第一章 蜂蜜の声
水野凪の世界は、味で構成されていた。それは比喩ではない。彼女は、他人の声に「味」を感じる特殊な共感覚――味聴覚の持ち主だった。
調香師という職業は、彼女の繊細な感覚にとって天職のようにも思えたが、日常は苦痛に満ちていた。甲高い上司の叱責は、舌の上で爆ぜる焦げ付いた唐辛子の辛さ。同僚たちの当たり障りのない会話は、後味の悪い人工甘味料の塊。街の喧騒は、様々な味が無秩序に混ざり合った、得体の知れない雑炊のようだった。凪はいつしか、他者との間に薄い膜を張り、心を閉ざして生きるようになっていた。
そんな彼女の世界に、唯一の救いがあった。恋人である月島律の存在だ。
三年前、雨宿りのために入った路地裏の古書店。そこで店主をしていたのが律だった。静かな雨音だけが響く店内で、彼が「どうぞ、ごゆっくり」とかけた声を聞いた瞬間、凪は世界が一変するのを感じた。
それは、雨上がりの森で採れた極上の蜂蜜のような、澄みきって、どこまでも優しい甘さだった。雑味も、嫌な後味も一切ない、純粋な結晶のような味。凪は生まれて初めて、他人の声に安らぎを覚えた。
それ以来、凪は彼の声に惹きつけられるように店へ通い、二人は自然と恋に落ちた。律の隣は、凪にとって世界で唯一の安全な場所だった。彼の声を聞いているだけで、凪のささくれだった心は、滑らかな蜜蝋で優しくコーティングされていくようだった。
「凪、この一節、聞いてくれるかい」
週末の午後、律の店の奥にある小さなソファで、彼は古びた詩集を開いた。窓の外では、春の柔らかな陽光が埃をきらきらと踊らせている。凪は目を閉じ、彼の声に全神経を集中させた。
律の紡ぐ言葉一つひとつが、舌の上で甘く溶けていく。それは単なる蜂蜜ではない。若葉の息吹、湿った土の香り、そして微かな花の蜜のニュアンスが複雑に絡み合い、凪の心を満たしていく。凪は、この声の味を、誰よりも正確に理解している自信があった。この味こそが、彼の誠実で優しい魂そのものだと信じていた。
「どうだった?」
朗読を終えた律が、穏やかに微笑む。
「……すごく、美味しかった」
凪は素直な感想を口にした。律はきょとんとした顔をしたが、彼女の独特な表現をいつものことだと受け止め、愛おしそうに凪の髪を撫でた。
凪は、自分の能力のことを律に打ち明けてはいない。この特殊な感覚が、二人の純粋な関係に余計なフィルターをかけてしまうのが怖かった。それに、伝える必要も感じていなかった。彼の声の味が、彼のすべてを物語っているのだから。この蜂蜜のような日々が、永遠に続くと、凪は信じて疑わなかった。
第二章 苦いハーブの揺らぎ
二人の日々は、丁寧に淹れた紅茶のように穏やかに過ぎていった。凪は仕事の合間に律の店を訪れ、彼の声という名の甘露に浸る。律もまた、凪が来るのを心待ちにしているようだった。彼は凪のために珍しい本を探しておいてくれたり、彼女が好きそうな香りのハーブティーを淹れてくれたりした。
しかし、完璧に調和が取れていると思われた世界に、ある時から微かな不協和音が混じり始めた。
それは、ほんの些細な変化だった。律がふと窓の外へ視線を向け、物憂げな表情で黙り込むことが増えた。そんな時、凪が「どうかしたの?」と尋ねても、彼は「いや、なんでもないよ」と微笑むだけ。だが、その声には、蜂蜜の甘さを一瞬だけ曇らせるような、微かな「苦いハーブ」の風味が混じっていた。
初めてその味を感じた時、凪は心臓が小さく跳ねるのを感じた。それは薬草のような、どこか薬めいた苦味。すぐに消えてしまうその味の正体が分からず、凪は戸惑った。
ある夜、凪が律のアパートで夕食の準備をしていると、彼の携帯が鳴った。凪の知らない名前が表示されている。律は少し離れた場所で電話に出たが、彼のひそめた声が凪の耳に届いた。
「……うん、分かってる。大丈夫だから」
その短い言葉の中に、またしてもあの苦いハーブの風味が潜んでいた。しかも、以前よりもずっと濃く、長く尾を引いている。凪の舌の上に、ざらりとした苦味が広がった。
不安が、染みのように凪の心に広がっていく。
(誰と話しているの? 何を隠しているの?)
けれど、凪にはそれを問いただす勇気がなかった。この心地よい世界を、自らの手で壊してしまうのが怖かった。律の声の味が変わってしまうこと、それが凪にとっては何よりも恐ろしいことだった。彼女は自分の感覚に蓋をするように、気のせいだ、きっと疲れているだけだ、と何度も自分に言い聞かせた。
律は何も変わらないように振る舞った。凪に優しく、その声はほとんどの時間、甘い蜂蜜の味を保っていた。凪もまた、彼の前ではいつも通りの笑顔を浮かべた。だが、一度芽生えた疑念は、水面下で静かに根を張り、二人の間に見えない溝を作り始めていた。凪は、律の声を聞くたびに、その甘さの中に苦いハーブの風味を探してしまう自分に気づいていた。蜂蜜の味を純粋に楽しめなくなった時、凪は言いようのない孤独を感じていた。
第三章 腐敗した果実の夜
決定的な夜は、冷たい雨がアスファルトを叩く日にやってきた。
仕事の帰り道、凪のスマートフォンが震えた。律からの着信だった。凪は胸騒ぎを覚えながら、通話ボタンを押す。
「凪? 今、大丈夫かい」
その声を聞いた瞬間、凪は息を呑んだ。耳から流れ込んできたのは、音の形をした絶望だった。
蜂蜜の甘さは跡形もなく消え失せていた。代わりに舌を刺したのは、腐り落ちた果実の酸味と、淀んだ泥水が混じり合ったような、吐き気を催すおぞましい味。それは凪が今まで経験したどんな不快な味とも比較にならない、魂の腐敗を思わせる味だった。
「……大事な話があるんだ。今夜、会えないかな」
続く律の言葉は、凪の耳にはもう届いていなかった。頭の中で、警鐘が鳴り響いている。
(終わった。彼の心は、もう私にはない)
あの苦いハーブの味は、心変わりの予兆だったのだ。そして今、彼の心は完全に腐ってしまった。凪の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。信じていたものが、足元からすべて消えていく感覚。
「……ごめんなさい。今日は、会えない」
凪はかろうじてそう答えると、一方的に電話を切った。傘もささずに雨の中に立ち尽くし、ただ涙が頬を伝うのを感じていた。彼の声の味が、彼の裏切りを何よりも雄弁に物語っていた。
翌日、凪は仕事を休んだ。律に別れを告げなければならない。もうあの声を聞くことはできないのだ。そう思うだけで、胸が張り裂けそうだった。
凪は、最後のけじめをつけるため、震える足で律の古書店へと向かった。店のドアを開けると、いつもと変わらない古書の匂いが鼻をつく。しかし、カウンターに彼の姿はなかった。
「律さん……?」
店の奥へ向かうと、小さな椅子に深くもたれかかった律の後ろ姿が見えた。凪が決意を固め、「話が――」と口を開きかけた、その時。
「……ケホッ、ゴホッ……!」
律の背中が激しく波打ち、苦しそうな咳が店内に響いた。驚いて駆け寄った凪の目に映ったのは、信じられない光景だった。
そこにいたのは、凪の知っている律ではなかった。頬はこけ、血の気を失った唇は青白い。ほんの数日会わなかっただけなのに、まるで何年も歳月が過ぎたかのように、彼はやつれ果てていた。
「……なぎ、か。来てくれたんだね」
振り向いた律は、凪を見て穏やかに微笑もうとした。しかし、その声は掠れ、腐敗した果実の味はさらに酷くなっている。
凪は、その瞬間、すべてを悟った。
声の変化は、心変わりなどではなかった。彼の生命そのものが、蝕まれていたのだ。凪の能力は、人の感情だけでなく、その人が放つ生命力の「味」さえも感じ取っていた。蜂蜜のような澄んだ味は彼の健やかな生命力そのものであり、腐敗した味は、彼の命が尽きかけている悲痛な叫びだったのだ。
「なんで……なんで、言ってくれなかったの……!」
凪の目から、再び涙が溢れ出した。それは絶望の涙ではなく、自分の愚かさと、彼の深い愛情に対する、痛みと悔しさに満ちた涙だった。
第四章 塩味のスープを君と
律は、進行性の難病を患っていた。凪に心配をかけたくない一心で、ずっとその事実を隠し続けていたのだ。凪が感じていた苦いハーブの風味は、彼が服用していた薬の味。物憂げな表情は、病の痛みと闘っていた証だった。すべての辻褄が合った時、凪は自分の感覚だけを信じ、彼を疑ったことを心の底から恥じた。
「君の声の味が変わった時、あなたが私を嫌いになったんだと思った。最低だよね、私……」
病院のベッドの横で、凪は律の手を握りながら告白した。
「君は、僕の声の味が分かるのかい?」
律は驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように微笑んだ。「なるほどな」と彼は呟く。「君が時々、『美味しい』って言ってくれた理由が、やっと分かったよ」
その日を境に、凪は律を支えることに全力を尽くした。仕事が終わると毎日病院へ通い、彼のそばで過ごした。律の声の味は、彼の体調を示すバロメーターのように、日によってめまぐるしく変化した。ある日は泥水のように濁り、凪の心を絶望の淵に突き落とした。またある日は、ほんの少しだけ、雨上がりの蜂蜜の香りが戻り、凪に希望を与えた。
凪は、その味の変化に一喜一憂しながらも、決して逃げなかった。ただひたすら、彼の手を握り、彼の声に耳を澄ませた。
季節が巡り、秋になった。律は奇跡的に病状が安定し、自宅療養ができるまでに回復した。凪は彼の古書店の一角に住み込み、共に暮らすことを選んだ。
ある晴れた午後、凪は律のために新しい香水を調合していた。雨上がりの森の香り。オークモスの深み、湿った土の匂い、そして微かな若葉の息吹。それは、二人が出会った日の香りであり、かつての彼の声の味を再現した香りだった。
「凪、少し休んだらどうだい」
ソファで本を読んでいた律が、優しい声で凪を呼ぶ。凪は手を止め、彼の隣に座った。
「……今日のあなたの声はね、少し塩気のある、温かいスープみたいな味がするよ」
凪がそう言うと、律は嬉しそうに笑った。彼の声は、もうあの完璧な蜂蜜の味に戻ることはないのかもしれない。病の痕跡は、苦味や塩気として、彼の声に永遠に残るだろう。
しかし、凪はもうその味に惑わされることはなかった。
腐敗した味の奥にあった彼の愛情を知った今、彼女には声の表面的な味ではなく、その奥にある魂の響きそのものが聞こえるようになっていた。不完全で、時に苦く、それでも懸命に生きようとする彼の声。そのすべてが、今の凪にとっては、どんな極上の蜂蜜よりも愛おしい「味」だった。
凪は律の肩にそっと頭を乗せ、目を閉じた。窓から差し込む陽光が、二人を優しく包み込んでいる。声の味が教えてくれたのは、失うことの痛みと、それでもなお残る愛の深さだった。世界は決して甘いだけの味では構成されていない。けれど、苦味や塩気の向こうにこそ、本当の温もりがあることを、凪は知っていた。