心葬グラヴィティ

心葬グラヴィティ

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第一章 共鳴するクリスタル

彼女、凪(なぎ)と初めて出会ったのは、雨上がりの古書店だった。湿った土と古い紙の匂いが混じり合う中、彼女は背表紙の文字を指でなぞっていた。その横顔に光が差し、まるで世界から切り取られた一枚の絵画のようだと、ありきたりな感傷に浸ったのを覚えている。

「その本、探してたんですか?」

僕、朔(さく)が声をかけると、凪はゆっくりと振り返った。彼女の瞳は、静かな湖の底を思わせる深い色をしていた。その瞳に吸い込まれた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。トクン、と自分の心臓ではない、もう一つの鼓動が聞こえた気がした。

僕たちはごく自然に言葉を交わし、店を出て、濡れたアスファルトが街灯を反射する道を並んで歩いた。彼女の笑い声は、澄んだ鈴の音のように心地よく響いた。公園のベンチに腰掛け、他愛もない話に夢中になっていた時、その奇跡は起きた。

「朔さんの心臓の音、なんだか聞こえるみたい」

凪がそう言って、はにかんだ。その瞬間、僕の心臓が彼女の言葉に応えるように高鳴り、そして、信じられないことに、すぐ隣にある彼女の鼓動と完全に重なり合ったのだ。トクン、トクン、と一つの生命が奏でるような、完璧なユニゾン。

直後、ふわり、と体が浮いた。地面から数センチ、僕たちの体が重力の軛(くびき)から解き放たれる。驚いて見つめ合うと、互いの胸に、淡い光が灯っていた。僕の胸には空色の、彼女の胸には水色の、透明なクリスタルが皮膚の下で静かに輝いている。それは、僕たちの愛がこの世界の法則に触れた、神聖な証明だった。

第二章 希薄な輪郭

凪との日々は、まるで夢のようだった。共に歩けば地面を蹴る足取りはいつも軽く、手を繋げば指先から互いの心音が伝わってくる。街には、愛を失い、地面に亀裂を走らせるほどの重力に引きずり込まれた者たちの痕跡――人間型の深い陥没跡――が点在していたが、僕たちには無縁の世界だった。僕たちの愛は真実だと、胸のクリスタルとこの浮遊感が証明してくれていたから。

しかし、いつからだっただろう。凪の輪郭が、時折、陽炎のように揺らぐようになったのは。

行きつけのカフェで、店員が僕にだけ「ご注文は以上でよろしいですか?」と尋ねた。僕の向かいに座り、微笑んでいる凪の姿が、彼には見えていないかのように。

「凪の分の紅茶も」と僕が言うと、店員は怪訝な顔で「はあ…」と頷くだけだった。

部屋に飾った写真の中の凪が、日に日に薄くなっていく。最初は光の加減かと思った。だが違う。彼女の存在そのものが、この世界から少しずつ剥がれ落ちていくような、耐え難い予感が胸を締め付けた。

「ねえ、凪。何か隠してないか?」

問いかけると、彼女はいつも寂しそうに微笑むだけだった。胸のクリスタルは変わらず輝き、僕たちの心臓は同期を続けている。愛は、ここにある。なのに、なぜ君は消えていくんだ? 不安が黒い染みのように、幸福な日々に広がっていった。

第三章 失われる記憶の錨

その恐怖は、親友の健太と会った日に、絶望となって僕を打ちのめした。

「最近どうだ? 例の彼女とは」

健太の何気ない一言に、僕は堰を切ったように凪への不安を吐き出した。彼女の存在が薄れていること、周りの人間が彼女を認識しなくなっていること。

必死に訴える僕を、健太は奇妙なものを見るような目で見つめていた。そして、戸惑いがちにこう言ったのだ。

「朔、何を言ってるんだ? お前に彼女なんて、ずっといなかったじゃないか」

頭を殴られたような衝撃。血の気が引き、指先が冷たくなる。健太の瞳には、嘘や冗談の色はなかった。彼は本気で、僕が一人で幻覚を見ているのだと心配していた。

僕は震える手でスマートフォンを取り出し、凪と一緒に撮った写真を見せようとした。しかし、画面に映っていたのは、公園のベンチに一人で座る僕の、間の抜けた笑顔だけだった。隣にいたはずの凪の姿は、跡形もなく消え去っていた。

世界が、僕を一人きりにしようとしている。凪という存在を、僕の記憶の中からさえ奪い去ろうとしている。心臓は変わらず凪の鼓動を刻んでいるのに。この胸のクリスタルは、今も確かに彼女の愛を映して輝いているのに。世界でただ一人、僕だけが彼女を繋ぎ止める、最後の錨だった。

第四章 転移する光

アパートの部屋に戻ると、凪は窓辺に立っていた。その体は向こう側の夜景が透けて見えるほど、希薄になっていた。声も、風に溶けてしまいそうなほどか細い。

「…朔さん。ごめんね、ずっと言えなくて」

彼女がゆっくりと僕に向き直る。その瞬間、凪の胸で輝いていた水色のクリスタルが、最後の光を放つかのように一度だけ強くまたたき、そして、ふっつりと光を失った。まるで燃え尽きた星のように。

直後、失われた光は一条の奔流となり、僕の胸へと突き刺さった。

「ぐっ…!」

激痛と共に、僕の胸の空色のクリスタルが常軌を逸した輝きを放ち始める。熱い。焼けるように熱い。体中の血液が沸騰し、骨がきしむような感覚。そして、これまで経験したことのない強烈な浮遊感が僕を襲った。天井に頭を打ち付けるのではないかと思うほどの力で、体が宙に引かれていく。

「凪、これは、一体…!」

「私はね、朔さん。…この世界の『愛の法則』そのものなの」

透き通る体で、凪は微笑んでいた。その顔は、慈愛に満ちた聖母のようにも、すべてを諦めた少女のようにも見えた。

「世界から『愛』が枯渇し始めて、私という法則も消えかけていた。そんな時、あなたの愛を見つけたの。あまりにも純粋で、強くて、温かい光だった」

彼女の言葉が、輝きを増す僕の心臓に直接響いてくる。

「だから、最後にあなたに託したかった。この世界の、愛のすべてを」

第五章 愛の法則

凪の言葉は、世界の真実を静かに解き明かしていく。人々が愛を見つけ、ふわりと浮き上がる奇跡。愛を失い、重力に引きずり込まれる絶望。そのすべてを司る法則が、人格を持った存在――それが凪だったのだ。

世界の『愛』の総量が減り、法則を維持する力が弱まったことで、彼女は消滅の危機に瀕していた。僕との出会いは、彼女にとって最後の希望だった。僕の純粋な愛は、彼女が最後に触れた、最も強い輝きだったのだ。

「私の『心臓の鼓動』と『無重力現象』を、あなたに完全に移植する。それが、この光の転移の意味」

凪は透ける手で、僕の胸のクリスタルにそっと触れた。もう、その指先の感触はない。ただ、温かい光の記憶だけが残っていた。

「あなたは、新しい『愛の法則』になるの。私という恋人を失う代わりに、世界中の愛を守る存在になる」

それは、祝福であり、呪いでもあった。永遠の命と引き換えに、誰とも真に結ばれることのない、孤独な役目。

「嫌だ…! 凪、行かないでくれ! 君がいない世界なんて、僕には…!」

涙が頬を伝う。だが、凪は静かに首を振った。

「あなたはもう一人じゃない。あなたの心臓は、これから、世界中の恋人たちの鼓動と共鳴するから」

彼女は最後の力を振り絞り、僕の唇に自分の唇を重ねた。それはキスというにはあまりに儚く、光の粒子が触れたような感触だった。そして、僕の腕の中で、彼女の姿は完全に光の中に溶けて消えた。後には、雨上がりの土の匂いだけが、微かに残っていた。

第六章 孤独な観測者

凪が消えてから、どれくらいの時が経っただろうか。僕の時間は止まったままだ。歳も取らず、ただこの世界を歩き続けている。

僕の心臓は、今や一つのオーケストラだ。街を歩けば、カフェで初めて手を繋ぐ若者たちの高鳴りが、公園で寄り添う老夫婦の穏やかな鼓動が、僕の胸にさざ波のように伝わってくる。そして、彼らの愛が真実であると確信した瞬間、僕の胸のクリスタルが強く輝き、彼らの体をふわりと浮き上がらせる。

それは、凪から受け継いだ力。僕が世界に対して行える、唯一の祝福。

僕はもう、誰かを愛することはないだろう。僕自身が『愛の法則』となった今、特定の誰かと心臓を同期させることは、世界の均衡を崩壊させることを意味するからだ。僕の胸で輝くこの強すぎる光は、凪という一人の女性を愛した証であり、同時に、もう誰も愛せないという孤独の烙印でもあった。

時折、空を見上げる。あの雨上がりの日のように、空気が澄んだ夜には、星々の間を漂う凪の気配を感じる気がする。彼女は法則から解き放たれ、宇宙のどこかで僕を見守ってくれているのかもしれない。

今日もまた、街のどこかで新しい愛が芽生える。トクン、と僕の心臓が新たな鼓動を捉える。僕はそっと胸のクリスタルに触れ、目を閉じた。

これは、彼女が僕に託した、永遠で、孤独な愛の物語。そしていつか、僕もまた、この世界のどこかで輝く純粋な光を見つけ出し、この心臓と重力を引き継ぐ日が来るのだろう。その日まで、僕は世界中の愛を守り続ける。ただ一人、凪を想いながら。

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