光彩のレガシー

光彩のレガシー

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第一章 光と影のプレリュード

僕、灰原湊(はいばら みなと)の世界は、ファインダー越しに切り取られた光と影で構成されている。写真家として、僕は失われゆく一瞬を永遠に定着させることに、ほとんど強迫的ともいえる情熱を注いできた。だから、彼女、月島栞(つきしま しおり)と出会った時、僕が最初に感じたのは、歓喜よりもむしろ恐怖だった。

彼女は、あまりにも完璧な被写体だったのだ。春の陽光を束ねて紡いだような柔らかな髪、悪戯っぽく弧を描く唇、そして、その瞳の奥に揺らめく、捉えどころのない深い湖のような色。シャッターを切るたびに、彼女は僕の予想を軽やかに裏切り、新たな光を放った。しかし、その輝きが強ければ強いほど、僕は恐ろしくなる。いつかこの光が失われる日が来ることを、この完璧な瞬間が過去になることを、僕の心は知っていたからだ。

僕たちの関係は、現像液の中で像が浮かび上がるように、ゆっくりと、しかし確実に形を成していった。公園のベンチで他愛ない話をし、古い名画座で肩を寄せ合い、僕のアパートでコーヒーの香りに包まれながら、撮りためた彼女の写真を二人で眺める。その全てが、僕の人生で最も美しい記憶として、心のアルバムに一枚ずつ加えられていった。

だが、僕たちの世界には、奇妙で、そして残酷なほどロマンティックな流行があった。『メモリ・スワップ』。恋人同士が、互いの最も美しい記憶を一つだけ選び、特殊な技術で交換するのだ。愛の究極の証明として、メディアはそれを称賛した。記憶を捧げること、それは自らの一部を相手に委ねる、最も神聖な行為だと。

「ねぇ、湊さん。もし私たちがメモリ・スワップをするとしたら、湊さんはどの記憶をくれる?」

ある晴れた午後、栞が不意に尋ねた。窓から差し込む光が、彼女の横顔に淡い輪郭を描いている。僕は、現像中のフィルムを扱うように、慎重に言葉を選んだ。

「考えたこともないよ。僕の記憶は、僕だけのものだ」

「冷たいな。でも、素敵じゃない?相手が一番幸せだった瞬間を、自分も体験できるのよ。まるで、その人の心の一部になるみたいで」

彼女は無邪気に微笑む。だが、僕にはその行為が、自らの魂の一部を削り取って売り渡すことに等しいと思えた。記憶を失うこと。それは、僕がこの世で最も恐れることだった。一度失われた光は、二度と取り戻せない。だからこそ僕は、写真という形で必死にそれを繋ぎ止めようとしているのに。

「栞は、僕の記憶が欲しいの?」

「欲しいよ。湊さんが世界で一番美しいと感じた瞬間を、私も見てみたい」

彼女の澄んだ瞳が、僕の心の奥底を見透かしているようで、僕は思わず目を逸らした。この時、僕はまだ知らなかった。彼女がなぜ、それほどまでに他人の記憶を欲しがるのか。そして、僕が必死に守ろうとしている記憶そのものが、やがて僕自身を最も深く傷つける刃になるということを。僕たちの間に横たわる、光と影のコントラストは、この瞬間から、より一層その濃さを増していった。

第二章 欠けたフレーム

メモリ・スワップを巡る価値観の違いは、僕たちの間に見えない壁を作った。それは、陽だまりの中に落ちた、小さな、しかし無視できない影だった。僕は、栞を愛すれば愛するほど、僕の中から彼女との記憶が一つでも消えるという事実に耐えられなかった。

僕が記憶に固執するのには理由がある。幼い頃、僕は火事で母を亡くした。炎の記憶は鮮明なのに、その腕に抱かれた温もりや、僕の名を呼ぶ声の響きは、薄れていく写真のように、輪郭が曖昧になってしまった。失われた記憶の空白は、僕の心にぽっかりと空いた穴となり、そこから絶えず冷たい風が吹き込んでいる。だから、写真家になった。二度と、大切なものを失わないために。美しい瞬間を、永遠に封じ込めるために。

「湊さんの写真は、綺麗だけど……少し、悲しい匂いがする」

ある日、僕の作品が並ぶ小さなギャラリーで、栞が呟いた。

「光を捉えようとすればするほど、その周りの影が濃くなるみたい。まるで、何かに怯えているみたいに」

彼女の言葉は、僕の核心を正確に撃ち抜いていた。僕は反論できなかった。僕のシャッター音は、祈りであると同時に、悲鳴でもあったのだ。

その日を境に、僕たちは些細なことで衝突するようになった。僕が過去の写真の整理に没頭していると、彼女は「過去ばかり見ていないで、今の私を見て」と拗ねた。彼女が友人からメモリ・スワップの体験談を嬉しそうに話すと、僕は「他人の記憶で感動できるなんて、理解できない」と冷たく突き放した。

僕が撮る栞の写真は、以前よりもどこか硬質的になっていた。フレームの中に完璧に収めようとすればするほど、彼女の生命力あふれる自由な光が、少しずつ色褪せていくような気がした。僕の独善的な愛が、彼女を窮屈な額縁の中に閉じ込めようとしているのかもしれない。

「湊さんは、私という人間そのものより、私との『美しい記憶』という作品の方が大切なんじゃない?」

ある雨の夜、彼女が放った言葉が、僕の胸に深く突き刺さった。違う、と叫びたかった。君そのものが、僕にとっての光なんだ、と。だが、言葉は喉の奥でつかえ、出てこない。僕の記憶への執着が、僕自身の心を縛りつけ、最も大切なはずの彼女の心を、見えなくさせていた。

答えられない僕を見て、栞は静かに涙を流した。その涙は、僕の心のレンズを曇らせ、僕たちの未来を不確かに滲ませた。僕のファインダーには、もう完璧な構図を描くことなどできなくなっていた。愛というフレームは、すでにひび割れ、そこから大切な何かが零れ落ちていく音だけが、部屋に響いていた。

第三章 あなたに贈るエピローグ

翌朝、栞の姿はどこにもなかった。部屋には、雨上がりの湿った空気と、彼女が残したラベンダーの香りが微かに漂っているだけだった。テーブルの上に、一通の封筒が置かれていた。僕の心臓が、氷水に浸されたように冷たく収縮した。

手紙の内容は、僕が築き上げてきた世界を根底から破壊するのに十分すぎるものだった。

『湊さんへ。ごめんなさい、黙っていて。

私には、時間がありません。私の脳は、新しい記憶を作ることが少しずつ難しくなり、そして古い記憶から順に消えていく、珍しい病気にかかっています。まるで、露光しすぎたフィルムみたいに、世界が白く飛んでいくの。

だから、メモリ・スワップがしたかった。湊さんに私の記憶をあげたかったわけじゃない。逆なの。あなたの最も美しい記憶を一つ、私の中に欲しかった。消えゆく私の中に、たった一つでもいい、確かな光の粒を残しておきたかった。それが、あなたの記憶なら、きっと最後まで輝き続けてくれると思ったから』

手紙を持つ手が震えた。彼女が欲していたのは、愛の証明ではなかった。それは、消えゆく自分を繋ぎ止めるための、必死の祈りだったのだ。僕が自分の過去の傷に囚われ、彼女の痛みに気づけなかったことが、悔しくてならなかった。

手紙は続く。

『私の最も美しい記憶は、あなたと出会ってからの全ての日々。一つになんて、とても選べません。だから、代わりに私の“最後の記憶”を、あなたにあげます。私がこの世界から消える、その瞬間の記憶を。受け取るかどうかは、湊さんが決めてください。

愛しています。私の、最初で最後の写真家さん』

手紙の横には、小さなメモリーチップが置かれていた。彼女の、エピローグ。

僕は数日間、抜け殻のようになった。彼女のいない部屋で、彼女の写真を眺め続けた。写真の中の彼女は、永遠に微笑んでいる。だが、僕はもう、その笑顔の裏にあった彼女の孤独と絶望を知ってしまった。僕は、何を撮っていたのだろう。彼女の何を、見ていたのだろう。

僕は、ようやく悟った。僕が恐れていたのは、記憶を失うことではなかった。愛する人を、その存在そのものを失うことだったのだ。記憶とは、過去を保存するためのものではない。未来を生きていくための、道標となる光なのだ。

僕は決意した。メモリーチップを、自宅のメモリ・スワップ用のコンソールにセットした。その前に、もう一つの空のチップを用意する。僕は、僕の記憶の中から、最も美しい一瞬を探した。それは、栞と初めて出会った日。木漏れ日が降り注ぐ公園で、カメラを構える僕に、彼女がはにかみながら微笑んだ、あの瞬間。世界が、生まれて初めて本当の色を持ったように感じた、あの光の記憶。

「さよなら、僕の始まりの記憶」

僕は、その記憶データを空のチップに移した。僕の脳裏から、あの日の光景が、すぅっとインクが水に溶けるように消えていく感覚があった。胸に空いた穴は、以前よりもずっと大きく、冷たい。だが、不思議と後悔はなかった。この記憶は、もう僕のものではない。たとえ彼女が受け取れなくても、僕が彼女を愛した証として、この世界に放つのだ。僕は、彼女の名前を宛先に設定し、データを送信した。

そして、僕は覚悟を決めて、彼女が残したチップを再生した。

視界に広がるのは、見慣れた僕の部屋の天井。微かに、僕のシャンプーの香りがする。視線がゆっくりと動く。壁に飾られた、僕が撮った写真の数々。楽しそうに笑う彼女、怒った顔の彼女、眠っている彼女……。そして、視線は一枚のポートレートで止まる。僕が撮った、お気に入りの一枚だ。

彼女の唇が、微かに動いた。声は、ない。だが、僕には聞こえた。

『ありがとう』

その口の動きと共に、彼女の視界は、ゆっくりと、永遠の白にフェードアウトしていった。

涙が止まらなかった。それは、悲しみだけの涙ではなかった。彼女の最期に寄り添えたという、温かい痛みを伴う涙だった。僕は、彼女の一部になったのだ。

僕はカメラを手に取った。初めて出会った日の記憶は、もうない。だが、僕の心には、彼女が残してくれた最後の光がある。この光を道標に、僕はこれからもシャッターを切り続けるだろう。たとえいつか、僕の記憶の全てが色褪せても、僕が撮った写真の中に、僕たちが愛し合ったという真実が、永遠に焼き付いているのだから。

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