第一章 触覚の牢獄
古書のインクと、乾いた紙の匂いが満ちる静寂。それが、水島朔(みずしま さく)の世界のすべてだった。彼が店主を務める古書店『時の澱(おり)』は、街の片隅で忘れられたように佇み、朔自身もまた、世界から忘れられることを望んでいた。
彼の手は、常に薄い革の手袋に覆われている。夏でも、本のページを一枚一枚丁寧にめくるときでさえ、彼は決して素肌を晒さない。それは奇癖ではなく、呪いへのささやかな抵抗だった。
「すみません、この棚の上の方の本を…」
背後からの声に、朔はゆっくりと振り返る。常連の老人だった。脚立に乗り、指定された本に手を伸ばした瞬間、バランスを崩した老人の腕が、不意に朔の肘に触れた。
その刹那、世界が反転した。
インクの匂いが消え、代わりに錆びた鉄と潮風の匂いが鼻をつく。古書店の柔らかな照明は、どす黒い嵐の空に変わる。轟音。叩きつける雨。目の前で、小さな漁船が巨大な波に飲み込まれていく。「やめろ、行くな!」と叫ぶ自分の声ではない、しゃがれた絶叫。助けられなかった息子への、三十年経っても色褪せない絶望が、津波のように朔の心を洗い流していく。視界が涙で滲み、呼吸ができない。後悔の激流が、彼の全身をきつく締め付けた。
「……おい、大丈夫か、若いの」
現実の、心配そうな声が、朔を悪夢から引き戻した。気づけば彼は床にうずくまり、ぜいぜいと肩で息をしていた。冷や汗が首筋を伝う。
「いえ、少し、眩暈が…」
掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。これが、朔の呪い。触れた相手の、人生で最も色濃い後悔を、五感のすべてで追体験してしまう体質。それは幼い頃の事故以来、彼にまとわりついて離れない牢獄だった。だから朔は、人を避けた。温もりを拒絶し、孤独という名の城壁の内側で、死んだ物語だけを慰めに生きてきた。
そんな彼の牢獄の扉を、ある日、軽やかにノックする者が現れた。
「こんにちは。このお店、すごく素敵な匂いがしますね」
風鈴のような声だった。顔を上げると、そこに月島澪(つきしま みお)が立っていた。陽光を弾く柔らかな髪、こちらを覗き込む好奇心に満ちた瞳。彼女の周りだけ、埃っぽい店の空気が浄化されていくような、不思議な透明感があった。
「…ありがとうございます」
朔はぶっきらぼうに返し、視線を落とした。関わってはいけない。彼女の笑顔が眩しいほど、その裏にあるかもしれない後悔の影に怯えてしまう。もし彼女に触れてしまったら、この陽だまりのような存在が抱える最も暗い闇を、自分は覗き見ることになるのだ。それは、彼女への冒涜に他ならなかった。
しかし澪は、朔の心の壁など意にも介さないように、週に二、三度、店を訪れるようになった。彼女はいつも何かを探すように棚を眺め、そして決まって朔に話しかけるのだった。
第二章 指先のディスタンス
澪が『時の澱』に通い始めて、季節が一つ巡った。彼女はいつも、古い植物図鑑や、星にまつわる詩集を手に取った。彼女の指先が本の背をなぞるたび、朔の心臓は小さく跳ねた。その白く繊細な指が、もし自分の肌に触れたなら――その想像は、甘美な期待と、底知れぬ恐怖を同時に連れてきた。
「水島さんって、どうしていつも手袋をしているんですか?」
ある雨の日、店には他に誰もいなかった。雨音だけがBGMのように流れる中、澪はカウンターの向こうから、真っ直ぐに朔の目を見て尋ねた。
「…手が、荒れやすい体質なので」
ありきたりの嘘をつくと、彼女は「そっか」と納得したのかしていないのか分からない相槌を打ち、ふわりと笑った。「優しいんですね、ご自分の手を大事にしていて」
その言葉は、鋭い刃のように朔の胸を刺した。違う。これは優しさじゃない。自分を守るための、臆病な鎧だ。君のような人を傷つけないための、卑劣な防壁だ。
その日、彼女は一冊の分厚い本をレジに持ってきた。会計を終え、本を袋に入れようとした時、澪が「あ、そのままでいいです」と言って手を伸ばした。その瞬間、袋の中で本の角が傾き、床に滑り落ちそうになる。
「危ないっ」
二人同時に手を伸ばした。朔の革手袋の先と、澪の温かそうな指先が、触れ合う寸前で止まる。ほんの数ミリの距離。その隙間に、宇宙のすべての沈黙が凝縮されたような気がした。朔は稲妻に打たれたように、咄嗟に手を引っこめた。
ガシャン、と本が床に落ちて鈍い音を立てる。
「……ごめんなさい」
朔の声は震えていた。拾い上げようともせず、ただ立ち尽くす。澪は何も言わず、自分で本を拾い上げた。そして、一瞬だけ、その瞳に見たことのない寂しさの色が浮かんだのを、朔は見逃さなかった。
「……また来ますね」
そう言って店を出ていく彼女の背中を、朔はただ見送ることしかできなかった。自己嫌悪が、澱のように心の底に溜まっていく。彼女に惹かれている。日に日に、その想いは強くなる。彼女の笑顔を、声をもっと近くで感じたい。もし許されるなら、その手に触れてみたい。
だが、触れることは、彼女の魂の最も柔らかな部分を、土足で踏み荒らす行為に等しい。彼女がどんな後悔を抱えているのか、朔は知りたくなかった。例えば、かつての恋人を忘れられない後悔。家族との埋められない溝。あるいは、人生を左右するような過ちの記憶。どんなものであれ、それを知ってしまえば、もう二度と彼女の屈託のない笑顔を、同じ気持ちで見ることなどできなくなるだろう。
触れたい。でも、触れられない。この矛盾した感情の狭間で、朔はただ、彼女が残していった本のリストを眺め、その行間から彼女の心を読み解こうと、虚しい努力を続けるだけだった。
第三章 空白のパリンプセスト
指先のディスタンス事件から、澪はしばらく店に顔を見せなかった。ぽっかりと穴が空いたような店内で、朔は自分の臆病さを呪った。このまま彼女を失ってしまうのなら、いっそすべてを打ち明けて、彼女の闇ごと受け止める覚悟をすべきだったのではないか。
後悔、という感情が、初めて自分自身のものとして朔の胸を焼いた。
二週間後、澪はふらりと姿を現した。以前と変わらない、柔らかな微笑みを浮かべて。だが朔には、その笑顔の裏に薄い膜のようなものが張られているのが分かった。
「水島さん」
彼女はまっすぐカウンターに来ると、深呼吸を一つして言った。
「あなたのこと、もっと知りたいです」
その言葉に、朔の中で何かが決壊した。もう隠していることはできない。彼女をこれ以上、自分の都合で遠ざけることは、もっと大きな後悔になる。
彼はゆっくりと手袋を外し、震える素肌を露わにした。そして、自分の呪われた体質について、言葉を選びながら、誠実に語り始めた。触れた相手の後悔を追体験してしまうこと。だから、人と触れ合えないこと。君に触れたいと願いながらも、触れることが怖かったこと。
澪は黙って、彼の告白を聞いていた。その瞳は揺らぐことなく、ただ静かに朔の言葉を受け止めていた。すべてを話し終えた朔が顔を上げると、彼女はふっと息を吐き、そして、信じられない言葉を口にした。
「試してみる?」
そう言って、彼女はカウンター越しに、そっと右手を差し出した。白く、滑らかな、あの指先が、朔の目の前にある。
朔は息を呑んだ。恐怖と、抑えきれないほどの愛しさが、胸の中で渦を巻く。彼女の後悔がどんなものであっても、受け止めよう。それが彼女と繋がるということならば。彼は覚悟を決め、震える指先で、ゆっくりと彼女の指に触れた。
――その瞬間。
朔は、身構えた。激しい感情の奔流。痛み、悲しみ、絶望。どんなものが来ても耐えられるように。
しかし、何も起こらなかった。
嵐のような追体験はなく、ただ、信じられないほどの温かさが、彼の指先から全身へと伝わっていく。柔らかく、しっとりとした肌の感触。それだけだった。後悔の気配は、ひとかけらも感じられない。
「……どうして」朔は呆然と呟いた。「後悔が、ないのか…?」
澪は、彼の問いに、少しだけ寂しそうに微笑んだ。その笑顔は、まるで遠い昔に何かを諦めてしまった大人のようだった。
「私、後悔しないの」彼女は言った。「辛いことや悲しいことがあったら、その記憶に蓋をして、鍵をかけて、海の底に沈めちゃう。そうやって、何もなかったことにして生きてきたから。後悔なんて、する暇もなかった」
パリンプセスト。一度書かれた文字を削り落とし、その上に新たな物語を上書きした古い羊皮紙。彼女の心は、まさにそれだった。過去の痛みを絶えず消去し、真っ新な自分でいることで、彼女は自分を守ってきたのだ。
朔は、彼女の手に触れているのに、その心には全く触れられていないという、新たな断絶感に襲われた。彼女の強さは、同時にどうしようもない孤独の裏返しだった。彼女が過去に沈めてきた無数の痛みに思いを馳せ、朔は胸が張り裂けそうになった。ただ温かいだけの彼女の手が、世界で最も遠い場所にあるように感じられた。
第四章 はじまりの追体験
空白の告白から数日、二人の関係は奇妙な形で始まった。朔は初めて、手袋なしで彼女と会った。手を繋いで公園を歩き、カフェで同じカップからコーヒーを飲んだ。朔が恐れていた後悔の追体験は一度も起こらず、ただ穏やかで幸せな時間が流れた。だが、その幸福感の底には、常に一枚のガラスがあるような感覚がつきまとっていた。彼女の本当の心に、まだ触れられていないという感覚が。
その知らせは、一本の電話によって、突然もたらされた。澪が、交差点で車にはねられ、病院に運ばれた、と。
朔は、自分がどうやって病院にたどり着いたのか覚えていない。集中治療室のガラス越しに見えた彼女は、白いシーツの中で、まるで眠っているように静かだった。駆けつけた彼女の両親から、意識が戻るかは分からないと告げられた。
世界から、色が消えた。音が消えた。
許可を得て、彼女の眠る病室に入る。生命維持装置の無機質な電子音だけが響いていた。朔は、ベッドのそばに膝をつき、力なく垂れ下がった彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。温かい。けれど、いつものような、ただ温かいだけではなかった。
その瞬間、朔の全身を、今まで経験したことのない、鋭くも優しい何かが貫いた。
それは、紛れもなく後悔の追体験だった。しかし、誰かの過去の絶望ではない。たった今、生まれたばかりの、澪自身の後悔だった。
アスファルトに叩きつけられる衝撃。遠ざかっていく意識の中で、彼女の心が叫んでいた。
『――ああ、やっと分かった。後悔しないなんて、嘘だ』
『水島さんに会うために、急いで角を曲がったりしなければよかった。もっと、あなたのことを知りたかった』
『あなたに触れてもらえなかったこと、本当はずっと寂しかった。本当の私を見せるのが怖くて、過去を切り捨ててきた私の心を、あなたに知られるのが怖かった。でも、本当は…触れて、ほしかった』
それは、事故に遭ったことへの後悔ではない。朔と、もっと深く繋がりたいと願った、切実な愛の叫びだった。彼女が人生で初めて、過去を消さずに抱きしめた、たった一つの後悔。痛みと、愛しさと、どうしようもないほどの優しさが入り混じった、美しい追体験だった。
涙が、後から後から溢れてきた。でもそれは、かつて他人の後悔に苛まれた時の苦しい涙ではなかった。
朔は、彼女の痛みと愛を、自分の魂で確かに受け取ったのだ。もう、後悔を追体験することは怖くない。痛みも、哀しみも、その人を形作るかけがえのない一部なのだ。愛する人の痛みを、その魂ごと受け止めることこそが、本当の意味で「触れる」ということなのだと、彼は悟った。
朔は、澪の冷たくなり始めた手を、両手で強く、強く握りしめた。彼女の耳元に、静かに語りかける。
「澪さん。君の後悔は、僕が受け取ったよ。君が初めて作った、世界で一番美しい後悔だ」
「だからもう、君は大丈夫。これからは、二人で新しい記憶を作っていこう。後悔なんかじゃない、未来の記憶を。だから、目を覚まして」
彼の顔に、もう呪いに怯える孤独な青年の面影はなかった。痛みを知り、愛を知った人間の、静かで力強い光が宿っていた。
電子音が、規則正しく時を刻み続ける。その響きは、終わりを告げる音か、それとも新たな始まりを告げる産声か。答えはまだ、誰にも分からなかった。だが朔は、ただひたすらに、彼女の手を握りしめ続けた。二人の魂が、初めて本当の意味で触れ合った、その温もりを確かめるように。