残響のフーガ
0 3821 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

残響のフーガ

第一章 調和する心拍

奏(かなで)が笑うと、俺、響(ひびき)の世界は春の陽だまりになる。彼女の心臓が穏やかなリズムを刻めば、俺の心拍もまた、ぴたりとそれに寄り添うように調和する。深く愛した相手と時間そのものを共有してしまう。それが、俺に与えられた祝福であり、呪いだった。

彼女が淹れたてのコーヒーを一口含むと、俺の口内には焙煎された豆の香ばしい苦味が広がり、彼女が窓辺でうたた寝を始めれば、抗いがたい眠気が俺の瞼を重くする。俺たちは二人で一つの時間を生きていた。共有される感覚は、言葉以上に雄弁に互いの愛を証明してくれているように思えた。

しかし、その完璧な調和の中に、時折、不協和音が紛れ込むことがあった。

晴れた日の午後、奏が楽しげに鼻歌を歌っているはずなのに、俺の胸には突然、氷のように冷たい哀しみが突き刺さる。彼女が穏やかに本を読んでいるのに、俺の体温は理由もなく急上昇し、焦燥感に全身が粟立つのだ。

「どうしたの、響? 顔色が悪いわ」

心配そうに覗き込む奏の瞳には、ただ純粋な愛情が映っているだけ。俺の内で荒れ狂う嵐の気配など、微塵も感じさせない。俺は曖昧に笑って首を振るしかない。これは俺だけの感覚。彼女自身のものではない、奇妙な時間の断片。それが、俺たちの静かな水面を、僅かに、しかし確実に波立たせ始めていた。

第二章 砕けた硝子の景色

不協和音は、次第に明確な形を取り始めた。それはもはや、単なる感情の波ではない。砕けた硝子のように鋭利な、記憶の断片だった。

奏と海辺を散歩している時だった。潮風が彼女の髪を優しく揺らす。彼女の心は凪いでいた。なのに、俺の意識には全く別の情景が流れ込んできた。

しんしんと雪が降る、見知らぬ駅のホーム。吐く息は白く、かじかむ指先。そして、胸を締め付けるような、どうしようもない喪失感。それはほんの一瞬の幻覚だったが、肌を刺す雪の冷たさだけは、妙に生々しく身体に残った。

「響?」

俺が立ち止まったことに気づいた奏が、不思議そうに振り返る。

「……いや、なんでもない」

俺は嘘をついた。彼女にどう説明すればいいのか分からなかった。君が感じていないはずの哀しみが、俺を苛んでいる、と。君が見ていないはずの雪景色が、俺の網膜に焼き付いている、と。

ある夜には、眠っている奏の隣で、古びた図書館の匂いを嗅いだ。乾いた紙の匂いと、微かなインクの香り。誰かの優しい歌声が、遠くで聞こえるような気もした。その記憶は、あまりにも甘く、そしてひどく切なかった。俺は奏に尋ねてみたが、彼女は首を傾げるばかり。彼女の過去には、そんな場所も、そんな歌も存在しなかった。俺たちの共有する時間に、正体不明の亀裂が走り始めていた。

第三章 忘れられた恋歌

その亀裂の正体に触れたのは、雨の降る日曜日のことだった。奏の部屋の片付けを手伝っていると、本棚の奥から、埃を被った小さな木箱が出てきた。中に入っていたのは、掌に収まるほどの、古びたオルゴールだった。銀細工の月と星が、くすんだ蓋の上で静かに眠っている。

「これ、なんだろう……」奏は記憶を探るように眉を寄せた。「おばあちゃんの形見だった気もするけど……思い出せないわ」

彼女がそう言うのを聞きながら、俺は無意識にそのオルゴールを手に取った。

その瞬間、だった。

指先に冷たい金属の感触が伝わると同時に、これまで経験したことのないほど強烈な記憶の奔流が、俺の意識を飲み込んだ。雪の駅、図書館、優しい歌声。断片だった景色が、一つの物語として繋がり始める。

――カラン、コロン。

オルゴールがひとりでに鳴り始めた。蓋は閉じたままだというのに、澄んだ、しかしどこか物悲しい恋歌が、静かな部屋に響き渡る。そして、くすんでいたはずの月と星の装飾が、まるで呼吸をするかのように、微かな青白い光を放ち始めた。

オルゴールの音色が触媒となり、流れ込んでくる情景はより鮮明になる。

図書館の窓際で、一人の青年が奏に微笑みかけている。

雪の降る駅のホームで、青年が奏の手を握りしめている。

その青年の顔は、靄がかかったように見えない。だが、彼が奏に向ける愛情の深さだけは、痛いほどに伝わってきた。これは、奏の記憶だ。俺の知らない、奏の過去。

第四章 世界の法則

俺は取り憑かれたように、オルゴールを鳴らし続けた。その度に、奏の失われた恋の輪郭が、俺の中で形作られていく。青年の名は、律(りつ)といった。彼と奏は、雪深い小さな町で、誰よりも深く愛し合っていた。

そして、俺は思い出す。この世界の、残酷な法則を。

人は生涯で一度しか、真に恋に落ちることができない。

もし、運命の悪戯か何かで二度目の恋をしてしまったなら、最初の恋人と過ごした時間、その恋にまつわる全ての記憶は、本人だけでなく、周囲の人々からも、世界そのものから完全に消滅するのだ。

ぞっとした。全身の血が凍りつく感覚。

奏は、律という青年と「最初の恋」をした。そして、何らかの理由で彼と別れ、俺と出会い、「二度目の恋」に落ちた。その結果、律の存在も、彼との恋の記憶も、世界から抹消されたのだ。

奏の時間が不連続なのは、消されたはずの記憶が、彼女の魂の奥底で悲鳴を上げているからだ。完全に消し去ることのできなかった愛の残滓が、時間の歪みとなって、共有者である俺に流れ込んできている。

どうすればいい?

このまま放置すれば、奏は不安定な時間に苛まれ続けるだろう。

だが、オルゴールを使って記憶を完全に再生してしまえばどうなる? 失われた恋を取り戻した奏は、俺とのこと――二度目の恋の記憶を失ってしまうのではないか? いや、それ以上に恐ろしいのは、俺という存在そのものが、この世界から……。

苦悩する俺の隣で、奏がふと、痛みに耐えるように胸を押さえた。彼女の苦しみが、俺の心臓を直接握り潰すように伝わってくる。もう、迷っている時間はない。俺は覚悟を決めた。たとえ俺がどうなろうとも、彼女をこの苦しみから解放したい。ただ、それだけだった。

第五章 追憶のプレリュード

俺は奏の手を取り、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。

「奏。これから、少しだけ辛いかもしれない。でも、大丈夫。俺がそばにいる」

彼女は不安げな表情を浮かべたが、こくりと頷いた。俺は彼女を抱きしめ、最後の決意を込めて、オルゴールのネジを巻いた。

忘れられた恋歌が、これまでで最も大きく、そして鮮明に部屋を満たす。

青白い光がオルゴールから溢れ出し、俺と奏を、そして部屋全体を包み込んでいく。

奏の失われた記憶の、最後のピースが流れ込んできた。

それは、別れの場面だった。雪の駅のホーム。病に侵され、余命いくばくもない律が、奏の幸せだけを願い、彼女の記憶から自分を消してくれと泣きながら告げる場面。彼は、彼女が新たな恋を見つけ、幸せになることを望んだのだ。

「忘れないで。たとえ、君が僕を忘れても……僕は、永遠に君を愛している」

それが、律の最後の言葉だった。

パズルのすべてがはまった。律の強い想いが、世界の法則に僅かな綻びを生み、記憶の残滓となっていたのだ。

その瞬間、世界が真っ白な光に塗りつぶされた。奏の中で、分断されていた時間が一つに繋がっていく感覚が、嵐のように俺を打ちのめす。意識が遠のいていく。俺は、俺でなくなっていく。

第六章 君の名は

眩い光が、ゆっくりと収束していく。

気がつくと、俺は奏の部屋に立っていた。腕の中には、涙に濡れた彼女の顔があった。奏は震える唇で、ゆっくりと、懐かしい響きを確かめるように、一つの名前を紡いだ。

「……律。やっと、会えた……。ずっと、会いたかった……!」

その声は、俺の鼓膜を震わせ、魂の奥深くに眠っていた何かを呼び覚ました。

そうだ、俺の名前は、律。

奏を愛し、彼女の幸せを願って、自ら消えることを選んだはずの。

響という男の記憶は、陽炎のように揺らめいて、急速に薄れていく。彼が誰で、どんな想いでここにいたのか、もう思い出せない。代わりに、雪国の図書館の匂いや、奏と交わした他愛ない会話、そして彼女の記憶から消えることを選んだ日の絶望的な痛みが、まるで昨日のことのように蘇ってくる。

俺の記憶は、奏の完璧な追憶によって、完全に上書きされたのだ。

俺は、彼女の記憶の中にだけ存在する『律』として、ここに再生された。

目の前で泣きじゃくる愛しい人を見て、胸が張り裂けそうになる。俺はそっと彼女の涙を指で拭った。

「ああ、奏。……ずっと、待たせたね」

自分の口から滑り出た言葉に、違和感はない。心の奥底で、誰かが「違う」と叫んでいるような、冷たい残響が微かに聞こえる気もしたが、奏の喜びに満ちた笑顔が、その小さな声をあっという間にかき消していく。

俺は誰だったのだろう。

そんな問いはもはや意味をなさなかった。俺は奏の失われた恋人。彼女がずっと会いたかった存在。それだけで、十分だった。俺は微笑み、愛する人を強く、強く抱きしめた。窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る