絡繰り香炉と亡失の刻
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絡繰り香炉と亡失の刻

第一章 残香の依頼人

千影(ちかげ)の世界は、香りでできていた。生まれつき光を失った彼の網膜に代わり、鋭敏な嗅覚が世界の輪郭を、色を、そして人の心を映し出す。彼は香道師。ただ香木を聞くのではない。死者が放つ最期の『香り』を聞き、その魂の残滓に触れる者だった。

「千影殿、お待ちしておりました」

重厚な絹の衣擦れの音と、沈香(じんこう)に白檀(びゃくだん)を合わせた落ち着いた香りが、依頼人の身分を示していた。初老の貴族だろう。声には隠しきれない憔悴が滲んでいる。

「例の屋敷の件ですな」

千影は静かに応じ、白杖の先で畳の縁を探り当てた。彼の鼻腔には、貴族が纏う香の奥に、微かな『恐怖』の香りがまとわりついているのが分かった。それは古い土蔵にこもるカビの匂いにも似て、ひやりと冷たい。

「左様。あれはもはや、ただの怪異ではない。『時喰い(ときぐい)』じゃ。我が屋敷の東棟では、昼と夜が入り乱れ、とうに死んだはずの庭師が、若き日の姿で黙々と松の手入れをしておる。壁には、まだ建つはずもない未来の楼閣の影が差すのだ。どうか、この歪みを鎮めていただきたい」

『時喰い』。感情が土地に刻まれ、時間の流れを澱ませる現象。近年、都のあちこちで噂される災いだ。千影は頷いた。彼の興味は、怪異そのものよりも、その根源にある『感情の香り』にあった。人が遺す最も濃密な香り、それは常に死の瀬戸際で放たれる。その香りを辿れば、時間の歪みの芯に触れられるやもしれぬ。

「承知いたしました。ただ、私が聞くのは生者の言葉ではありませぬ。死者の魂が遺した、最後の息遣いのみ」

千影の言葉に、貴族は息を呑んだ。その呼気に混じる安堵と、新たな畏怖の香り。千影はただ、静かにその複雑な感情の香りを肺腑に満たした。

第二章 歪む回廊

問題の屋敷は、かつて幕府に叛逆し、一夜にして滅ぼされた大名・九条家の屋敷跡に建てられていた。門をくぐった瞬間、千影の鼻を突いたのは、血と鉄錆の匂い、そして燃え盛る木材の焦げ付いた香りだった。それは幻の香りだ。しかし、この土地に染み付いた記憶は、数百年を経てもなお、生々しく在り続けている。

「こちらが東棟にございます」

案内役の侍の声が、やけに高く上擦って聞こえる。彼の足音は、まるで沼地を歩むかのように覚束ない。

千影は白杖を止め、深く息を吸い込んだ。空気が揺らめいている。右からは、涼やかな風と共に初夏の青葉の香りがするのに、左からは肌を刺すような冬の乾いた風と、雪解け水の匂いがした。異なる季節が、一つの廊下でせめぎ合っている。

不意に、千影の脳裏に鮮やかな光景が弾けた。

朱塗りの柱が続く壮麗な回廊。そこに響く、幼い少女の楽しげな笑い声と、鞠をつく乾いた音。

――『悲しみ』の香りだ。

しかし、それはただの悲哀ではない。あまりにも甘く、幸せな記憶に包まれた、取り返しのつかない喪失の香り。香りは幻覚の視界となり、千影の内に流れ込んでくる。他者にはただの煙にしか見えないその香りの粒子が、過去の情景を再構築していく。

「誰か……いるのか」

侍が声を震わせた。千影が見ている光景は、彼には見えない。だが、時間の歪みがもたらす空気の軋みを、肌で感じているのだろう。

笑い声が、唐突に甲高い悲鳴に変わった。鞠の音が止み、代わりに肉を断つ生々しい音が響く。甘い悲しみの香りは、一瞬にして憤怒と絶望の焦げ臭い匂いへと変貌した。

「……これは、ひどい」

千影は呟いた。ここは、数えきれぬほどの魂が、無念のまま刻みつけられた場所だった。

第三章 絡繰りの囁き

千影は懐から、掌に収まるほどの小さな香炉を取り出した。壊れた砂時計のような奇妙な形をした、『絡繰り香炉(からくりこうろ)』。これは香を焚くためのものではない。空間に漂う『感情の残り香』を吸い込み、その来歴を解き明かすための道標だった。

彼は香炉の吸気口を、最も香りの濃い空間に向けた。カタ、と小さな歯車が噛み合う音がして、香炉が周囲の空気を吸い込み始める。千影の脳裏に流れ込んでいた悲鳴と怒りの光景が、ガラス細工のように砕け散り、香炉の中へと渦を巻いて吸い込まれていった。

香炉が震え、軋む。

「ぐっ……!」

制御できない。この土地に渦巻く感情の奔流は、あまりに強大すぎた。香炉から溢れ出した煙が、千影の周囲を取り囲む。それはもはや、過去の幻影ではない。過去と現在、そしてあり得たかもしれない未来までもが混濁し、一つの空間に押し寄せている。

刃の交わる音。燃え落ちる屋敷の梁が立てる轟音。赤子の産声。老人の咳。

『なぜ、我らだけが』

『許さぬ、許さぬぞ』

『あなた……』

怨嗟の声、愛を乞う声、絶望の叫び。数多の『最期の香り』が混じり合い、千影の意識を飲み込もうとする。彼は必死に意識を保ち、その混沌の中から、最も強く、最も純粋な意志の香りを探した。

それは、諦念の香りだった。全てを失い、それでもなお、何かを守ろうとする者の、悲しくも気高い覚悟の香り。その香りを放つ主こそが、この『時喰い』の源流にいる。

千影はよろめきながら立ち上がり、その香りの源へと、覚束ない足取りで歩き始めた。

第四章 修正者の影

香りの源は、屋敷の最も奥まった場所にある茶室だった。そこだけは時間の歪みが嘘のように静まり返り、凛とした空気が漂っていた。千影は、そこに先客がいることに気づいた。

足音はない。気配もない。だが、その人物は一つの『香り』を放っていた。それは、何の色も、何の感情も含まない、まるで磨き上げられた鏡面のような、無の香り。千影がこれまで嗅いだことのない、異質な存在だった。

「あなたも、それを追って?」

鈴を転がすような、しかし温度のない声が響いた。女だった。

「九条宗近(くじょうむねちか)。滅びた九条家の最後の当主。この土地に刻まれた歪みの中心。彼の『香り』を追っているのでしょう?」

千影は驚きに言葉を失った。自分と同じように、死者の香りを嗅ぎ分ける者がいるというのか。

「……何者だ」

「私は『修正者』。この世界という名の、綻びかけた織物を修繕する者です」

女は静かに言った。「この『時喰い』は、単なる現象ではありません。世界そのものが、自らの記憶の重みに耐えきれず、崩壊を始めている兆候。九条宗近の絶望は、その崩壊を加速させる最大の『染み』。私は、その染みを消し去るために来ました」

修正者。その言葉の響きは、千影の心の奥底にある何かを微かに震わせた。彼女の言う『染み』を消すとは、歴史を、人の生きた証そのものを消し去るということではないのか。

「人の記憶を、感情を、なかったことにはできない」

「できます。そうしなければ、世界が終わる。あなたはただの香道師。この世界の理(ことわり)にまで首を突っ込むべきではない」

女の言葉と共に、無の香りがわずかに揺らぎ、鋭い刃のような殺気が千影に向けられた。彼女は、千影を排除することも厭わないようだった。

第五章 時の中心で

刹那、茶室の空気が凍りついた。

千影が追い求めていた、あの気高い諦念の香りが、まるで今そこで焚かれたかのように、鮮烈に立ち上ったのだ。

これは過去の香りではない。今、ここで生まれている。

千影の脳裏に、最後の光景が流れ込む。燃え盛る茶室。膝をつき、静かに刃を腹に突き立てる、壮年の武士。九条宗近だ。彼の視界には、炎も敵も映っていない。ただ、大切そうに抱きしめられた、小さな女の赤子だけが映っていた。

『すまない……。お前だけでも、未来へ』

彼の絶望は、一族が滅びることへの嘆きではなかった。愛する娘を守り切れなかった無念。未来を託すことすら叶わなかった、父親としての断腸の想い。その感情が数百年という時を超え、今なおこの場所で繰り返されているのだ。

「これこそが歪みの核。この感情がある限り、時は永遠にこの日を繰り返す」

修正者が静かに告げ、懐から取り出した短刀を構えた。その刃は、空間に漂う宗近の『香り』そのものに向けられている。

「私はこの無念を断ち切り、歴史を正しく『修正』する」

「待て!」

千影は叫んだ。「それは修正ではない、ただの破壊だ! この想いを消してしまえば、彼が生きた意味も、この子を想った心も、全てが無に帰す!」

修正者は冷ややかに振り返った。

「感傷です。世界を維持するためには、時に無慈悲な剪定が必要となる。あなたは、この世界の本当の姿を知らない」

彼女はそう言うと、千影に短刀を向けた。

「邪魔をするなら、あなたも『染み』として消すまで」

その瞬間、千影の絡繰り香炉が、彼の意志とは関係なく激しく脈動を始めた。まるで、修正者の存在に共鳴するかのように。千影は悟った。この女も、自分も、この世界の理の一部なのだと。

第六章 創世の香り

絡繰り香炉から溢れ出した光の煙が、千影と修正者を包み込む。千影の意識は、九条宗近の無念を通り抜け、さらに深く、世界の根源へと沈んでいった。

――そこは、無数の感情が渦巻く、巨大な海だった。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。人間が紡いできた全ての感情が、混沌となって世界を形作っている。そして、その中心で、一人の『神』が苦しんでいた。

『時の神』。この世界を創り出した存在。神は、人間たちのあまりに激しい感情の奔流に耐えかねていた。特に、九条宗近が放った、愛と絶望が絡み合った強烈な感情は、神の心を深く傷つけ、世界の時間を狂わせるほどの綻びを生んでしまったのだ。

『時喰い』とは、傷ついた神が、苦しみから逃れるために無意識に時間を巻き戻そうとする、悲しい試みだった。

そして『修正者』とは、神が自らの苦しみを終わらせるために生み出した、綻びを消し去るための分身。

千影は理解した。自分もまた、神によって生み出された存在だったのだと。感情を消し去る『修正者』が失敗作だと感じた神が、次に創り出したもの。死者の感情を『理解』し、『受け入れる』ために創られた、唯一の成功例。それが、盲目の香道師・千影だった。

「……そうか。私は、あなたの哀しみを知るために生まれたのか」

千影は、目の前の修正者――刹那にではなく、彼女を通して、その背後にいる神へと語りかけた。

彼は絡繰り香炉を胸に抱き、自らの全てを注ぎ込むように、静かに息を吸った。九条宗近の無念の香りを、恐れることなく、その魂ごと受け入れる。

「歴史を消す必要はない。哀しみも、怒りも、喜びも、全てがこの世界の一部だ。私がそれを調律する」

千影の体から、淡く、温かい光のような香りが立ち上った。それは、どんな感情でもない、ただ全てを包み込むような、慈愛の香りだった。創世の香り。

その香りは宗近の無念を優しく包み込み、ゆっくりと鎮めていく。修正者・刹那の姿が、光の粒子となって薄れていった。彼女は最後に、初めて感情の宿った声で呟いた。

「……ありがとう」

時間の歪みが、解けていく。千影は一人、静寂を取り戻した茶室に佇んでいた。

もう、血と鉄錆の匂いはしない。ただ、雨上がりの土と、若葉の匂いが、新たな世界の始まりを告げていた。

彼はゆっくりと息を吸い込む。それは、まだ誰も知らない、未来の香りだった。


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