言霊の箱、ひび割れた月
第一章 万古堂のざわめき
江戸の神田にある古物商「万古堂」の空気は、いつも埃と古い木の匂いがしていた。店主の娘である凛(りん)は、その澱んだ空気の中で、指先から伝わる声なき声に耳を澄ませるのが日常だった。彼女は「器物の言霊聴き」。触れた物に宿る、過去の持ち主の強い感情や記憶を、追体験してしまう特異な体質を持っていた。
店の隅で、紅花で染められた古い櫛(くし)をそっと手に取る。指が触れた瞬間、凛の視界は白く霞み、知らない娘のときめきが奔流となって流れ込んできた。待ち合わせの橋の上、はにかむ笑顔、初めて結んだ淡い恋。しかし、その記憶の底には、やがて来る別離の予感が黒い染みのように広がっている。凛は息を詰めて櫛から手を離した。甘やかな感情の残滓が、胸の奥をちりちりと焦がす。あまりに強い思念は毒だ。下手をすれば、他人の感情に呑み込まれ、自分が誰なのかさえ分からなくなる。
近頃、江戸の町は奇妙な噂でざわついていた。「昨日の大火は日本橋だったはずだ」「いや、浅草だったと確かに聞いた」そんな会話が、あちこちの井戸端で交わされる。人々が同じ出来事に対して、異なる記憶を持つ「歴史のひび割れ」。それは些細な食い違いから始まり、今や幕府の布告の内容さえ、人によって解釈が分かれるという有り様だった。万古堂に持ち込まれる品々も、その来歴が曖昧なものが増えていた。まるで、世界の輪郭そのものが、ゆっくりと溶け始めているかのように。
第二章 影を纏う武士
その男が店に現れたのは、ひび割れた月が空にかかる夜だった。上質な着物を着流し、腰には見事な刀を差しているが、その佇まいは役人とも浪人ともつかなかった。影山と名乗るその武士は、店の商品には目もくれず、真っ直ぐに凛を見つめた。
「お主が、万古堂の言霊聴きか」
静かだが、有無を言わせぬ響きを持つ声だった。父がぎょっとして間に入るのを手で制し、影山は懐から桐の小箱を取り出した。それは手のひらに収まるほどの大きさで、表面には見たこともない幾何学的な文様がびっしりと刻まれている。
「これを、視てほしい」
彼は幕府の密命を受け、頻発する「歴史のひび割れ」の源流を探っているのだと語った。そして、この「刻印の小箱」が、その中心にあるのではないかと。影山の瞳の奥には、焦りと、そして純粋な探究心のような光が揺らめいていた。凛は、その箱が放つ異様な気配に息を呑んだ。ただ古いだけではない。この箱は、何かを渇望し、そして何かを拒絶している。触れれば、ただでは済まないと本能が警鐘を鳴らしていた。
第三章 矛盾する言霊
覚悟を決め、凛は震える指先を「刻印の小箱」に伸ばした。
触れた瞬間、世界が砕け散った。
燃え盛る城。鬨(とき)の声。裏切りの刃がきらめき、忠臣の血が畳を濡らす。民を虐げる暴君を討ち、新たな世を切り開いた英雄の姿。
しかし、次の瞬間、全く異なる光景が流れ込む。
民に慕われた名君が、腹心の卑劣な罠にかかり暗殺される。その功績を奪い、偽りの英雄として祭り上げられた簒奪者(さんだつしゃ)の冷たい笑み。
「うっ…!」
二つの、決して両立しないはずの「幕府創設」の記憶。正義と裏切り、歓声と悲鳴が、凛の精神の中でぶつかり合い、火花を散らす。あまりの情報の奔流に、立っていることすらできず、凛はその場に崩れ落ちた。影山が咄嗟にその肩を支える。
「大丈夫か!」
「…二つの、歴史が…この箱の中で…」
息も絶え絶えに呟く凛。歴史のひび割れの源流は、この国の始まりそのものにあった。初代将軍による「大儀の変」。その一つの出来事が、全く異なる二つの顔を持っていたのだ。
第四章 追われる者
凛と影山の接触は、即座に何者かの知るところとなった。その夜、万古堂は覆面の男たちに襲撃された。目的は明らかに「刻印の小箱」だった。影山の抜き放った刀が闇を切り裂き、辛くも凛と父を連れて裏口から脱出する。
「幕府内の隠蔽派だ」
夜の路地を駆けながら、影山が吐き捨てるように言った。「彼らは、ひび割れの真相が暴かれることを恐れている」
追っ手の鋭い刃が、凛の着物の袖を掠める。死の恐怖が、肌を粟立たせた。影山は凛の手を強く引き、迷路のような江戸の町を疾走する。彼の背中からは、この国の行く末を憂う、静かで熱い覚悟が伝わってきた。彼は信じているのだ。真実を白日の下に晒し、この国の歪みを正すことこそが、真の忠義だと。そのあまりに真っ直ぐな正義感が、凛には眩しく、そして危うく見えた。
第五章 血塗られた大儀
追っ手を振り切り、影山が用意した隠れ家に身を潜めた。窓の外では、夜の雨が静かに瓦を叩いている。ロウソクの頼りない光が、二人の疲弊した顔を照らしていた。
「もう一度、小箱を視なければ…」
凛の言葉に、影山は眉をひそめた。
「無茶だ。次こそ、お主の心が壊れる」
「でも、ここでやめたら、全てが無駄になる」
凛は、自分の能力をずっと疎ましく思ってきた。他人の感情に振り回され、心をすり減らすだけの呪いだと思っていた。だが今は違う。この力でなければ辿り着けない真実がある。凛は、もう一度、あの情報の嵐の中に身を投じる覚悟を決めた。
そっと、小箱に全ての意識を集中させる。矛盾する二つの歴史の、さらにその奥へ。感情の奔流を泳ぎ切り、記憶の源流へと潜っていく。そして、凛は視た。
真実の光景は、伝えられているどちらの歴史とも異なっていた。
初代将軍は、暴君であった先代を討った。それは民を救うための義挙だった。しかし、彼は同時に、先代が築き上げていた豊かな国づくりの功績と、その理想を全て奪い取った。先代に忠誠を誓っていた多くの賢臣や、真実を知る者たちを、冷酷に、そして静かに抹殺した。
血塗られた欺瞞の上に築かれた、偽りの平和。民衆の笑顔の裏で、数えきれない無念の魂が沈黙している。それが、この国の始まりの真実だった。
第六章 ひび割れの器
凛は、小箱の正体をも悟った。これは、初代将軍が自らの罪を隠蔽するために作らせた、呪われた装置だった。真実の歴史と、自らが作り上げた英雄譚。二つの歴史を同時にこの世に存在させ、人々の記憶を混濁させることで、永久に真実を封印するための「歴史の安定装置」。しかし、長い年月の果てにその力は歪み、制御を失い、「歴史のひび割れ」として世界そのものを侵食し始めていたのだ。
「これが…真実か」
凛から全てを聞いた影山は、唇を噛み締めた。その手は、固く刀の柄を握っている。
「ならば、我らがすべきことは一つ。この欺瞞を暴き、幕府を糾弾する。血で購われた偽りの平和など、終わらせるべきだ」
だが、凛は静かに首を横に振った。彼女の瞳には、能力を通して視た、もう一つの未来が映っていた。もし、この真実が世に知られたら?幕府の権威は失墜し、国は再び内乱の時代へと逆戻りする。新たな戦乱が、今ある穏やかな日常を焼き尽くし、無数の民が血を流す未来。
血塗られた真実か、偽りの平和か。あまりにも重い選択が、二人の間に横たわっていた。
第七章 物語る者
凛は、そっと「刻印の小箱」を両手で包み込んだ。そして、目を閉じ、最後の力を振り絞る。彼女が小箱に吹き込んだのは、糾弾の言霊ではなかった。それは、祈りにも似た、静かな鎮めの言霊。
「真実も、偽りも、そのままに。ただ、この曖昧な世界が、これ以上壊れてしまわぬように…」
小箱が淡い光を放ち、凛の指先から何かがすうっと吸い取られていく。長年彼女を苛んできた「器物の言霊聴き」の力が、小箱のひび割れを塞ぐための楔として、永遠に封じられていくのが分かった。世界は安定するだろう。ひび割れは残ったまま、人々はこれからも曖昧な記憶の中で生きていく。だが、崩壊は免れる。
力が消えゆくのを感じながら、凛は影山に向き直った。その顔は、不思議なほど晴れやかだった。
「影山様。真実は、時に人を傷つけ、世界を壊します。だから…私は暴くのではなく、物語の形で語り継ごうと思います」
歴史の教科書には載らない、名もなき人々の喜びや、悲しみ。英雄の影で流された、無数の涙。そういう小さな物語を語り継ぐことで、人々の心の中に、本当に大切なものが何かを問いかける種を蒔きたいのだと。
影山は、何も言わなかった。ただ、深く、深く一礼した。彼の真っ直ぐな正義は、彼女の覚悟の前で、よりしなやかで、強い形へと変わったのかもしれない。
数年後。江戸の町の片隅で、子供たちに昔話を語り聞かせる凛の姿があった。彼女はもう、物に触れて過去を視ることはできない。しかし、その瞳は、ひび割れた歴史の向こうにある、確かな未来を見据えて穏やかに輝いていた。彼女が紡ぐ物語は、まるで小さな光のように、曖昧な世界を生きる人々の心を、静かに照らし続けていた。