言霊喰らいの蚕
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言霊喰らいの蚕

第一章 無色の旅人

コダマは、乾いた風が運ぶ砂埃に混じって、道の端に転がる石の声を聞いていた。

『――必ず、帰る』

百年は昔の、名も知らぬ旅人の誓いだろう。声はひどくかすれ、今にも消え入りそうだ。この国を覆い始めた「沈黙病」のせいか、あるいは、コダマ自身の耳が遠くなったのか。

彼は浪人だ。腰に差した刀は、鞘の中で錆の匂いを立てている。だが、彼が本当に斬ってきたのは、人の身ではなく、場所にこびりついた「過去の言葉」のしがらみだった。幼い頃から、彼には聞こえた。壁の染みに、古井戸の底に、人の往来が残した轍に、染み込んだ声が。喜び、怒り、悲しみ、そして誓い。

宿場町は、かつての活気を失っていた。軒先に吊るされた言霊結晶の灯籠は、そのほとんどが光を失い、ただのガラス玉のように虚ろな姿を晒している。国のエネルギーであり、貨幣でもある結晶が輝きを失うということは、世界の血が止まるに等しい。

ふと、コダマは足を止めた。路地裏で、若い男女が言い争っている。

「嘘よ! あなたは、あの人と……!」

女の悲鳴じみた言葉。男が必死に何かを言い募る。

『誓って、何もない!』

その強い否定の言葉がコダマの鼓膜を打った瞬間、彼の視界から色が抜け落ちた。世界が、一瞬だけ墨絵のようにモノクロに染まる。これは、強い誓いや嘘に触れた時にだけ起こる、彼だけの発作だった。

色が戻った視界の端で、男の足元に、米粒ほどの小さな光の粒が生まれ、すぐに霧散して消えた。結晶にすらなれない、虚しい言葉。コダマは静かにその場を離れた。世界から、言葉の力が失われつつある。それは、彼自身の存在が、その根底から揺らいでいることと同義だった。

第二章 消えゆく声

コダマは、町の中心にある古びた神殿を訪れた。そこは、かつて人々が捧げた無数の「誓い」によって、洞窟の鍾乳石のように言霊結晶が垂れ下がる、荘厳な場所だったという。

だが今、彼の目に映ったのは、輝きを失った抜け殻が無数にぶら下がる、薄暗い洞窟だった。結晶の多くは透明になり、指で触れれば砂のように崩れ落ちてしまいそうだ。

「また一人、物好きな旅人か」

奥から現れた老神官が、諦観の混じった声で言った。

「沈黙病は、もう止められん。神々がお怒りなのか、あるいは、我々が言葉を使いすぎたのか……」

神官は、ひときわ大きく、しかし今は乳白色に濁っている結晶を撫でた。

「これは建国の王が立てた『永久の平和を』という誓いの結晶じゃ。かつては、この神殿全体を真昼のように照らしておったが……今ではこの有様だ」

コダマは許しを得て、その巨大な結晶にそっと手を触れた。

指先から、冷たい感触とともに、かろうじて残る残響が流れ込んでくる。

『――この地に、永久の、平……を……』

途切れ途切れの声。それはまるで、遠ざかる船から聞こえる最後の呼び声のようだった。かつては国を揺るがすほどの力を持ったであろう言葉が、今は瀕死の獣の息遣いのように弱々しい。

やはり、とコダマは確信した。世界の沈黙と、己の能力の減衰は、同じ根から生えている。このままでは、世界から全ての「言葉」が消え、過去の記憶も、人々の想いも、全てが無に帰してしまうだろう。

彼は神官に一礼し、踵を返した。探さねばならない。この沈黙の病の正体を。

第三章 沈黙の硯

古い文献を漁るうち、コダマはひとつの伝承に行き着いた。「沈黙の硯(ちんもくのすずり)」。言霊が最も満ちていた時代に作られたという、黒曜石の硯。その硯で書かれた言葉は、言霊結晶化の法則から外れ、決して消えることがないという。

消えゆく言葉を、この世界に繋ぎとめる唯一の手段かもしれなかった。

彼は、埃っぽい骨董市をいくつも渡り歩いた。そしてある日、がらくたの山の中に埋もれた、手のひらほどの小さな硯を見つけた。見た目は何の変哲もない、使い古された石の塊だ。

だが、それに指が触れた瞬間、コダマは微かな温もりを感じた。まるで、遠い記憶の底で燃える残り火のような、静かで、しかし確かな熱。硯の底を裏返すと、ほとんど見えないほど小さな結晶の欠片が、星屑のように埋め込まれていた。

店主は、こんなものに値を付けるのも馬鹿らしいと、銀貨数枚で硯を譲ってくれた。

その夜、宿の一室で、コダマは硯に水を垂らし、静かに墨を擦った。

ごり、ごり、と硬質な音が響く。不思議なことに、その音は彼の耳に届くだけでなく、心の奥底にあるざわめきを鎮めていくようだった。

彼は試しに、筆を取って和紙に一文字を記した。

『声』

その文字は、ただの墨の染みとしてそこにあった。言霊の力を帯びることもなく、彼の耳に響くこともない。完全に「沈黙」している。しかし、その一文字からは、書き手であるコダマ自身の、言葉を求める切実な想いが滲み出ているように見えた。

これは、使える。彼は硯を懐にしまい、立ち上がった。

第四章 機械仕掛けの羽音

言葉が最も濃く残る場所。それは、祝祭の広場でも、愛を誓う聖堂でもない。夥しい数の誓いと呪詛がぶつかり合い、結晶化した古戦場跡だ。

コダマがたどり着いた「嘆きの野」は、かつては結晶の光で夜も明るかったと伝えられるが、今はただ、不気味なほど静まり返っていた。地面に突き刺さった無数の錆びた剣や折れた槍が、墓標のように並んでいる。かつてそれらを彩っていたであろう怨嗟や武勲の言霊結晶は、そのほとんどが砂粒となり、風に攫われていた。

風の音に混じって、何か別の音が聞こえる。

それは、人の声ではない。残留思念でもない。

キィ……、キィ……。

絹を擦るような、それでいて微かに金属が軋むような、奇妙な羽音。

音のする方へ、息を殺して近づく。岩陰からそっと覗き込んだコダマは、息を呑んだ。

そこにいたのは、信じがたい光景だった。

体長は親指ほど。銀色に鈍く輝く、無数の「蚕」。だが、それは生きた虫ではなかった。その体は精密な歯車と金属の線条で組み上げられ、薄い翅は磨かれた雲母のように光を反射している。

その「機械仕掛けの蚕」たちが、かろうじて光を残す言霊結晶に群がり、口元から伸びる針のような器官で、その光を吸い上げていた。光を吸われた結晶は、みるみるうちに透明になり、やがて塵となって崩れていく。

これが、「沈黙病」の正体。

コダマは刀の柄に手をかけた。だが、それよりも早く、一匹の蚕が彼の存在に気づき、静かに翅を動かして彼の目の前へと舞い降りた。

第五章 未来からの囁き

コダマは、目の前で滞空する機械の蚕を、ただ見つめていた。敵意は感じられない。むしろ、何かを伝えようとしているかのような、知的な動きだった。

彼は、ゆっくりと指を伸ばした。

銀色の蚕が、彼の指先に静かにとまる。

触れた瞬間、世界が反転した。

轟音と閃光。彼の脳内に、直接、膨大な映像と感情が流れ込んできた。それは未来の光景だった。言霊の力を兵器へと転用し、誓いを呪いとして敵国に撃ち込む、終わりなき戦争。言葉は刃となり、国を焼き、大地を裂き、人々は互いを憎しみ合うことでしか自らを保てなくなっていた。愛の言葉さえ、所有欲という名の呪縛に変わり果てた、荒廃した世界。

そして、その破滅の中から生まれた、ひとつの決断。

――言葉が争いを生むのなら、その根源となる過去の「強い言葉」を消し去るしかない。

この機械仕掛けの蚕たちは、その絶望的な未来から送られた使者だった。歴史の分岐点となった時代の、争いの火種となる誓いや恨み、強すぎる約束。それらを「喰らい尽くす」ことで結晶化を阻み、過去の記憶そのものを消去し、歴史を穏やかな、言葉の力がない世界へと修正するための装置。

コダマの視界が、今までにないほど深く、長く「無色」に染まった。

それは嘘でも誓いでもない。

ただ、冷徹な「真実」の色だった。

彼が聞いてきた「過去の言葉」は、未来を滅ぼす呪いの種だったのだ。そして、彼の能力が衰えていたのは、蚕たちがその「種」を喰らい、残響ごと消し去っていたからに他ならなかった。

指先の蚕が、静かに光の粒子となって霧散した。コダマは、崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、ただ呆然と立ち尽くしていた。

第六章 最後の言葉

沈黙によってもたらされる、争いのない平和。

言葉と共に生き、失われる、人々の数多の想い。

どちらが正しいのか、コダマには分からなかった。未来人が下した決断は、あまりにも合理的で、そしてあまりにも非情だった。だが、あの滅びの光景を見せつけられて、誰が彼らを責められるだろうか。

彼は町へ戻った。人々は、日に日に光を失っていく言霊結晶を不安げに見つめ、囁き声で会話を交わしている。大きな声で約束を交わす者は、もうどこにもいなかった。

コダマは宿の一室で、懐から「沈黙の硯」を取り出した。

黒曜石の硯が、彼の葛藤に呼応するかのように、ひやりと冷たい。彼は硯の底に埋め込まれた、創世の言霊結晶の最後の欠片を見つめた。それは、この世界で最初に生まれた「言葉」の記憶を宿しているという。

『――光、あれ』

彼の脳裏に、初めて聞く、澄み切った声が響いた。

そうだ、と彼は悟った。言葉は、呪いを生むためだけにあるのではない。誰かを傷つけるためだけにあるのでもない。

彼は決断した。

未来人の選択を否定はしない。しかし、肯定もしない。

ただ、為すべきことを為すだけだ。

コダマは大きな和紙を広げ、静かに墨を擦り始めた。硯の底の欠片が、彼の決意に応えるように、最後の輝きを、淡く、儚く放った。

第七章 沈黙に記す者

コダマは、広げた和紙の上に、筆を走らせ始めた。

彼は、これまで己の耳で聞いてきた全ての言葉を、そこに書き写していく。

百年前の旅人が石に残した『必ず、帰る』という誓い。

建国の王が捧げた『永久の平和を』という祈り。

路地裏で交わされた、恋人たちの拙い約束と嘘。

戦場で響いた、友への感謝と、敵への呪詛。

名もなき母親が、我が子の寝顔に囁いた、ささやかな幸福への願い。

喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも。善も悪も、美しさも醜さも、分けることなく、ただひたすらに書き連ねていく。

その言葉たちは、沈黙の硯の力によって、言霊の法則から解き放たれ、ただの墨痕として紙の上に定着していく。それは、機械仕掛けの蚕たちには「喰らう」ことのできない、新しい記憶の形だった。

いつしか、彼の周りには人々が集まっていた。彼らは声もなく、ただ、コダマの筆先から生み出される無数の言葉の列を、食い入るように見つめている。

銀色の蚕たちが、窓から舞い込み、彼の周りを静かに旋回していた。彼の行為を止めるでもなく、肯定するでもなく、ただその結末を見届けるかのように。

コダマの行為は、争いのない未来という「平和」を脅かす、愚かな抵抗なのかもしれない。

あるいは、言葉の本当の意味と重さを、沈黙の時代を生きる人々と、その先に待つ未来へと問いかける、唯一の希望なのかもしれない。

世界から、声が消えていく。囁きが、遠のいていく。

だが、その静寂の中で、コダマの筆を走らせる音だけが、凛として響いていた。

彼が記しているのは、失われた過去の記録か、それとも、これから生まれるべき未来への、最初の言葉か。

その答えは、まだ風の中にあった。

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