戸が、軋みながら開いた。雨の匂いと共に現れたのは、浅葱(あさぎ)色の羽織を纏った一人の男だった。その男の瞳だけが、この濁った世界にあって、なお深い青色を湛えているように見えた。

「ここに、刀の過去を視ることができる者がいると聞いた」

低いが、芯のある声だった。男は懐から、白木の鞘に収められた一振りの刀を差し出した。それは、異様だった。何の装飾もない。ただ、そこにあるだけで周囲の光を吸い込むような、奇妙な空虚さを放っていた。

「この刀を、視てほしい」

時雨は眉をひそめた。厄介ごとの匂いがした。だが、その刀から発せられる、静かながらも抗いがたい引力に、彼は知らず手を伸ばしていた。

第二章 無色の残響

断るべきだった。

時雨の理性がそう叫ぶより早く、彼の指先は白木の鞘に触れていた。その瞬間、世界が反転した。

いつものような、誰かの激情の夢ではない。

音も、色も、匂いもなかった。完全な静寂と無が広がる空間。時雨はただ、意識だけの存在としてそこにいた。

やがて、遠くに光景が浮かび上がる。数百年前の、まだ空が青かった時代の光景。だが、そこには戦の喧騒も、民の嘆きもない。厳かな儀式のように、大勢の人間が巨大な穴の前に立ち尽くし、何かを埋めている。彼らが交わす言葉は、真実を示す様々な色――信頼の青、希望の緑、愛情の赤――を帯びていた。

しかし、彼らが埋めようとしている「何か」は、違った。

それは、底なしの「黒」。

だが、人々が吐く嘘の濁った黒ではない。光さえ飲み込む、純粋で絶対的な、虚無の黒だった。それは「隠された真実」そのものが放つ色。時雨は直感した。あれは、この世界の土台に埋め込まれた、巨大な楔(くさび)なのだと。

「ぐっ……ぁっ!」

現実へと引き戻された時雨は、床に膝をつき、激しく喘いだ。全身から力が抜け、心臓が氷の手に掴まれたように冷たい。

「……視えたか」

浅葱色の羽織の男が、静かに問う。

時雨は顔を上げた。その目は恐怖と混乱に揺れていた。「あれは……一体、何だ。嘘じゃない。あれは、嘘よりもっと深い……」

「そうだ」男は頷いた。「あれは、この国がひた隠しにする『大いなる真実』の墓標だ。そして、この刀は……その墓守だ」

男は自らを浅葱と名乗り、幕府内部で黒雨の原因を密かに探る「色見番(しきみばん)」の一員だと明かした。

第三章 黒き幕府

浅葱の話は、時雨の常識を根底から覆すものだった。

幕府が民に示す歴史は、全てが輝かしい『瑠璃色』に彩られている。偉大な将軍たちが国を治め、民は常に幸福であったと。教科書に記された言葉は、一点の曇りもない真実の色を放っている。だが、浅葱は言う。それは、あまりにも完璧すぎるのだと。

「光が強ければ、影もまた濃くなる。この国の歴史には、影が一切ない。不自然だとは思わないか?」

浅葱の目は、黒雨が降りしきる窓の外に向けられていた。「我々『色見番』は、この完璧な歴史こそが、黒雨の原因ではないかと睨んでいる。完璧な真実を維持するために、どれほどの不都合な事実が『黒』として塗り潰されてきたのか……。その量が、世界の許容を超えたのだ」

その夜、時雨は再びあの刀――浅葱が「無色刀(むしょくとう)」と呼ぶそれに触れた。今度の夢は、さらに鮮明だった。

夢の中で、時雨は刀鍛冶の工房にいた。炎が燃え盛り、鋼を打つ音が響く。目の前で刀を打つ男は、顔を持たなかった。だが、その声は時雨の魂に直接響いた。

『この刀は、真実を斬るためにあらず』

声が言う。

『偽りを断ち、世界から“なかったこと”にするためのもの。我らは、民を絶望から救うため、この国に幸福な夢を見せることにした。悲惨な過去は、全てこの刀で斬り捨て、虚構の礎とする』

夢の終わり際、刀鍛冶は時雨の方を振り向き、言った。

『だが、忘れられた真実は、いつか必ず還ってくる。黒い雨となってな』

第四章 虚構の礎

浅葱の導きで、時雨は幕府の中枢、大書庫「色の蔵」の最深部に忍び込んでいた。そこには、幕府によって「黒」と断じられ、封印された禁書が並んでいた。かび臭い空気と、インクに込められた無念の匂いが鼻をつく。

「ここにあるはずだ。無色刀が作られた時代の、真の記録が」

浅葱が囁く。

時雨は、書庫の中央に置かれた巨大な石碑に無色刀をかざした。すると、石碑の表面に刻まれた文字が淡い光を放ち、時雨の意識を再び過去へと引きずり込んだ。

それは、地獄だった。

数百年前、この国は終わりのない内戦と、致死の疫病によって、滅亡の淵にあった。人々は希望を失い、畑は荒れ、街には死臭が満ちていた。絶望した初代将軍は、生き残った民の心を救うため、一つの禁忌に手を染める。

歴史の捏造。

国中から最高の言霊使い、歴史学者、そして人心を操る術者を招集し、彼らは「人々が幸福に生きられる、完璧な歴史」を創造したのだ。飢饉は豊作に、敗戦は偉大な勝利に、疫病による死は安らかな眠りに。悲惨な真実は全て、この「大いなる嘘」の物語の下に封印された。

そして、その封印の要こそが、真実を斬り、その存在の色を消し去る力を持つ「無色刀」だった。

黒雨の原因は、これだ。この巨大な虚構が、数百年という時を経て綻び始めたのだ。嘘を維持するために重ねられた無数の小さな嘘が、世界の色の均衡を崩し、腐敗の雨を降らせている。

その真実を悟った瞬間、蔵の扉が乱暴に開け放たれた。幕府の役人たちが、抜刀してなだれ込んでくる。

「反逆者め!捕らえよ!」

時雨と浅葱は、追われる身となった。

第五章 色なき決断

雨の永都を、二人は逃げ続けた。追っ手の声が、すぐ背後まで迫っている。

「どうする、時雨!」

息を切らしながら浅葱が叫ぶ。「真実を公にすれば、民は絶望し、この国は内側から崩壊する!だが、このままでは黒雨によって世界そのものが滅びる!」

究極の選択。偽りの平穏の中で腐り落ちるか、真実の絶望の中で再生を目指すか。

時雨は、足を止めた。彼の顔には、もはや迷いはなかった。その瞳は、まるで全てを諦観したかのように、静かに澄んでいた。

「俺が決める」

彼は、手にしていた無色刀を強く握りしめた。

「この呪われた力で、偽りの歴史を斬る」

「馬鹿を言うな!そんなことをすれば、お前の魂が……!」

「俺の魂なんてもう、とっくに色褪せているさ」

時雨はそう言って、小さく笑った。その笑顔は、ひどく儚く見えた。彼は追っ手を振り切り、永都で最も高い天守閣へと駆け上っていく。その背中は、まるで自らの運命に殉じる覚悟を決めた者のようだった。

第六章 透明な鎮魂歌

天守閣の頂。風が吹き荒れ、黒い雨が時雨の顔を叩く。彼は眼下に広がる、黒く沈んだ永都の街を見下ろした。

時雨は無色刀を天に掲げた。己の持つ全ての力を、魂の全てを、その無色の刃に注ぎ込む。刀身が悲鳴のような甲高い音を立て、空間そのものが震えた。

「この偽りの空を、俺が斬る!」

絶叫と共に、無色刀が振り下ろされる。

空を覆っていた分厚い黒雲――数百年の嘘が凝り固まった虚構の塊――に、巨大な亀裂が走った。

それは、世界の理が引き裂かれる音だった。

虚構は砕け散り、封印されていた「真実」が光の粒子となって永都に降り注いだ。内戦の記憶、飢餓の苦しみ、疫病の恐怖。人々は、自分たちの知らなかった本当の歴史を、痛みと共に脳裏に焼き付けられた。悲鳴が上がり、泣き声が響き、街は混乱の渦に飲み込まれる。

だが、空から降る雨は、その色を変えていた。

黒から、無色透明な、ただの雨へ。

その代償として、時雨の身体は急速にその輪郭を失っていく。彼の「存在の色」が、無色刀に根こそぎ吸い上げられていくのだ。足先から、指先から、世界に溶けるように透明になっていく。

「時雨!」

駆けつけた浅葱が叫ぶ。だが、その声は届いているのか。時雨の姿は、もう雨の向こうにかすんでほとんど見えなかった。

「……これでいいんだ」

風に混じって、か細い声が聞こえた。

「俺は最初から……色のない男だったからな……」

それが、彼の最後の言葉だった。

時雨という存在は、完全に世界から消滅した。彼がいたという記憶さえも、まるで初めからなかったかのように、人々の心から薄れていく。

黒雨は止んだ。人々は残酷な真実を前に立ち尽くし、絶望の中で新たな時代の始まりを迎えなければならない。それは、計り知れない苦難の道だろう。

浅葱は、ただ一人、天守閣の頂で透明な雨に打たれていた。胸に、どうしようもない喪失感が突き刺さっている。誰かが、世界を救った。その確かな感覚だけがあるのに、その誰かの顔も、名前も、もう思い出せなかった。

なぜか、涙だけが頬を伝い、透明な雨に混じって落ちていった。

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