残響の庭

残響の庭

0 4584 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 聞こえぬ言の葉

江戸の片隅で、弦之助(げんのすけ)は「耳師(みみし)」と呼ばれていた。彼の生業は、音を売ること。一度聴いた音ならば、鳥のさえずりから三味線の音色、赤子の産声に至るまで、声帯と僅かな小道具だけで寸分違わず再現してみせる。その類稀なる才は、見世物小屋で喝采を浴びる一方、常人には計り知れぬその能力故に、どこか得体の知れないものとして人々に遠巻きにされていた。弦之助自身、この天賦の才を、ただ食い扶持を稼ぐための芸と割り切り、他者との深い関わりを避けるように生きていた。

ある蒸し暑い夏の日の午後、彼の暮らすみすぼらしい長屋に、場違いなほど上等な駕籠が乗り付けられた。現れたのは、物腰の柔らかな老いた家臣。彼は、旗本・間宮家の家老だと名乗り、主の奥方である志乃(しの)様からの依頼だと告げた。

「我が主、間宮彦九郎(ひこくろう)は、先月、自ら命を絶ちました」

家老は静かに語り始めた。

「奥方様は、彦九郎様が最後に何かを言い遺したのではないかと、心を痛めておいでです。しかし、亡くなられた書斎には誰もおらず、その言葉を聞いた者はおりませぬ」

弦之助は眉をひそめた。死人の声など、いかに耳師とて聞こえるはずもない。馬鹿げた依頼だと断ろうとしたその時、家老は続けた。

「奥方様は、こう仰せです。『耳師殿ならば、あの部屋に残る音の残滓から、主の声を聞き取れるやもしれぬ』と。これは、正気の沙汰ではないやもしれませぬ。しかし、奥方様の悲嘆は深く、藁にもすがる思いなのです」

破格の報酬が記された包みを差し出され、弦之助の心は揺れた。死者の声を聞くなど不可能だ。だが、依頼の奇妙さと、主を失った奥方の狂気にも似た悲しみが、彼の澱んだ日常に小さな波紋を投げかけた。それは、単なる金銭への興味だけではない、自らの能力が未知の領域に触れることへの、仄かな好奇心だったのかもしれない。

「……お引き受けいたしましょう。ただし、聞こえぬものは聞こえぬと、正直に申し上げるだけですが」

弦之助の返事を聞き、家老は深く頭を下げた。長屋の外では、けたたましい蝉時雨が、まるで世界の終わりを告げるかのように鳴り響いていた。この依頼が、彼の人生を根底から揺るがすことになるなど、弦之助はまだ知る由もなかった。

第二章 音の亡霊

間宮家の屋敷は、弦之助が住まう下町とは別世界の静寂に包まれていた。通された奥座敷で待っていた奥方・志乃は、喪服の白が痛々しいほどに似合う、儚げな美しさを持つ女性だった。透き通るような白い肌と、深い哀しみを湛えた瞳が、弦之助の心をざわつかせた。

「耳師殿、無理を承知でお願いいたしました」

志乃の声は、か細く、涼やかな鈴の音のようだった。

「主が亡くなった書斎、主が好んだ庭、主が愛した茶室……。どうか、それらの場所に赴き、そこに今も漂う音を、わたくしに聞かせてはいただけませぬか」

それは、最後の「言葉」を聞かせてほしいという当初の依頼とは、少し違っていた。彼女が求めているのは、特定の言葉ではなく、夫が生きていた頃の気配そのもの、音の亡霊のようだった。

弦之助は、まず夫・彦九郎が自害したという書斎に通された。陽の差し込まない部屋はひやりと冷たく、墨と古い紙の匂いが立ち込めている。彼は目を閉じ、全身を耳にした。意識を研ぎ澄ますと、日常では意識されることのない微細な音たちが、彼の内側へと流れ込んでくる。

柱の木が乾燥して軋む音。畳の縁を渡る微かな風の音。遠くの廊下を歩く下女の衣擦れ。そして、庭の竹筒が石を打つ、ししおどしの澄んだ音。

弦之助はそれらの音を一つ残らず記憶の蔵に収めた。次に、彦九郎が好んだという庭へ向かった。そこでは、松の葉が風にそよぐ音、池の鯉が水面を打つ音、名も知らぬ小鳥たちの賑やかなさえずりが彼を迎えた。彼は、まるで音の地図を作るかのように、屋敷中の音を丹念に拾い集めていった。

数日後、弦之助は再び志乃の前に座した。彼は目を閉じ、記憶した音を再現し始める。

まず、書斎の静寂。微かな風の音、遠くのししおどし。それは、孤独と静謐が入り混じった音の風景だった。次に、庭の生命力あふれる音。鳥の声、水の音、風の音。それは、彦九郎が生きていた頃の穏やかな日常を想起させた。

志乃は、目を閉じてじっと聴き入っていた。彼女の頬を、一筋の涙が伝う。

「……ああ、主がおります。この音の中に、確かに……」

弦之助が再現する音は、単なる模倣ではなかった。彼の耳は、音の響きだけでなく、そこに宿る感情の機微までも捉える。彼は、志乃の悲しみに共鳴するように、より深く、より繊細に音を紡いだ。しかし、何度再現しても、そこに「最後の言葉」は存在しなかった。弦之助は、この依頼の不毛さを感じながらも、志乃の痛切な願いに応えたいという、これまで感じたことのない衝動に駆られていた。彼女の涙を見るたび、ただの芸人ではない、何か別の役割を自分が担っているような錯覚に陥った。

第三章 簪の谺(こだま)

依頼を受けて、半月が過ぎた。弦之助は何度も間宮邸に足を運び、音を集め、再現を繰り返した。志乃は彼の音に慰められているように見えたが、その瞳の奥の深い闇が晴れることはなかった。弦之助の中では、ある疑念が少しずつ形を成していた。彦九郎は本当に自害だったのだろうか。

その疑念を決定的にしたのは、ある些細な音の記憶だった。

彦九郎が亡くなった書斎。弦之助は、最初に訪れた時から、その部屋の静寂の中に、一つだけ場違いな音の記憶を拾っていた。それは、あまりに微かで、他の音に紛れて意識の底に沈んでいたものだ。

――チリリィン……カッ。

細い金属が震えるような音と、それが硬いものに当たって止まる、乾いた短い音。それは何の音だろうか。弦之助は記憶の蔵を探り、その音の正体を探した。そして、ある光景に思い至る。志乃が涙を拭うために俯いた時、彼女の髪に挿された銀の簪(かんざし)が揺れ、微かな音を立てた。あの音だ。

弦之助は、記憶の中の音と、目の前の志乃が立てる音を重ね合わせた。音の高さ、響き、長さ。寸分違わない。そして、畳に硬いものが落ちる音。

――あの書斎に、あの日、志乃様がいた。

血の気が引くのを感じた。彦九郎が自害した時、部屋には誰もいなかったはずだ。なのに、なぜ彼女の簪が落ちる音がするのか。答えは一つしか考えられなかった。

弦之助は覚悟を決めた。次に志乃と対峙した時、彼はいつものように庭の音を再現した後、ふっと音を止めた。そして、目を閉じたまま、記憶の底からあの音を呼び覚ました。

「チリリィン……カッ」

彼の口からその音が漏れた瞬間、志乃の肩が大きく震えた。彼女の顔から血の気が失せ、美しい顔立ちは蒼白な能面のようになった。

「……なぜ、その音を」

絞り出すような声だった。

「わたくしは、誰にも見られていないはず。誰にも……」

弦之助は静かに目を開けた。「音は、見ておりました」

観念したように、志乃はぽつりぽつりと語り始めた。それは、弦之助の想像を遥かに超える、哀しい真実だった。

彦九郎は、不治の病に侵され、日に日に体が動かなくなり、激痛に苛まれる地獄の日々を送っていたのだという。武士としての誇りを何より重んじる彼は、無様に朽ち果てていく自分を許せなかった。

「あの日、主はわたくしに頼みました。『志乃、もう楽にしてくれ。武士として、人の手で死にたい。お前の手で、介錯してくれ』と」

志乃は泣きながら、夫の願いを何度も拒んだ。しかし、愛する人の苦しみを見るに堪えかね、ついに彼の喉元に短刀を当てた。夫は穏やかに微笑み、「ありがとう」と言った。それが、彼の本当の最後の言葉だった。彼女が夫の命を奪ったその瞬間、あまりの衝撃に手が震え、髪から簪が滑り落ち、畳に当たったのだ。

「わたくしが探していたのは、主の最後の言葉ではございません」

志乃は嗚咽を漏らした。

「わたくしは、主を殺めた。その罪の意識から逃れられなかった。主は本当に、わたくしに殺されることを望んでいたのか。もしや、一瞬でも後悔したのではないか。その答えを探して……主が生きていた頃の穏やかな音の中に、安らかな気配を感じることで、自分を許したかったのです」

彼女が求めていたのは、夫の遺言ではなく、夫殺しの罪を背負った自分を救済するための音だったのだ。弦之助は、言葉を失った。彼の能力は、意図せずして、人の心の最も深い場所に隠された真実と、その悲痛な叫びを暴いてしまったのだ。

第四章 朝凪(あさなぎ)の調(しらべ)

弦之助は、志乃を役人に突き出すことも、誰かにこの秘密を漏らすこともしなかった。彼がしたのは、ただもう一度、彼女の前に座ることだけだった。

「奥方様。最後に一つだけ、聞いていただきたい音がございます」

彼は目を閉じた。そして、これまでの人生で培ったすべての技術と、この半月で知ったすべての感情を込めて、音を紡ぎ始めた。

それは、間宮家の庭の音だった。しかし、ただの再現ではない。弦之助は、記憶の中から、最も穏やかで、暖かな陽が差していた日の音を選び出した。軽やかにさえずる小鳥の声。心地よくそよぐ風が松の葉を揺らす音。池の鯉が跳ねる、のどかな水音。そして、ししおどしが奏でる、規則正しくも澄み切った音。

さらに弦之助は、そこに一つの音を織り交ぜた。それは、彼がかつて間宮邸の近くを通りかかった時に、偶然耳にした彦九郎の声だった。下女と楽しげに言葉を交わす、穏やかで屈託のない笑い声。

弦之助が紡ぐ音の風景の中で、彦九郎は病に苦しむ姿ではなく、庭を愛で、穏やかに笑う、在りし日の姿で生きていた。それは、志乃の記憶の中にある、最も幸せだった頃の間宮家の音だった。罪も、苦しみも、死の影もない、光に満ちた音の情景。

志乃は、ただ静かに聴き入っていた。やがてその瞳から大粒の涙が溢れ、白い頬を次々と伝い落ちた。しかし、それはこれまでのような苦痛に満ちた涙ではなかった。ようやく重荷を下ろしたかのような、安らかな涙だった。

「……ありがとう、存じます」

音の演奏が終わった時、志乃は深く、深く頭を下げた。その声は、震えながらも、どこか凪いだ海のような静けさを取り戻していた。

弦之助は黙って間宮邸を後にした。報酬の包みは、固辞して受け取らなかった。

帰り道、江戸の街の喧騒が彼の耳に流れ込んでくる。物売りの声、子供たちのはしゃぎ声、車輪の軋む音。これまで雑音としか感じていなかったそれらの音が、今は一つ一つ、そこに生きる人々の息遣いや物語を伴って、温かく響いてくるのを感じた。

彼の能力は、呪いでもなければ、単なる芸でもなかった。音に宿る人の心を掬い上げ、記憶を紡ぎ、時には魂を慰めるための力となり得るのだ。弦之助は、初めて自分の耳に感謝した。空を見上げると、夕暮れの茜色が、まるで新しい世界の始まりを告げるように、美しく広がっていた。彼の足取りは、来た時よりもずっと軽く、確かだった。耳師・弦之助の本当の人生が、今、始まった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る