星屑のレプリカ

星屑のレプリカ

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第一章 星屑の置き土産

水野栞の恋人は、夢の中にだけ棲んでいた。

彼の名前はハル。顔立ちはいつも夜霧のように朧げで、はっきりと捉えることはできない。けれど、彼の声は低く穏やかで、栞の名前を呼ぶたびに鼓膜が心地よく震える。彼の手は大きくて、少しだけ無骨で、栞の華奢な手を包み込むと、現実のどんな温もりよりも確かな熱を伝えてきた。

図書館司書として、静寂とインクの匂いに満たされた日々を送る栞にとって、ハルとの夢の中の逢瀬は、唯一の秘密であり、不可侵の楽園だった。夢の中で二人は、架空の街を歩き、存在しない映画について語り合い、栞の好きな古い小説の一節を交互に暗唱した。ハルはいつも、栞が忘れていたはずの幼い頃の記憶や、心の奥底に沈めた些細な願い事まで、まるで自分のことのように知っていた。彼は、栞にとっての完璧な理解者であり、理想の恋人だった。

「これは、君へのお守り」

昨夜の夢で、ハルはそう言って小さなガラスのオブジェを栞の掌に乗せた。それは、星の形をしたアンティークの砂時計で、中には銀色に光る微細な砂が詰められている。

「この星が全部落ちきる前に、また会いに来るよ」

彼の声が遠ざかっていく。栞は必死に手を伸ばすが、指先は空を掻くだけだった。

けたたましいアラームの音で、栞は現実世界に引き戻された。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の白い壁を鋭く照らしている。また同じ夢だ。切なさと幸福感が入り混じった奇妙な余韻に浸りながら、栞は身を起こした。そして、息を呑んだ。

枕元に、何かが光を反射してきらりと輝いている。

手を伸ばし、それを恐る恐るつまみ上げる。ひんやりとしたガラスの感触。掌に収まる、小さな星の形。

夢でハルがくれたはずの、あの砂時計が、そこにあった。

中では、銀色の砂がさらさらと、しかし確実に、下のくびれへと落ちていく。まるで、夢の続きが現実を侵食し始めたかのように。栞の心臓が、恐怖と、ありえないはずの期待とで、激しく脈打ち始めた。これは、一体どういうことなのだろう。私の恋人は、本当に、ただの夢なのだろうか。

第二章 海鳴りの地図

あの日以来、栞の世界は静かに変容し始めた。枕元の砂時計は、幻覚でもなければ、栞自身がどこかで買った記憶もない。それは紛れもなく、夢の中からやってきた「置き土産」だった。栞はそれを職場にまで持っていき、仕事の合間にこっそりと眺めた。銀の砂が落ちきるたびに、世界がひとつ終わってしまうような焦燥感に駆られた。

ハルは実在するのではないか。その考えは、日に日に栞の心を支配していった。もしそうなら、彼を見つけ出さなければ。砂時計が尽きる前に。

手がかりは、夢の中でハルが語った断片的な言葉だけだ。「カモメの声がうるさいくらいに聞こえる、海沿いの坂道」「坂を上りきったところにある、閉鎖された古い天文台」「僕たちはそこで、アンドロメダを探したじゃないか」。

栞は週末、有給休暇を繋ぎ合わせ、その曖昧な地図を頼りに旅に出た。インターネットで「海」「坂道」「古い天文台」というキーワードを執拗に検索し、やがて、ある港町にたどり着いた。都心から電車を乗り継いで三時間ほどの、時間が止まったような寂れた町だった。

駅に降り立った瞬間、潮の香りが濃密に肺を満たし、頭上ではカモメが鋭い声で鳴いていた。心臓が跳ねる。栞は錆びた案内図を頼りに、ひたすら坂道を上った。息が切れ、額に汗が滲む。夢で見た風景と、目の前の景色が重なっていく。古びた商店、軒先に干された洗濯物、足元に転がる小さな貝殻。既視感が、波のように押し寄せてくる。

坂を上りきると、視界が開け、丘の上に立つ白亜のドームが見えた。蔦の絡まった壁、赤錆の浮いた鉄の扉。閉鎖された天文台だ。

「ハル……」

栞は無意識に彼の名前を呟いていた。ここに、彼がいる。あるいは、彼に繋がる何かが必ずある。確信にも似た予感が、栞の全身を貫いた。

しかし、天文台の扉は固く閉ざされ、人の気配は全くない。栞が途方に暮れてその場に立ち尽くしていると、背後からしゃがれた声がした。

「お嬢さん、こんなところで何をしとるんかね」

振り返ると、腰の曲がった老人が、剪定ばさみを片手に立っていた。天文台の敷地を管理している人物らしかった。

「あの、人を探していて……」

栞は藁にもすがる思いで、ハルの特徴を説明した。声が優しくて、星に詳しくて、少し不器用な手をしていて……。支離滅裂な説明を、老人はただ黙って聞いていた。

第三章 追憶の天文台

栞の説明が途切れると、老人はしばらくの間、何かを思い出すように遠くを見つめていた。やがて、深く刻まれた皺をさらに深くして、ゆっくりと口を開いた。

「……ハルさん、かね」

その名前に、栞は息を呑んだ。全身の血が逆流するような感覚。

「ご存じなんですか!?」

「ああ、知っとるも何も……」

老人は言葉を濁し、栞をじっと見つめた。「まあ、立ち話もなんだ。中に入んなさい」と、錆びた鍵束から一本を選び、重い鉄の扉を開けてくれた。

中は、ひんやりとした空気に満ち、埃と古い紙の匂いがした。ドームの天井から差し込む光が、空気中の塵をきらきらと照らし出している。中央には、白い布を被せられた巨大な望遠鏡が、眠れる巨人のように鎮座していた。

老人は壁際の古びた机の引き出しを漁り、一枚の色褪せた写真を取り出した。

「あんたが探しとるのは、この人じゃないかね」

栞は震える手で写真を受け取った。鼓動が耳元で鳴り響く。

そこに写っていたのは、見覚えのある天文台を背景に、優しく微笑む一人の青年だった。そして、その青年の隣で、満面の笑みを浮かべて彼の手にしがみついている、幼い少女。

栞は、青年の顔に見覚えはなかった。けれど、その隣で笑う少女は、間違いなく、幼い頃の自分自身だった。

そして、青年が着ているセーターの胸元には、星の形をしたピンバッジが留められている。栞が持っている砂時計と、そっくりな形をしていた。

「この人は……誰、ですか?」

声が震える。

老人は、慈しむような、そして少しだけ悲しそうな目で栞を見た。

「あんたの、おじいさんだよ。水野春彦(はるひこ)さん。みんな、親しみを込めて『ハルさん』って呼んどった」

春彦。ハル。

その瞬間、栞の頭の中で、固く閉ざされていた扉が、轟音を立てて開いた。忘却の彼方に沈んでいた記憶が、濁流のように溢れ出す。

大好きだった祖父。物知りで、いつも栞の手を引いて星の話をしてくれた祖父。この天文台は、若き日の祖父が働いていた場所だった。そして、栞が幼い頃、何度も連れてきてもらった思い出の場所だったのだ。

「これは、栞へのお守りだよ。この星が全部落ちきる前に、おじいちゃんはまた栞に会いに来るからね」

砂時計をくれたのは、ハルではなかった。病が進行し、少しずつ記憶が混濁し始めていた祖父だった。

栞が高校生の頃、祖父は若年性アルツハイマー病と診断された。優しかった祖父は、日に日に幼い子供のように帰り、やがて栞のことも分からなくなった。その姿を見るのが辛すぎて、悲しすぎて、栞は無意識のうちに、祖父との幸せだった記憶ごと、心の奥底に封じ込めてしまっていたのだ。

追い求めていた理想の恋人「ハル」は、栞が心の拠り所として無意識に創り上げた、最も愛する家族の記憶の断片だった。恋愛だと思っていた焦がれるような感情は、失われた祖父への思慕と、もう戻らない時間への郷愁だった。

写真を持つ手が、小刻みに震える。ぽつり、と温かい雫が写真の上に落ち、滲んだ。

第四章 君のいない世界で光る星

全ての記憶の蓋が開いた時、栞はただその場に泣き崩れた。それは悲しみの涙だけではなかった。忘れていた祖父の温もり、声、眼差し。その全てが、失われたのではなく、自分の内側でずっと生き続けていたことへの、安堵の涙でもあった。

老人は何も言わず、栞の隣に座り、そっと肩を叩いてくれた。彼は、祖父の同僚だったのだという。病に侵されながらも、最後まで星と、そして孫娘である栞のことを愛し続けた祖父の姿を、ぽつりぽつりと語ってくれた。

「ハルさんは、自分の記憶が消えていくことを、誰よりも怖がっていた。それでも、『栞に教えた星の名前だけは、忘れたくない』って、何度も星図を眺めていたよ」

栞は、辛い現実から目を逸らし、祖父から逃げていた自分を恥じた。そして、そんな自分を責めることなく、夢という形で寄り添い続けてくれた「ハル」に、心の底から感謝した。彼は、栞自身が生み出した、祖父の愛のレプリカだったのだ。

東京に戻った栞は、屋根裏部屋の奥から、古いアルバムを見つけ出した。そこには、天文台で撮ったものと同じ、祖父と笑う自分の写真があった。枕元の砂時計は、きっと、祖父の遺品を整理した時に、無意識に自分の部屋へ持ち込んでいたのだろう。全ては、自分自身の心が仕組んだ、再会への物語だった。

栞の世界から、夢の中の恋人はいなくなった。もうハルは現れない。けれど、栞はもう孤独ではなかった。内向的で、現実の人間関係に臆病だった心は、失われた記憶を取り戻したことで、確かな芯を得ていた。過去を受け入れ、愛されていた自分を認めることで、初めて未来へと歩き出す勇気が湧いてきたのだ。

数週間後の午後。栞が働く図書館は、穏やかな光に満ちていた。児童書コーナーで、一人の少年が分厚い宇宙図鑑を抱え、困った顔をしている。

栞はそっと少年に歩み寄り、優しく声をかけた。

「何か探しているの? よかったら、お手伝いするよ。お姉さんね、星の話が大好きなんだ」

その声色は、自分でも驚くほど、温かくて、穏やかだった。かつて、大好きだった祖父が自分に向けてくれた声と、どこか似ている気がした。

夜、栞は自室の窓辺に、あの星の砂時計を置いた。月の光を受けて、銀色の砂が静かにきらめいている。それはもう、タイムリミットを告げる不吉なオブジェではない。祖父がくれた、永遠の愛の証だ。

ハルはいない。祖父も、もういない。

けれど、彼らが教えてくれた星は、今夜も空で確かに光っている。君のいないこの世界で、君がくれた光を見上げながら、私は生きていく。

栞は星空を見上げ、そっと微笑んだ。その頬を伝った一筋の涙は、もう冷たくはなかった。

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