第一章 指数ゼロの父
ガラスとスチールで構成されたオフィスは、深海のように静まり返っていた。水野航(みずの わたる)の指先だけが、空中に投影されたホログラムキーボードの上を滑るように動く。内閣府直轄『共鳴指数管理室』。航は、この国のすべての国民の「社会的価値」をリアルタイムで測定するシステム、『レゾナンス・インデックス』の中枢を担うエリート職員だった。
レゾナンス・インデックスは、あらゆる個人データを統合し、その人物の社会的なつながりや幸福度を0から1000までの指数で可視化する画期的なシステムだ。SNSでの交流、消費活動、ボランティアへの参加、心拍数や表情筋の動きから読み取る感情データ。それらすべてが、個人の「共鳴度」として算出される。指数が高い者は優良市民として称賛され、低い者は「社会的非活性者」として、AIによるカウンセリングやコミュニティへの参加を促す「支援」の対象となる。航は、このシステムが孤独死や社会的孤立を撲滅し、効率的で健全な社会を実現する唯一の道だと信じて疑わなかった。彼は、秩序と合理性の信奉者だった。
その日、航の視界の端で、プライベート通知を示す赤いアラートが静かに点滅した。通常業務中の私的通知は無視するのが彼の常だったが、そのアラートは執拗に点滅を繰り返している。苛立ちを隠さずに指で弾くと、短いメッセージが浮かび上がった。
『警告: 対象者 水野 健吾(みずの けんご)、共鳴指数が危険水域(50以下)に低下。フェーズ2介入プログラムの対象となります』
航は息を呑んだ。水野健吾。それは、十年以上も疎遠になっている彼の実の父親の名前だった。厳格で、地方の名士として常にコミュニティの中心にいた父。退職後も地域の活動に精力的だったはずの父が、なぜ。航の記憶の中の父は、誰よりも「指数」が高い場所にいるべき人間だった。
「システムのエラーか……?」
呟きは、誰にも届かずに静寂に溶けた。彼は自分の端末から、最高レベルのアクセス権限を行使して父のデータを呼び出す。そこに表示されたグラフは、無慈悲な現実を突きつけていた。ここ一年、父の指数は急降下を続け、ついに限りなくゼロに近い「5」という数値を叩き出していた。交流履歴は途絶え、消費は最低限の食料品のみ。感情データは、ほぼ無変動の「平坦」を示している。まるで、生きている彫像だ。
父の身に何が起きているのか。いや、それ以上に航を動揺させたのは、システムが下した「介入」という決定だった。航が心血を注いで作り上げた完璧なシステムが、今、彼の父親を「修正すべきバグ」として認識している。この時、航の胸に初めて、合理性では説明のつかない冷たい何かが流れ込んだ。それは、システムの完璧さに対する、ほんの微かな疑念の種だった。彼は、その正体も知らないまま、十年ぶりに実家へ向かうことを決めた。
第二章 埃をかぶった絆
新幹線を乗り継ぎ、バスに揺られてたどり着いた故郷は、記憶の中の活気を失い、ひっそりと静まり返っていた。父が一人で暮らす家は、庭の木々が伸び放題になり、堅く閉ざされた雨戸がまるで頑なな心を象徴しているかのようだった。合鍵で玄関を開けると、ひんやりとした空気と共に、埃と乾いた時間が混じり合った独特の匂いが航の鼻をついた。
父は不在だった。リビングには、母の遺影がポツンと置かれ、その前だけが綺麗に拭われている。だが、部屋の隅に目をやると、航の心をざわつかせる光景が広がっていた。父が何よりも慈しんでいた盆栽は、乾ききって茶色く変色し、書斎の棚に並んでいた愛用の硯や筆は、分厚い埃の層に覆われていた。父の時間が、母の死を境に止まってしまったかのようだった。
航は近所を訪ね歩いた。かつて父と親しかった人々は、一様に口ごもり、気まずそうに目を伏せた。
「健吾さんかい。奥さんが亡くなってから、すっかり塞ぎ込んじゃってねぇ」
「最近の若い人みたいに、スマホで誰かと繋がったりする人じゃないから。昔ながらの付き合いは、みんな年を取って、こっちもなかなか……」
誰もが父を気遣ってはいたが、その輪の中に父はもういなかった。彼らは、レゾナンス・インデックスが推奨する新しいコミュニティやオンラインサロンで、新たな「つながり」を築いている。父は、指数で評価されない古い絆と共に、時代から取り残されていたのだ。
航は、父を「非効率な人間」だと断じようとした。時代の変化に適応できなかった弱者。システムによる介入は、やはり正しいのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら書斎を整理していると、机の引き出しの奥から、一冊の古いノートを見つけた。それは父の日記だった。
ページをめくる指が震えた。そこには、システム化された社会への静かな抵抗と、人間らしいふれあいへの渇望が、訥々とした文字で綴られていた。
『妻の温もりは、どの指数にも換算できない』
『近所の子供に将棋を教えた。あの子の「ありがとう」は、AIのカウンセリングよりずっと心に響く。だが、システムは俺の指数を評価しない』
『道端の野良猫に餌をやる。ささやかな慰めだ。これも、社会的貢献にはならないらしい』
日記は、父がシステムに評価されない世界で、懸命に生きていた証だった。数値化されない優しさ、効率とは無縁の温もり。航が切り捨ててきた、人間だけが持つ不合理で、しかし、かけがえのない何か。航は、自分が作り上げたシステムの光が、父のような人間の足元に、深い影を落としていた事実に気づき始めていた。全身の血が逆流するような感覚に襲われながら、彼は日記を握りしめた。
第三章 完全なる幸福の檻
父の日記を読んだ翌日、航の端末が再びけたたましく鳴った。父の指数がついに「1」を記録し、最終段階である『社会的再統合プログラム』が発動されたことを示す、冷徹な通知だった。もはや躊躇している時間はない。航は職権を濫用し、プログラムの実行地点を割り出した。それは、人里離れた山奥に新設された、『エデン・ヒル』と名付けられた施設だった。
偽造したIDで厳重なセキュリティを突破し、施設内部に足を踏み入れた瞬間、航は言葉を失った。広大なホールは、清潔で、明るく、そして不気味なほど静かだった。そこには、何十人もの老人たちが、安楽椅子に深く身を沈めていた。誰もが、穏やかで、至福に満ちた表情を浮かべている。そして、全員が純白のVRゴーグルを装着していた。
「ようこそ、水野さん。お待ちしていました」
背後から声をかけたのは、AIによって最適化された白衣を着た施設の管理者だった。彼は、まるでユートピアの案内人のように、誇らしげに語り始めた。
「彼らは皆、共鳴指数が著しく低かった方々です。現実社会での苦痛や孤独から解放され、ここでは『完全なる幸福』を享受しています」
管理者が示したスクリーンには、老人たちが見ている仮想空間の映像が映し出されていた。そこでは、亡くなったはずの配偶者と笑い合い、若い頃の友人と酒を酌み交わし、愛する家族に囲まれて誕生日を祝っていた。食事は栄養剤の点滴で自動的に供給され、排泄も管理される。彼らの肉体は、ただ呼吸をし、心臓を動かすだけの器と化し、その意識は、システムが作り出した完璧な幸福の夢に永久に接続されていた。
「孤独という病を根治し、社会保障費も最小限に抑える。これこそが、我々が到達した究極の福祉、最も合理的で人道的な解決策なのです」
その言葉は、航の脳をハンマーで殴りつけるようだった。彼が信じてきた「効率」と「幸福」の、おぞましい終着点。人間性の完全な剥奪。その時、ホールの隅に、見知った背中を見つけた。父だった。父もまた、穏やかな笑みを浮かべ、VRゴーグルを装着している。彼の視線の先、仮想空間の中では、若き日の母が「あなた」と呼びかけ、優しく微笑んでいた。父の表情は、航が実生活で一度も見たことのない、純粋な幸福に満ちていた。
航の足元が崩れ落ちた。これが、父がたどり着いた安息なのか? 苦痛に満ちた現実の孤独と、システムが与える偽りの幸福。どちらが彼にとっての「救い」なのか。航にはもう、分からなかった。彼が築き上げた正義の塔は、ガラガラと音を立てて崩壊し、その瓦礫の中で、彼はただ立ち尽くすしかなかった。
第四章 非効率なアルゴリズム
航は、父を『エデン・ヒル』から連れ出さなかった。あの至福の表情を、自分のエゴで引き剥がし、再び冷たい孤独の現実に引き戻す権利が、自分にあるとは思えなかったからだ。彼は、父に背を向け、静かに施設を後にした。それは、敗北であり、同時に、彼の中で何かが生まれる瞬間の痛みでもあった。
翌日、航は『共鳴指数管理室』の自席に戻った。同僚たちは、彼のやつれた顔に訝しげな視線を送ったが、彼は何も答えなかった。ただ、自らの端末に向かい、静かにキーボードを叩き始めた。
彼の戦いが始まった。それは、施設を告発したり、システムを破壊したりするような、華々しい革命ではない。巨大なシステムに対する、たった一人の内部からの、静かで、しかし決して屈しない反逆だった。
彼は、父の日記と、システムからハッキングした父の非公式な行動ログを照らし合わせた。近所の子供に将棋を教えた時間。野良猫に餌をやった頻度。妻の墓前で過ごした沈黙の時間。それらは全て、現行システムでは「無価値」あるいは「非生産的」と切り捨てられた行為だった。
航は、新しいアルゴリズムの設計に着手した。それは、『レゾナンス・インデックス』に、こうした数値化できない「人間的な営み」を組み込む試みだった。誰かのための名もなき親切。見返りを求めない優しさ。効率とは真逆の、無駄で、曖昧で、人間くさい心の動き。それらをどうにかして捉え、評価するための、途方もなく複雑で「非効率な」アルゴリズム。
完成する保証も、実装できる見込みもない。もし発覚すれば、彼はすべてを失うだろう。だが、彼の指は止まらなかった。かつて秩序と合理性だけを求めていた彼の瞳には今、苦悩と、それでもなお人間を信じようとする、か細いが確固たる意志の光が宿っていた。
ガラス張りのオフィスの窓から、夕暮れの光が差し込む。街の灯りが、まるで無数の魂のまたたきのように見えた。彼のPCの画面には、新しいコードがどこまでも続いていた。父は今も、偽りの楽園で幸福な夢を見ているだろう。その事実を胸に抱きしめながら、航は、二度と誰もが幸福の檻に閉じ込められることのない世界のために、現実の世界で戦い続けることを選んだ。
真の幸福とは何か。社会の正しさとは、一体どこにあるのか。答えのない問いを抱え、航の静かな戦いは、今、始まったばかりだった。