第一章 触れられない世界の残響
水沢響(みずさわ ひびき)の世界は、常に他人の「終わり」で満ちていた。
彼が働く神保町の裏路地にある古道具屋『時のかけら』は、埃と樟脳の匂いが混じり合う、静謐な空間だ。しかし、響の耳には、その静けさは決して届かない。彼が煤けた柱に指先で触れれば、かつてこの建物を揺らした関東大震災の轟音が。客が持ち込んだ古い万年筆を手に取れば、インクが尽きる直前の、持ち主の安堵のため息が。そして、今、カウンターに置かれた銀の懐中時計からは、けたたましい銃声と、若い女性の最後の悲鳴が、頭蓋骨の内で反響していた。
「うっ…!」
響は思わず手を離し、時計は乾いた音を立ててカウンターに転がった。持ち主である初老の男性が、訝しげな顔で響を見る。
「どうかなさいましたか、店主さん」
「いえ…少し、目眩が。素晴らしい時計ですね。ですが、申し訳ありません。当店では少し、扱いが難しい品です」
表情を変えずにそう告げるのが、響には精一杯だった。
幼い頃の転落事故以来、響には奇妙な能力が備わってしまった。触れた物体が最後に発した音、あるいは最後に聞いた音――『ラスト・エコー』と彼が呼ぶそれが、脳内に直接流れ込んでくるのだ。それは呪いにも似て、彼から世界の平穏を奪い去った。新品のスマートフォンに触れれば、組み立てラインのけたたましい電子音。誰かと握手をすれば、その直前に聞いていた雑踏のノイズ。世界は悲鳴と喧騒の断末魔で満ちており、響はいつしか他人や新しい物との接触を避け、過去の遺物たちが静かな最期を迎えたこの古道具屋に籠るようになった。古い物ほど、その『ラスト・エコー』は永い時間の経過と共に摩耗し、穏やかな残響へと変わっていることが多いからだ。
孤独ではあったが、平穏ではあった。そう、信じていた。
その日、母から一本の電話がかかってくるまでは。
「響? おじいちゃんの書斎、そろそろ片付けようと思うの。あなた、手伝ってくれないかしら」
祖父が亡くなって、一年が経とうとしていた。口数が少なく、いつも書斎で分厚い本を読んでいた厳格な人。だが、響にとって祖父は、たった一人、この奇妙な能力のことを打ち明けても、気味悪がったり、医者に診せろと言ったりしなかった唯一の大人だった。ただ静かに、「そうか」とだけ呟き、響の頭を無言で撫でてくれた、大きな手のひらの感触を覚えている。
その祖父の遺品に、自分は触れることができるだろうか。そこにどんな「終わり」の音が刻まれているのかを知るのが、響は怖かった。
第二章 寡黙な天文学者の書斎
祖父の家は、響が生まれ育った家でもあった。一階で母が片付けの音を立てる中、響は二階の突き当たりにある書斎の扉を、記憶をたどるようにゆっくりと開けた。インクと古い紙、そして微かに星の匂いがした。いや、星に匂いなどない。それはきっと、祖父そのものの匂いなのだろう。
壁一面の本棚には、天文学の専門書がずらりと並び、窓辺には埃をかぶった天体望遠鏡が、今も夜空を待ちわびるように佇んでいる。響は、祖父がいつも座っていた革張りの椅子に、そっと指先で触れた。
――キィ…、という微かな軋み。そして、ページをめくる乾いた音。最後に、穏やかで、深い溜息。
響は安堵した。彼の知る、静かで思慮深い祖父の姿がそこにあった。彼は書斎の遺品に一つひとつ触れていった。万年筆からは、カリカリと紙を走る音。コーヒーカップからは、湯気の立つ音と、それをすする微かな音。どれもが、彼の記憶の中の寡黙な祖父のイメージを裏切らない、静かな『ラスト・エコー』だった。祖父の最期は、穏やかなものだったのだろう。そう思うと、胸のつかえが少しだけ軽くなった。
書棚の整理をしていた響の手が、ふと、一番下の段の奥に隠された小さな木箱に当たった。鍵がかかっている。好奇心に駆られた響は、祖父が使っていた机の引き出しを探った。一番奥に、小さな鍵が一つだけ入った小袋があった。まるで、いつか誰かが見つけるのを待っていたかのように。
鍵は、寸分違わず鍵穴にはまった。カチリ、と小さな音を立てて蓋が開く。中に入っていたのは、クッションに大事に守られた、一台の古びたカセットテーププレーヤーだった。SONYのロゴが懐かしい、八十年代の製品だろうか。シンプルで、飾り気のない、いかにも祖父が好みそうなデザインだった。
これには、どんな音が残っているのだろう。カセットを再生する機械音か、あるいはテープが擦れる音か。響はごくりと唾を飲み込み、震える指で、そのプラスチックの筐体にそっと触れた。
第三章 星空からの子守唄
触れた瞬間、響の全身を、今まで経験したことのないような鮮烈な音が貫いた。
それは、機械音でも、テープの擦れる音でもなかった。
――キャッキャッ、という、生まれたばかりの赤ん坊の甲高い笑い声。
――「はっはっは、こら、響。元気だなぁ、お前は」
若々しく、張りのある男性の声。紛れもなく、若き日の祖父の声だった。そして、その声に重なるように、優しく、少し音程の外れた子守唄が聞こえてくる。
『きらきらひかる、おそらのほしよ…』
響は混乱した。これはなんだ? 寡黙で、厳格で、笑った顔などほとんど見たことのなかった祖父が、こんなにも楽しそうに笑い、歌っている。そして、この赤ん坊の声…。なぜだろう。聞いたこともないはずなのに、心の奥底が痺れるように懐かしく、温かい。まるで、自分の魂がこの音を覚えているかのように。
響はプレーヤーを店に持ち帰り、何時間もかけて修理した。幸い、内部のゴムベルトを交換するだけで、モーターは息を吹き返した。中には、一本のカセットテープが残されていた。ラベルには、祖父の几帳面な文字で、ただ一言、『星の便り』とだけ書かれていた。
再生ボタンを押す。
『……響へ。この声が聞こえているか? 今、お前のいる時代では、もうこんなものは使われていないかもしれないな』
テープから流れてきたのは、間違いなく祖父の声だった。しかし、それは晩年のしゃがれた声ではなく、響がプレーヤーに触れて聞いた、あの若々しい声だった。
『これを聴いているということは、わしはもう、この世にいないのだろう。そして、お前は自分の力に悩み、苦しんでいるのかもしれない。だから、話しておかなければならないことがある』
響は息を飲んだ。
『響、お前のその力はな、事故で得たものじゃない。生まれつきだ。そして、わしから受け継いだものだ。わしも、お前と同じように、物に触れると『最後の音』が聞こえる』
世界が、反転した。祖父が? あの静寂を愛した祖父が、自分と同じ、音の洪水に満ちた世界を生きていたというのか。
『若い頃は、わしもその力に振り回された。世界中の悲鳴や断末魔が、わしの心を壊しかけた。だからわしは、沈黙を選んだ。世界との接触を極力断ち、誰の心にも踏み込まず、ただひたすらに、声を持たない星々を眺めることで、心の平穏を保ってきた。お前に厳しく当たったこともあったかもしれん。すまなかった。だがそれは、お前を愛していなかったからじゃない。どう接すれば、お前をこの呪いから守ってやれるのか、分からなかったんだ』
声は、時折、嗚咽のように震えていた。
『だがな、響。この力は、呪いだけではない。わしは、このプレーヤーに触れるたびに、お前が生まれた日のことを思い出す。お前を初めて抱き上げた時、この腕の中で笑った、お前の声を。わしが歌ってやった、下手くそな子守唄を。その『最後の音』だけが、わしの孤独な世界を照らす、たった一つの星だったんだ』
響の頬を、熱い雫が伝っていた。知らなかった。祖父の沈黙が、絶望や拒絶ではなく、自分を守るための、不器用で、必死の愛だったなんて。孤独だと思っていたのは、自分だけだった。祖父もまた、同じ孤独の中で、たった一つの温かい記憶を抱きしめて、生きてきたのだ。
第四章 時を超えた残響
テープは、そこで終わっていた。しばらくの無音の後、ザッ、というノイズと共に、全く別の、もっと晩年の、しゃがれた声が録音されていた。
『……お父さん、ありがとう。聞こえる? 響はね、あなたのことが大好きだったわ。ずっと、ずっと…』
母の声だった。そして、その声にかき消されそうなほど微かに、しかし確かに、祖父が最後に絞り出したであろう声が響いた。
『……ひびき……』
それが、祖父の本当の『ラスト・エコー』。
響がプレーヤーに触れて聞いた、赤ん坊の笑い声と子守唄。あれは、この世を去るまさにその瞬間まで、祖父がたった一つの宝物として、心の中で繰り返し再生していた、幸せな記憶の残響だったのだ。
涙が止まらなかった。それは悲しみの涙ではなかった。胸の奥から、温かい泉が湧き上がってくるような、どうしようもなく満たされた涙だった。呪いだと思っていたこの力は、時を超えて祖父の愛を届けてくれた、奇跡の架け橋だったのだ。自分の孤独は、祖父の大きな愛にずっと包まれていた。
翌日、響は再び祖父の書斎にいた。窓を開け放つと、心地よい初夏の風が、埃っぽい空気を運び出していく。彼は窓辺の天体望遠鏡に、もう何の躊躇もなく、そっと触れた。
――しん、と静まり返った宇宙の静寂。その中に、ポツリと響く祖父の呟き。「…きれいだ…」。
それは、何光年も彼方にある星の光を眺めながら、祖父が最後に漏らした、純粋な感動の声だった。
世界は相変わらず、様々な『最後の音』で満ちている。だが、今の響には、もう悲鳴や喧騒だけには聞こえなかった。一つひとつの音は、誰かが生きて、感じて、愛した証の、かけがえのない残響なのだ。
店に戻った響は、カウンターの隅に置かれていた、小さなブリキの自動車の玩具を手に取った。昨日までは、怖くて触れられなかった物だ。
指が触れた瞬間、彼の脳裏に音が響く。
――「父ちゃん、見てて! ブーッ!」。幼い子供の、弾けるような歓声だった。
響は、その温かい残響に、心の底から微笑んだ。
遠い星の光が、気の遠くなるような時間をかけて今ここに届くように。誰かの愛も、想いも、時を超えて必ず届く。
ラスト・エコーを聴く者。その力と共に、彼はこれから、世界に満ちる無数の愛の残響を、一つひとつ、大切に拾い集めて生きていくのだろう。夜空に瞬く星々のように、それは彼の世界を、静かに、そして確かに照らし続けてくれるはずだから。