源流のフーガ
第一章 色褪せる恋の跡
僕の胸には、恋をするたびに一つの紋様が刻まれる。相手の魂の色を映した、複雑で美しい『感情紋様(エモグラム)』だ。熱を帯びた緋色の螺旋、静謐な藍色の結晶、陽だまりのような黄金の蔓草。それらは心臓のすぐ上で、僕自身の鼓動に合わせて淡く明滅する。
けれど、どんなに鮮烈な恋も、時の流れには逆らえない。紋様は少しずつ輪郭を失い、色彩は薄れ、やがて完全に消え去る。そして、その最後の光が肌に溶ける瞬間、僕の中から相手への恋心も綺麗さっぱり消え失せてしまうのだ。まるで、初めから何もなかったかのように。
書斎の窓を濡らす雨粒を眺めながら、僕は古びた革張りの椅子に深く身を沈めていた。ガラスを伝う無数の筋は、この世界の理そのものである『記憶の雫』が天から降り注ぐ様に似ている。僕たちは皆、生きていく中で経験した感情を『記憶の雫』としてその身に蓄え、死後、それらは壮大な『感情の川』へと還っていく。自分の雫の総量は、誰もがぼんやりとした光のオーラとして認識できる。僕のそれは、降りしきる雨のせいか、いつもより少しだけ青白く揺らめいていた。
僕はそっとシャツの胸元を緩め、肌に浮かぶ紋様たちに目を落とした。ほとんどはもう、インクを滲ませた水彩画のように朧げだ。かつて胸を焦がした相手の顔さえ、今では靄のかかった風景のようにしか思い出せない。
だが、その数多の色褪せた紋様たちの中心に、たった一つだけ。どれだけ時が経っても、その輝きを一切失うことのない紋様が存在した。
それは、純白の光で縁取られた、どこまでも深い夜空の色をしていた。精緻な雪の結晶と、燃え盛る星雲が絡み合ったかのような、あまりにも複雑で、あまりにも美しい紋様。
ユキ。
その名を心で呟くだけで、胸の奥が甘く、そして鋭く痛んだ。彼女は、僕が最も深く愛した人だった。
第二章 漂う記憶と止まった秒針
机の引き出しから、ずしりと重い真鍮製の懐中時計を取り出す。蓋に施された緻密な歯車の彫刻を指でなぞり、カチリ、と心地よい音を立てて開いた。黒曜石の文字盤の上を、銀の秒針が滑るように動いている。『共鳴懐中時計(ハーモニー・ウォッチ)』。僕の心臓に刻まれた紋様の数だけ、この時計には見えない秒針が存在する。それぞれの紋様が薄れる速さに合わせて、対応する秒針の動きは遅くなっていくのだ。
ほとんどの秒針は、まるで息も絶え絶えな老人のように、途切れ途切れに進んでいる。やがて紋様が完全に消える時、その秒針も永遠に停止する。
しかし、ユキの紋様と共鳴する秒針だけは、まるで時が凍り付いたかのように、文字盤の十二の位置で微動だにしなかった。
その時だった。部屋の空気がふわりと揺れ、小さな光の粒子が僕の目の前を横切った。蛍のように儚く、けれど確かな存在感を放つ青銀色の光。ユキの『記憶の雫』だ。
彼女がこの世を去ってから、もう幾年も経つ。通常、人の『記憶の雫』は死後すぐに『感情の川』へと還るはずだった。だが、ユキの雫だけは、まるで僕に寄り添うように、常にこの周囲を漂い続けている。
雫はゆるやかな弧を描きながら、僕が手に持つ懐中時計へと吸い寄せられていく。そして、時計の文字盤の上に、美しい光の軌跡を描き始めた。それはまるで、小さな銀河が生まれる瞬間を見ているかのようだった。なぜ、彼女の雫は還らないのか。なぜ、この紋様だけが消えないのか。答えの出ない問いが、僕の心を静かに蝕んでいた。
第三章 川守の老婆
答えを求め、僕は街外れの霧深い森に住む『川守』と呼ばれる老婆を訪ねた。老婆は、世界の運行を司る『感情の川』の流れを代々見守ってきた一族の末裔だという。
苔むした石段を登りきると、古びた庵の縁側で老婆は静かにお茶を啜っていた。僕が名乗るより先に、彼女は皺だらけの顔を上げ、僕の背後、正確には僕の周囲を漂う青銀色の光に目を細めた。
「……迷子の雫じゃな」掠れた声が言った。「還るべき場所に還れず、この世を彷徨う、哀れな魂のかけらじゃ」
「なぜ、還れないのですか」僕は前のめりに尋ねた。
老婆は湯呑を置き、その深く窪んだ瞳で僕の胸元を射抜くように見つめた。「お前さんに繋ぎ止められておるからじゃよ。その胸の紋様……それはただの恋の跡ではない。魂を繋ぎ止める『錨』そのものじゃ」
老婆の言葉は、僕の心に重い波紋を広げた。僕が、ユキの魂をこの世に縛り付けている? 僕の愛が、彼女を安らかな眠りから遠ざけているというのか?
「どうすれば……どうすれば、彼女を解放できますか?」
「錨を断ち切ればよい。じゃがな、坊主」老婆はゆっくりと首を振った。「その錨は、お前さん自身でもある。お前さんの愛が、その雫の『器』となっておる。器を壊せば、中身も……」
言葉の意味を完全には理解できなかった。ただ、絶望的な感覚だけが、冷たい霧のように僕の全身を包み込んでいった。
第四章 共鳴の旋律
ユキとの思い出が詰まった場所を、僕はあてもなく彷徨った。二人でよく訪れた湖畔の古びた天文台。彼女は星の話をするのが好きだった。遠い星の光が、何万年もかけて地球に届くという話。その光は、星が滅んだ後も宇宙を旅し続けるのだと、きらきらした瞳で語っていた。
天文台のドームの下、僕は懐から共鳴懐中時計を取り出した。ユキの雫は、いつもよりずっと活発に僕の周りを舞い、時計の文字盤に複雑な光跡を描いている。
ふと、僕は時計を胸の紋様に近づけてみた。
その瞬間、時計がブン、と低く唸り、僕の手に強い振動が伝わった。文字盤に映る光の軌跡は、まるで激しい嵐の中の稲妻のように乱れ、やがて一つの形に収束していく。
息を呑んだ。
そこに描かれていたのは、僕の心臓に刻まれたユキの紋様と、寸分違わぬ形だった。時計はただ雫の光を映していたのではなかった。僕自身の魂と、ユキの記憶が、この時計の中で共鳴し、一つの旋律を奏でていたのだ。
これはユキだけの記憶じゃない。僕とユキ、二人の記憶そのものなのだ。
第五章 枯れゆく川
世界に異変が起きたのは、その数日後のことだった。
夜空に輝くはずの『感情の川』が、目に見えてその勢いを失い始めたのだ。川の流れは細くなり、光は弱まり、まるで巨大な生命体がゆっくりと死に向かっているかのようだった。
それに伴い、地上の人々にも変化が現れた。街から笑い声が消え、人々の瞳から感情の彩りが失われていく。誰もが自分の『記憶の雫』のオーラが萎んでいくのを感じ、得体の知れない喪失感に苛まれていた。世界全体が、ゆっくりと色を失っていく。
その夜、嵐のように川守の老婆が僕の元を訪れた。
「やはり、お前さんか!」老婆は鬼気迫る表情で叫んだ。「川が枯れかけておる! 還るべき雫が還らぬせいで、循環が滞っておるのじゃ! お前さんの内なる『器』が、留めてはならぬものまで留めておる!」
老婆の言葉が、雷鳴のように僕を撃ち抜いた。僕のせいだ。僕がユキを愛し、その記憶を手放さないせいで、この世界が壊れようとしている。
その時だった。心臓のユキの紋様が、灼けつくように熱を帯びた。見ると、僕の周囲を漂っていた無数のユキの『記憶の雫』が、一斉に僕の胸へと向かって流れ込み始めたのだ。
「ぐっ……!」
激しい痛みに胸を押さえる。だが、それは単なる痛みではなかった。ユキの喜びが、悲しみが、怒りが、そして僕への愛が、奔流となって僕の魂に流れ込んでくる。彼女の人生の全てが、僕の中で溶け合っていく。
第六章 源流の目覚め
最後の雫が僕の胸に吸い込まれた瞬間、痛みは嘘のように消え去った。代わりに、万能感にも似た、穏やかで巨大な感覚が僕を満たしていく。身体中から淡い光が溢れ出し、僕はゆっくりと目を閉じた。
意識は、内なる宇宙へと沈んでいく。
そして、見た。
僕の魂の中心で、あの夜空色の紋様が、一つの恒星のように燦然と輝いていた。それはもはや、ただの紋様ではなかった。そこから、金色、青銀色、緋色……無数の感情の光が生まれ、尽きることのない流れとなって、僕の身体から世界へと注ぎ出されていた。
僕こそが、『感情の川』の源流だったのだ。
ユキの紋様は、彼女の記憶を留めるための『錨』ではなかった。それは、この源流を世界に繋ぎ止めるための『鍵』だった。そして、ユキの雫が川に還らなかったのは、僕という源流が、その循環を生み出すための最初の『一滴』として、彼女の愛を必要としていたからだ。
僕はユキという一人の女性を愛していた。しかし、その愛はいつしか、個人への想いを超え、この世界そのものを潤し、育むための、普遍的な愛の循環そのものへと昇華されていたのだ。
第七章 永遠のフーガ
僕が目を開けると、書斎の窓の外には、再び豊かな光を放つ『感情の川』が雄大に流れていた。街には活気が戻り、遠くから人々の笑い声が聞こえてくる。世界は、色を取り戻していた。
胸に手を当てる。ユキの紋様は、以前よりもさらに強く、確かな輝きを放っている。それはもはや、失われた恋の証ではない。この世界を愛し、育むという僕自身の存在理由そのものだった。
懐から取り出した共鳴懐中時計の秒針は、力強く、そしてどこまでも正確なリズムを刻み続けている。それは世界の心臓の鼓動。僕自身の鼓動でもあった。
僕は窓を開け、夜の冷たい空気を深く吸い込む。ユキはどこにもいない。けれど、この世界の全てに彼女はいる。風の囁きに、星の瞬きに、そして僕の心臓の鼓動の中に。
愛とは、誰かを所有することではない。ましてや、過去に縛られることでもない。それは、形を変え、世界を巡り、新たな感情を生み出していく、終わることのない旋律なのだ。
僕の胸で輝く紋様と、ユキの記憶、そしてこの世界の理。いくつもの旋律が重なり合い、壮大なフーガを奏でている。
僕はその調べに耳を澄ませながら、静かに微笑んだ。